『混ざり者』
◇
『――私たちにとっての『生きる』っていうのはね、殺すってことなの』
戦場。修羅の笑む場所。
『別にそれが悪いことってわけじゃなくて、いや悪いことなんだけど、だから生きないっていうのはもっと悪なわけだから』
そう言って微笑む、白の少女。
『自分のために生きることは『いいこと』で、そこに何かのため、なんてややこしいものを付け足すから、みんな面倒くさくなっちゃうんだと思うの』
“みんな”と言いつつ、それは僕と、何より彼女自身に向けられていた言葉だった。
『何かのために生きるのは面倒で辛くて、それでとっても美しい。だからそうありたいと願う人は多くて、そうあろうとする人も多くて、だけどそうあり続けられる人は殆どいない。だってそこに『自分』はいないから』
そう言いながら、彼女は泣くように笑っていた。笑うように彼女は泣いていた。
『私は、駄目だったよ』
そんな、いつかどこかであったかもしれない、ごく個人的なエピソード。
『ごめんね、ハルカ』
今はもういない彼女との、最期の最後の刹那の時間。
……あぁ、走馬灯か、コレ。
◇
意識が現実に回帰する。
「――っ」
走馬灯を見ていた時間はどうやら刹那だったらしい。気付いた時、崩れ落ちる立方体、その位置は殆ど変わっていなかった。
……けど、走馬灯を見るってことはこのままだと死ぬってことなんだろうなぁ、多分。
走馬灯、イコールで肉体による死の直感。
体の方が頭より先にそれを理解したというわけだ。
「……あー、クソ」
だからと言って、今更どうしようもない。
とりあえず、落ちてくるマンションに向けて手を伸ばした――瞬間。
「なっ――にをしているんですか、この馬鹿!」
声とともに訪れる、先刻ぶりの凄まじい圧力。
降り注ぎ始めた瓦礫を避けながら僕たちは――というより汐霧は、超高速で殺傷力の暴風雨から脱出する。
――瞬間、背後で轟音と衝撃が轟いた。
振り返ると1メートルも離れていない場所に巨大な楔のような瓦礫が突き刺さっている。
先刻僕の立っていた場所に至っては、最早目視も出来ない様相だ。
身を隠すためすぐ近くの路地に入り、直後に汐霧の加速が終わる。
「加速、解除します……はぁっ、ここまで来れば……はっ……ひとまず安全、かと」
流石に人一人を引っ張った状態での長距離加速は堪えたのか、汐霧は荒い息を吐いている。
見た限り、彼女の使う加速の魔法は個人による短距離移動用だろう。それを自分の魔力で無理矢理拡張して使ったのだから、その疲労は計り知れない。
恐らく今は、喋ることすら辛いはずだ。
「ごめん汐霧、無理させた。ほら、喋らなくていいから楽にして――」
「――ッ!」
瞬間、バチッ! という音が弾けた。
首を無理矢理回され、景色が勢い良く右へと流れる。
右頬に感じるジンジンとした熱い痛みから、頬を張られたのだと遅ればせながら理解した。
……何故だ。Why?
「……いやあの、今のはセクハラとかそういうのじゃなくてね?」
「死にたいんですかっ、あなたは!?」
思い切り怒鳴られた。しかも弁明の方は完璧に的外れだったらしい。
「……はは、なんかデジャヴだね、その質……」
そこで、汐霧が足を一歩前へと出した。目にも留まらぬ速度の平手がもう一発、今度は左頬に。
口の中が切れたのか、血の味がじわりと広がる。
「私は真面目に話しているんです。ふざけるのもいい加減にしてください……!」
押し殺した声でそう言う汐霧は、未だかつてないほどハッキリと激怒していた。
その殺気にも似た剣幕に圧され、喉元に転がっていた言い訳はあっさりと霧散する。
汐霧の言っていること――僕が死のうとしていたということは僕にとって、論議のしようもないほどに完璧な不正解だ。僕は絶対に死ぬわけにはいかないし、死にたくもない。
しかし彼女から見た僕の姿――それは瓦礫が降り注ぐ中、それを避けようともせず手を伸ばしているというものだった。
確かにこれじゃ自殺、いや他殺志願者そのままだ。弁解の余地もない。
「……さっきのはお前が思っているようなものじゃない。誤解だ」
兎にも角にも、今の誤解を正解と思われることだけは避けなくてはならない、と僕は口を開く。
と――その時。
「うおっ……!」
「きゃっ……!?」
突然訪れた強烈な衝撃に堪らず、僕と汐霧はその場に膝をつく。
隠れていた、もしくは辺りで様子を見ていた住民の悲鳴が響いてくる。
音と衝撃の大きさからして発生源はすぐ近く、倒壊したマンションと僕らの現在地の中間ほどにある廃屋からだ。
この状況、思い当たる原因は、一つだけ。
「……言い争いをしてる暇はないみたいですね」
「汐霧」
「勘違いしないでください。先の行動を許したわけじゃありません。あとでしっかりと言い訳を聞かせて貰いますから」
そう言いながら、汐霧は懐から大型の拳銃を取り出した。
ナツキM220、正規軍で採用されている拳銃だ。
その黒色の銃身に先ほどの髪飾り同様、魔力を纏わせていく。
「【武装換装装填魔法・コードアサルト】」
魔法の起動句、魔法名。光が収まり、魔法が完成した。彼女の持つ拳銃が――
「あれ、変わってない?」
「カラフルは性質変化の魔法です。いつも見た目が変わるわけじゃありません」
「なら、その銃はどういう?」
「別に。魔導銃の効果を付けただけです」
「魔導銃って……」
魔導銃とは銃弾そのものが使用者の魔力で創られる拳銃のことで、現代の主流である銃弾に魔力を付加して撃つ拳銃とは根本から異なっている。
魔力を弾に込めるだけなら誰でも出来る。その弾は込めた本人以外でも使えるし、実際の戦場でも弾の貸し借りだって出来る。
しかし、魔導銃は圧倒的な個人用。使用者以外には使えない、完全な専用銃だ。
銃弾を魔法で創るという性質上、拳銃に比べて扱いが難しく安定性に欠けるため、軍などではあまり好まれない。
その半面、威力や応用性など各スペックは段違いに高いため、高ランクの魔導師にはこちらの方が好まれている。
簡単に言って、玄人向けの代物。
当然拳銃とは造りからして全く別物なので、こともなげに言う汐霧に半眼を向ける。
「だけで済むようなものじゃないだろ、それ……」
「お喋りは終わりです。私たちが背にしている廃屋の上から奇襲を掛けます。私が前衛、あなたは後衛で援護です。いいですか?」
「……ごめんなさい無理です」
「は?」
怪訝げな顔を向けられた、と思う。確認していないから確証はない。
これから数秒後の彼女を直視出来るような勇気は、僕にはない。
視線を逸らしたまま、告白する。
「その昔、ちょっと魔法で事故ってね。そのせいで複雑な魔法が全く使えないんだ。援護や支援とか、遠距離系なんて学院で習う初級のくらいがせいぜいで……鋼糸は味方の邪魔にしかならないし」
鋼糸はその性質上、とにかく目視が難しい。暗器だから当然といえば当然なのだが、一緒に戦う味方からすれば迷惑極まりないはずだ。
ちなみに、僕の鋼糸は魔力を通すことにより、意思通りに動かせるという特性を持っている。
この特性の恩恵で、魔法が満足に使えない僕でも自在に操ることが出来ているのだ。
そう言うと、汐霧は底冷えする視線を向けて来た。……気持ちは分かる。本当にすいません。
「……。さっきみたいに死のうとされるよりはマシです。それでいいからやってください」
「りょ、了解」
「……行きます。続いてください」
汐霧は一度身を屈めて力を溜め、斜め上へと跳んだ。
路地を挟む二つの民家、その壁を交互に蹴り、屋根の上へと躍り出る。
これは『三角跳び』という技術で、学院で習う基礎の一つだ。このくらいなら僕でも出来る。
同様にして屋根の上へと出ると、そこに既に汐霧の姿はなかった。
――直後、連続して街に銃声と破砕音が響いた。
見ると、既に汐霧は戦闘を開始していた。
彼女の視線の先にはボロボロの外套を目深に被った――というより引っ掛けている人形が一つ。
体格、身につけているものから、アレが依頼の対象なのは間違いないだろう。
髪や肌は全て気味の悪い灰色に染まっており、体の所々が遠目でも分かるほどデコボコと膨らんでいる。
身体中から放っている暗色の霧は、奴の手にした禍力の発露だ。
パンドラの血による人とパンドラの中途半端で不完全な融合。その行き着く先が、今の彼の姿そのものだった。
通称、『混ざり者』。
そんな相手に向けて、汐霧は崩れた街通りを走りながら左右の手で拳銃を乱射していた。
「って、行くの早過ぎるだろっ……!!」
僕の存在、完璧に無視。これじゃ手を組んでいる意味がない。
……ああ、でもアイツからしたら僕がいようがいまいが意味ないのかもしれない。何しろ彼女の中で、僕は無能な自殺志願者なわけだ。
いない方がいいとか思われているかも――というか独りで先行したあたり、間違いなくそう思っているはずだ。
「となるとここは手を出さない方がいいのかな……って、いやいや」
ヘタレな思考に逃げかかるも、首を振って思い直す。この依頼は汐霧父からのテストでもあるのだ。
汐霧は父親に嘘を吐けないみたいだし、このまま役立たずしてたら切られる可能性が高い。
ここは彼女に言われた通り、この場所から後方支援に徹するとしよう。
……汐霧も『混ざり者』もかなりのスピードで戦っているから、上手く出来る自信は露ほどもないけど。
「取り敢えず、一発だけ撃ってみようかな……?」
物は試し、ということで右腕を砲身に見立て、左手で支える。
手のひらに魔力を集めて、集めた魔力の形を整えて――
「【ショット】」
一気に解き放つ。
魔法【ショット】。効果はその名の通り魔力を弾丸にして撃つという至極単純なもの。
単純な分魔法の構造も簡単なので、僕でも何とか使える遠距離魔法だ。
放たれた魔法の弾速は、小口径の拳銃と同程度。弾丸は空を切り裂きながら『混ざり者』へと直進する。
よし、当たる―――!
「……あ」
パァンッ! と音を立てて僕の魔法が掻き消された。
――戦闘の過程か、瞬時に敵と場所を入れ替えた、汐霧の手によって。
汐霧はこちらを一瞬睨み、声を張り上げる。
「このッ……どこを狙っているんですか!! ちゃんと狙ってください! 敵を!」
「ご、ごめんよー……」
怒鳴られて萎縮する僕と舌打ちして戦闘に戻る汐霧。……情けなさ過ぎるだろ、僕よ。
「――ッ!」
一方汐霧は今の一幕がなかったかのように、再び『混ざり者』へと疾駆する。
走り寄る敵に向けて、『混ざり者』はその異様に膨らんだ腕を振るった。
ドンッ! という空気を撃ち抜く炸裂音――攻撃の速度が亜音速を超えた音だ。更に拳からは禍力が立ち昇っている。
当たれば致命は免れない。
破壊と腐敗の性質を持つ拳が振り抜かれ――
――しかしそれを、彼女は紙一重、難なく躱した。
「――沈め」
低く呟いて、左腕が残像を作るほどの速さで拳銃をバケモノの下半身に照準。【コード・リボルバ】が瞬間的に三度光を吹く。
『――――――――ッッッ!!!!!』
人としての痛覚は残っていたのか、『混ざり者』は激痛に絶叫しながらも反対の腕で少女を薙ごうとする。
しかし脚を撃たれたせいか反撃に力がない。当然、そんなものが汐霧に通用するわけがない。
敵の反撃を容易く潜り抜けた汐霧は、瓦礫だらけの地面ごと潰す勢いで『混ざり者』の足を踏み付ける。
――そして、彼女の姿が一瞬霞む。
『ッッ!』
瞬間、バケモノのデコボコとした巨体が吹き飛び、辺りにブチリという生々しい音が響いた。
音の出所は『混ざり者』の左足首。その先にあるはずの足がなくなっている。
結果から考えて彼女が行ったのは加速してからの体当たりだろう。
体が霞んだのは加速魔法によるもので、その衝撃に耐え切れず押さえつけられていた足が千切れたのだ。
「――ふッ!」
一瞬の気勢、再びの加速。
汐霧は吹き飛ぶ『混ざり者』に追いつき、【コード・アサルト】の銃口をその体の中心――心臓の位置に押し付ける。
パンドラ化しているとはいえ、所詮は不完全なものだ。
例え心臓に核がなくとも、人間としての急所を潰せば充分に殺せる。
確実に殺せる要素が揃ってしまったことを、『混ざり者』もバケモノの直感で理解したらしい。
吹き飛びながら、身の毛もよだつような絶叫とともに腕を構えた。
「っ!」
空中で汐霧が霞む。
その直後、彼女のいた場所を紫紺の輝きが撃ち抜いた。
禍力のレーザー。腐敗と破壊の性質を持つ光線だ。
魔法を使える人間がパンドラ化した場合、生前使えた魔法を禍力で再現する個体は少なくない。
魔法はあくまで人間用の技術なので難しいものは使えないが、それでも脅威度は跳ね上がる。
紫紺のレーザーは瞬く間に空を駆け、後方の街並みに風穴を開けていく。高速、更に高威力。
純粋な脅威度でいえば、そこらの戦車砲を余裕で上回っている。
――しかし、そんな凶悪極まるものですら、Aランクの魔導師にとって大した問題ではなかったらしい。
彼女は撃たれるレーザーを激しく動き回って三次元的に避けながら、再度『混ざり者』へと肉薄していく。
夥しい数のレーザーが放たれるも、その殆どを動体視力と反射神経、身体能力だけで躱してしまう。当たれば、という仮定は仮定の域を越えようとしない。
実力差は圧倒的。相手の手札も出尽くした。決着は時間の問題だ。
僕何もしてない、というか邪魔しかしてないけど――
「ん?」
一応解いてなかった戦闘態勢を解こうとして、やめる。視界の端に、少し厄介なものを見つけたからだ。
建物をゴミに変えながら戦う汐霧と『混ざり者』。
その戦闘のフィールドに、入り込んだのだ。
痩せ細った、貧相な身なりの――小さな女の子が。
「あ……あぁ……っ」
その少女は目に大粒の涙を浮かべながら、ペタンとその場に尻餅をつく。命の危機による危機で体が竦んでしまっていた。
少女の場所は運悪くも『混ざり者』の後方だった。
言い換えれば、汐霧といえどすぐには助けに行けない位置。
そして――奴にとってはいつでも殺せる位置。
『―――』
『混ざり者』はおもむろに腕を少女へと突き出す。まず、近くの獲物から仕留める気だ。
こういう場合の対処は、とにかく敵の注意を引き付けることが重要だ。
片方が囮になって敵の注意を引き付け、もう片方が救助する。この場に二人いるのは不幸中の幸いだった。
しかし、彼女の方はそうは思わなかったらしい。
「汐霧! 救助に回るから敵を抑えて――」
「コード・リボルバぁッ!」
汐霧が加速する。
目標は『混ざり者』――ではない、その後ろの少女――!
「馬鹿が?!」
それを認識した瞬間、僕は穴だらけの廃屋から真っ逆さまに飛び降りた。
落ちながら鋼糸をばら撒き、魔力を通す。
汐霧は先ほどから、加速している時は魔法を使っていない。そうすればすぐに決着させられるだろうに、していない。つまり出来ない可能性が高い。
そしてどんなに加速しても『混ざり者』が撃つ前に少女を救出することは出来ない。位置と時間を考えれば、着弾と同時に少女の所に辿り着くのがせいぜいだ。
出来るのは、身を挺して庇うことくらい。
要するに、彼女は死ぬ。このままでは。
「【ショット】ォッ!」
鋼糸の魔法陣が完成する。魔法陣が輝き、魔法の威力を底上げする。
以前の時とは違い、コレは威力を上げるだけの単純なもの。その代わり、弾丸を砲弾に変えるくらいは出来る。
正直上手くいくかは賭けだが――もう、これしかない!
僕は右腕を突き出し、魔法を解き放った。
パンドラでもなく、汐霧でもなく――眼前に迫り来る、地面へと向けて。
――ドォンッッッ!!!!!
魔力の砲弾が着弾し、辺りに衝撃を撒き散らす。
刹那、汐霧が少女の下に辿り着き、同時に禍力のレーザーが放たれた。
「かはっ――」
呆気なく、レーザーが汐霧の体を貫いた。彼女の左胸、その僅か上から血が噴き出す。
多分致命傷――けど、即死は免れた。強化された【ショット】の衝撃で、『混ざり者』の狙いが少しだけブレたから。
汐霧はまだ、生きている。
だからこそ今は、とにかく目の前の敵を処理する必要がある。
「――【キリサキセツナ】ッ!」
鋼糸に多量の魔力を流し込む。魔法が完成する。
切れ味を馬鹿みたいに上げるだけの、安易で、単純で――強力な魔法。
鋼糸が巡り、汐霧にトドメを刺そうとしていた『混ざり者』の右腕を切り飛ばした。
『―――――ッッ!!』
絶叫する『混ざり者』。
僕は追撃の鋼糸を繰るも、それが当たるより早く『混ざり者』は僕の領域から抜け出し、崩壊したスラム街を逃走して行く。
僕はそれを追わず、倒れた汐霧に駆け寄る。
「ぁっ……か、ふっ……」
汐霧は細かく痙攣しながら浅い呼吸を繰り返していた。
撃ち抜かれた場所からはとめどなく血が溢れ、呼気にも血が混じっている。位置的に、肺をやられているようだ。
それだけならまだいい。現代の回復魔法なら、そのくらいなら何とかなる。延命処置をしながら病院に連れて行けば充分に助けられるだろう。
彼女が喰らったのが、普通の攻撃だったなら――
僕は半ば諦観に支配されながら、溢れ出る血、その源泉となっている傷口を観察する。
その場所からは、暗色の瘴気が立ち昇っていた。
「……やっぱり、か」
禍力による汚染現象。禍力は全ての生物にとって猛毒に等しく、触れた者を侵食し、汚染する。
先ほど汐霧が『混ざり者』に体当たりを仕掛けたように、魔導師であればパンドラに触れるくらいなら問題ない。自身の魔力によって一定度禍力をレジスト出来るからだ。
が、密度の濃い禍力――禍力による攻撃、それも直撃となってはその限りではない。
如何に優れた魔導師だろうと汚染され、体を内側から破壊される。
今の、汐霧のように。
「あ、ぐ……ここ、は」
その時、汐霧の瞳に意識が戻った。弱々しく腕を動かし、傷口に重ねる。
「あ、ぁ……思い、出しました」
「喋るな馬鹿。発狂して死ぬぞ」
今、彼女の中では着実に汚染が進行している。
その痛みは並ではない。精神をヤスリで削られるような痛みが彼女を支配しているはずだ。
もしくは、その痛みすらもう感じないのか。
「お、んなの子、は……?」
「……もう逃げたよ」
少女は『混ざり者』が逃げた瞬間、抜けた腰を引きずって這々の体で逃げて行った。
目の前で死に掛けている恩人を気にも掛けず、見捨てて、ただただ自分のために。
そしてそれはこの場において、とても正しい行動だった。自分の命を捨ててまで赤の他人を救うことに意味なんてない。
いや、むしろ間違っている。命を大切にしないことが正しいなんて、絶対にあるはずがない。
だからあの少女は褒められこそすれ、責められはしない。
大体コイツは何故、突然あんな素人同然の動きをしたのか。
実力通り、冷静に動いていればこうはならなかったのに――
「……クソ。汚染が酷過ぎる」
応急処置により血は何とか止まりそうだが、どうしても汚染が止められない。
そもそも禍力による汚染は『浄化』という最も習得が難しい系統の魔法でないと治せないのだ。回復魔法すら使えない僕には、逆立ちしても無理な話。
額に流れる汗を拭う。
救急車は呼んだ。回復や浄化などの魔法に特化した魔導師が来るため、彼らが到着さえすれば助けられる。
だが、汚染の程度と速度が致命的だ。
このままじゃ十中八九、救援が来る前に汐霧は死ぬ。
「せめて、汚染さえ消せれば」
汐霧は回復魔法が使えると言っていた。汚染さえ消せれば、例え気絶しようと汐霧自身の手で救援が来るまで持ちこたえられるはずだ。
問題は、僕がそれを出来るかという話。
――無理だ。出来ない。
首を振る。僕にとってその選択肢は、いろいろと足りないものが多過ぎた。
出来ないなら、仕方ない。だったら、せめて。
「今、楽にしてやるから」
僕は、勝手な消去法で導き出した手段を取る。
汐霧の頭にそっと、右手を添える。
「―――」
汐霧は抗わなかった。
泣きも笑いもしなかったし、遺言の一つも言わなかった。
ただ――ゆっくりと目を閉じた。
「……クソッタレ」
吐き捨てて、僕は力を解放した。