正体
「―――りょ、ぅき……」
自分のつぶやく声で目が覚めた。
薄暗い部屋と木目板の天井。ふるくたびれた紙のにおいが充満していた。
…ここは。
「桐彦君…」
心配そうな女性の声。ゆっくりと体を起こして周りを見ると、ドアを開けて入ってくる、鮮やかなグラデーションの髪の――あかねさんが立っていた。
ああ、どこかで見たことあると思ったら、ここはヴィツィオ書房のバックヤードだ。
「あかねさん」
「…正義課に襲われているところを、唄春たちが見つけて連れてきたらしいの。…覚えている?」
それは。
あのおぞましい一件のことだろうか。
「っそうだ、」
腕……!
フードの男にちぎり落とされた腕はどうなっているのか。とっさに自身の腕を見ると、両方対になりきちんと存在していて、それどころか折れたと思っていた肋骨当たりも、焼けるのような痛みも全くなくなっていた。
「……夢じゃない」
しかし、俺の着ている服の右腕部分は、肩付近からちぎれてなくなっていた。身に着けている服もボロボロだった。それらが先ほどのことが嘘ではないと物語っていて。
「あか、ねさ……」
声がかすれる。
「俺、どうなっちまったんですか………?」
笑っているつもりが全く笑えなかったひきつった口と、引き攣る声が恨めしい。
俺の、体は。
右腕が巨大化し意志を持ち、例え骨を折られようが回復し。
何もわからないまま少女には有無を言わさず攻撃されて。
「俺は、何者なんですか」
人間では、ないのですか。
そう問いかけると、あかねさんは辛そうに唇をかんで口元を抑えた。
「お前さんは“妖怪”だよ」
あかねさんの後ろから、気怠そうな声が聞こえ、男が入室してくる。
黒に白いメッシュの入った頭髪をがりがりと掻きながら、あふ、と一回だけ欠伸をして俺の眠っていたソファに端に思いっきり腰掛けた。どすんと音がして俺の体が跳ねる。
気怠そうなその男は、顎に無精ひげを少したくわえており、よく見ると瞳は白濁していた。
「誰、すか」
「店長の白秋だ。桐彦、だよな」
「……はい」
これがジオとあかねさんが言っていた店長か、と思った。
それよりも気になったことは。
「俺が“妖怪”って、どういうことですか…?!」
「自分でも気が付いてんだろ、自分が異質だってこと。お前は、自分の腕がおぞましくなったことを日常というか?腕を切り落とされても再生するものを人間と呼ぶか?――記憶がない自分を、『人間』だと自信を持って、言えるか?」
ずいっと近づいてきた白秋さんは、俺の顔をのぞき込み、その白濁した瞳でじっと俺を見つめた。息が詰まった。
全てが、noだったから。
「話聞く限り、お前は『鬼』の子だ。ハーフなんじゃねえの」
ショックで呆然とする俺をよそに、白秋さんは淡々と話を続けていく。
「あー、めーんどくせ。…お前に説明しなくちゃなんねぇことがいくつかある。
一つ目、お前がさっき襲われた、妖滅人のことだ。妖滅ってのは正義課の隠語な。
今じゃどの国にも、『妖怪を取り締まる・滅する』ための機関が作られてる。日本でいうところの『正義課』ってやつだ。正式名称は対妖怪殲滅特殊零課。まあ警察みたいな組織だな。
そいつらは、お前や俺たち妖怪をすべて駆逐することを掲げ、妖怪から作った武器で毎日毎日同胞を殺しまくってる。人間に反抗する妖怪も、人間を愛する妖怪も構わずだ」
そこで言葉を区切る白秋さん。少し苦しそうな表情だった。
「二つ目。俺や、あかねや、ジオや、お前は、“妖怪”だ。人ならざる、嫌でも人を傷つけてしまう能力を持つ存在だ。ヴィツィオの従業員は、全員行き場をなくした妖怪どもだ」
白秋さんは、その時だけ淋しそうな声をしてつぶやいた。
妖怪。
俺が、妖怪。
「ごめんね桐彦君。本当は、ジオがここに連れてきた時から君が妖怪だって気づいてたの。でも記憶がないって聞いて、まるで人間みたいにふるまってるから、それだったら気づかない方が幸せなのかなって思って黙っていて…。こんな風になるなんて、思わなくって。本当にごめんなさい」
あかねさんが豊かな髪を靡かせて頭を下げた。なんだかその背中がずいぶん小さく見えた。
「……信じられねっす」
だって、妖怪だなんて、今の今まで遠い存在で。
そう思って、自分で口をつぐむ。そうだ。今の俺には、四日前までの俺が“妖怪ではなかった”と豪語できる証拠は、…一切ないのだ。
「信じなきゃいけねぇことだよ。少なくともお前は、自分の記憶を取り戻したいだろ。だったら目ぇ逸らしちゃいけねぇよ」
白秋さんは言う。
「じゃあ」
俺の中の理性が抑える前に、俺の口からぽろぽろと何かがこぼれだしてきて、止まらなくなってしまった。
「どうすればいいんですか。これからどうやって生きればいいんすか。妖怪だって急に言われて、殺されそうになって、自分が化け物だって認めろって?!認められるわけないじゃないすか、過去の俺が何だろうと……!」
吐き出しながら視界がにじんだ。胸がぎゅうっと痛くなって、どうしようもなくて大粒の涙が零れた。
「俺には、“今”しかないんだよ…!」
情けなく笑いながら顔を覆った。
もう、過去なんていらない。今だけで、いいから。
せめて、静かに生きさせてくれ。
「坊主」
白秋さんが俺の頭をゆっくりと撫でた。人のぬくもりがじんわりと頭を伝って全身に巡るような気がした。
「妖怪はな、どう足掻いたって人間とは共に生きられない。騙し騙されながらじゃないと隣にはいられないんだよ。
きっとお前はこのまま日常生活に溶け込んで人間として生きれば、お前の大切な人を傷つける。
――今日のように、制御ができなくなったらどうする?その時一番後悔するのはお前だ。その後悔をなるべく小さくさせてやりたいんだ、おじさんは」
ずび、と鼻をすすりながら、白秋さんの『大切な人』のくだりでリョウキが真っ先に思い浮かんだ。
リョウキは。
さっきの俺の歪な腕を見て、果たして今まで通り接してくれるだろうか。
最悪、彼を殺してしまうかもしれないのだ。
「ひぐっ……んなの、嫌に決まってるじゃないですかぁぁっ」
びえええと情けない声を上げてなく。
「でも、っでも、俺に居場所なんてないじゃないですかっ。人間じゃないって言われても、俺の居場所はそこしかないんすよぉぉっ、ずびっ」
「あるじゃないか」
いつの間にかバックヤードの入り口に立っていたジオが、少しだけ同情を浮かべた、それでも少しも表情を変えないで言った。
「大丈夫、キミの居場所は、ここにあるよ」
言って、笑った。初めて見るジオの表情の変化だった。
トントン、と軽い足取りで駆けるように俺の前まで来て、目をぐしぐしとこする俺の手を取って立ち上がらせた。
「オレ達はキミを歓迎するよ。仲間だもん」
仲間、だと。
歪で異質で異様な俺のことを、ジオはそう呼んだ。
もう一度、先ほどとは違う意味の涙が込み上げてくる。
「………考え、させてください。冷えた頭で、もう一回考えたい。白秋さんには悪いけど、やっぱり妖怪は怖ぇし、自分がどうなってるのかもわかんない、から」
ぎゅっとジオの冷たい冷たい手を握り返して、うつむいたまま言った。「おう」と白秋さんはそれだけ言うとバックヤードを後にする。
俺を助けてくれたあの二人にお礼を言ってもらうことをあかねさんと約束し、ジオの服を借りて、お騒がせしてしまったことをもう一度謝ってヴィツィオをあとにした。
今度は、ジオに甘えて自分の知っている道まで連れて行って貰った。
ジオのやけに冷たい手が、なんだかその時だけは心地よかった。