崩壊
ま、迷った…。
それもそのはず、ジオに手を引かれるまま道も覚えずここまで来たのだ、帰り道なんぞこれっぽっちも知る由もない。なのになぜ浮かれ気分のまま送迎を断ってしまったんだ…。
さっきから同じ薄暗い道をぐるぐるとまわっている気がする。
こんなことになるなら、ジオに送ってもらえばよかったのだ。十数分前の俺を殴りたい。
それにしても。
この地域というか区域は、異様なほどに静かだ。人の気配が全くしない。現に、このビルが立ち並ぶ石畳の広く長い道には、俺しかいない。ぽつん、ぽつんと一定区間で街路樹と街灯が生えているだけだ。
電柱には『切国町』と彫られていて、その名前は帝都に一番近い大都会の町の名前だったと記憶している。リョウキの住むあのボロアパートから大分離れてきたのだなと改めて感じた。
淋しい、街だ。
「……引き返すか」
そう呟いて踵を返す、と。
「見つけた」
少女が、居た。
「へ?」
ショートカットの金髪に、恐ろしく白い肌。酷いビル風に白いフリルのワンピースがバッサバッサとなびいていて、白い膝小僧がちらちらと覗いていた。この錆びれた街の概観にそぐわない、違和感を覚えるその少女を、見たとたんに。
「あ˝……?!」
ズキン、と急激な頭痛が俺を襲う。頭が締め付けられているようで、頭が、割れてしまいそうな、苦しくて、視界が、ゆがんで。
≪ぼくたちで名前をつけよう。それがいい≫
≪いいな、それ≫
≪賛成!≫
俺の声と、知らない二つの声が頭の中で会話する。俺の知らない、いや、俺の忘れている記憶が騒めいて、共鳴している。
俺は、この少女を、知っている。
【見回り抜けてきたかいがあったねー、零】
「妖怪臭い、から」
【ま、人間だったらごめんなさいだけど。すっごいプンプンするんだよねぇ臭いが】
少女の胸についているトランシーバーから、まだ若さの残る、それでいて達観したような男の声が聞こえてきた。零?いや、違う、彼女は零なんて名前じゃなくて、確か…。
『楓、とかどうかな』
「カエデ――」
無意識的にそう、つぶやいた。
今まで何にも反応を示さなかった零の肩がぴくりと動き、瞳の中に仄暗い動揺の色が広がった。明らかに狼狽している。記憶にはないが、矢張り俺は彼女と知り合いだったのだろうか。
【何、零ちゃん彼と知り合い?】
「……知らない」
ふるふると首を振り、まるで何もないかのように、まるで何物からも目をそらすようにうつむいた。
【んー、まあいいや。零、命令。あの男を殺せ】
「了解」
静かにトランシーバーの声にこたえると、ダッと駆け出した。勿論、俺に一直線に。
「ッ…」
息を呑む間に少女は眼前に居て、逃げる間もない。空気を切り裂いて猛スピードでふり払われた脚が俺の脇腹に直撃する。細っこくて今にも折れそうな癖に、その足は重力を見事に味方につけ鞭のようなしなやかさで蹴りを放った。
「がぁッ」
激痛。空気がせりあがってくる感覚とともに、ボキボキという嫌な音が体内に響いた。
ああ、これは肋骨二、三本折れたな…。達観しながら妙に冷めた頭でそう考える。
吹き飛ばされて、レンガ造りの壁にたたきつけられる。なすすべもなくそのままズルズルとへたり込んだ。
口の中が切れて、鉄の苦い味が広がっている。実に不快だ。
なんだ、これ。
なんで俺、こんなところで見知らぬ少女に蹴られて死にそうになってんの。
なんでだよ。
なんで、だよ…!
腹が焼けるように熱い。痛い。呼吸が、できない。
とにかく、逃げよう。あの恐ろしい少女から逃げないと、殺される。体の奥底の本能的な恐怖が、本能がそう告げている。
「っは、……っぁ、だれか、助けっ…」
立とうとしても力が入らず、結局ズルズルと這うような形でしか動けなくて、じわりと涙が浮かんだ。苦しい。
声を出そうにも息を吸い込むたびに脇腹が灼熱のように痛む。この少女は妖怪なのか。俺を殺して、喰うつもりか。
コツコツ、と少女が踵を鳴らして近づいてくる。俺の歯もガチガチと鳴った。
「く、来るなぁっ…!化け物、妖怪が!」
俺のそのありったけの叫びに、少女は口を少しゆがめて足を速める。
「化け物?」
動けずにへたり込む俺の右足を見せつけるように踏んで、
「化け物は、そっち」
「バギッ」
踏んで、圧し折った。
「あ˝あぁあ˝あぁあぁあ?!」
あし、アシが、脚が痛い、いだい˝ッ……。
「俺、がッ……俺がなに、したってんだよぉッ……!」
普通に生きてた筈だろ?!なんで、なんで今日に限って…!
ジジ、と零の胸についているトランシーバーからノイズがあふれ出る。少し苛立った様子の冷たい男の声は、乾いた笑みをこぼして囁く。
【妖怪は、生きてるだけで有害なんだぜ?】
なんだよ、それ。
妖怪?俺が、妖怪だって?
少女が動けない俺の首にそっと手をかける。
…ああ、終わりだ。
ぐぐぐっとその小さな掌に力がこめられ、頭の奥がぼうっとしてくる。
嫌 だ 。
死 に た く 、 な い 。
死にたくないっ…!!
「があああああ!」
俺ののどから無意識に漏れ出す咆哮。バキボキ、という異様な音と体内に走る激痛、かすむ視界。
目を見開いた零が、一瞬で横殴りに消えていった。
否。何かに横から叩き付けられて、吹き飛んだんだ。
何に?
「がは、……っは、はぁぁぁっ…!」
息を吸い込みせき込みながら、何か違和感の残る右側をちらりと横目で見た。
腕だ、と直感的に思った。
赤黒い肌、ぼこぼこと浮き出た血管、長く青白い爪、それはそれは巨大な、幹のような腕だった。人間の腕とは明らかに違う、浮いた異質なそれは。
最も驚くべきは
「…うぇ?」
その歪な腕は、俺の右肩からにょきにょきと生えているのだということだった。
【零、彼が人間ってタカくくってたでしょ~】
「……」
【ちょ、ガン無視?!】
スカートの砂を払い、口から流れた血を手の甲で拭いながら零が立ち上がる。でも、そんなの目に入らないくらい俺は動揺していて。
俺の、腕??なにこれ、ちがう、おれのじゃ、ない…!!
「うああああッ…?!」
嫌だ、なんだよこれ、さっきまで、普通の、腕でっ…!
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、そうだ、夢、夢だろ?!なぁ嘘だっていってくれよ…!
「助けて、リョウキッ…!」
走り出す零。
それに反応して、かつて俺の腕だったそれが、爪を地面に突き立ててざかざかと恐ろしい速さでその小さな体へと動き始めた。
まるでその腕は自我があるかのように動き、俺はその腕に引きずられ地面にガリガリと削られる。
「や、やめろ!とまれ、止まれよ…!おい!!」
このままじゃ、あの少女が死んじまう…!
俺の意思に反して、最早俺の腕ではなくなったそれは、ガリガリと地面をひっかき俺を引きずり、そして向かってくる少女に向かって鋭い爪を大きく振り上げた。
「とまれってばぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「はぁい、ストップゥー。前ぽんいけ!」
「命令してんじゃねぇ、撃ち殺すぞ」
二つの声が、聞こえた。
「ガキィィィィン!」
零はその声の主にまたもや吹き飛ばされ、俺の目の前から姿を変える。もう一人の長身の男が持つジェラルミンケースにがっちりと受け止められ、俺の腕は進撃を止めていた。
「……仕方ねぇな、痛ぇけど我慢しろよ」
フードを目深にかぶったその男は、俺を受け止めているジェラルミンケースで、腕を、
「いぎぃっ……?!」
力任せに一刀両断した。
ブチブチ、と筋肉繊維と肉がちぎれる音が鮮明に聞こえる。
「あああああああああああああああああああああああああっっッッっぁあああ!!!」
宙を舞う巨大な赤い腕、俺の腕の付け根から噴出する鮮血。頭が、真っ白に、なって、。
ぼとん、と落ちた腕は落下地点に小さなクレーターをつくり、ぴくりぴくりと爪を痙攣させたのちに動きを止めた。
「唄春、撤収すんぞ。妖滅に目ェつけられたら終めぇだ」
「あいさっさ」
フードの男が痙攣して動かない俺の体を軽々と持ち上げ、だっとその場を駆け出す。その不自然なほど高速な揺れに、真っ白になっていた頭は余計に混乱し、視界の色々な色がまじりあって可笑しな色彩を作り上げていた。
仮面をかぶったもう一人のほうの男が、フード男のあとを追いかけて走ってくる。
「双葉アホ毛君、ごめんな痛いことして。これ喰っとけ」
そう言って仮面で隠されたためくぐもった声を発しながら、彼は、
「ブチィッ」
何のためらいもなく、自身の左腕の肉を引きちぎった。俺のように醜く声を上げたりもしない。慣れきっている、まるで日常的にそうやって肉を引きちぎっているかのように、自然な動作で。
「ひっ……?!」
「喰わんと再生しねえぜ?……口移しのがいいのかぁい?」
からからと笑う男は下らない冗談を言って自分で笑うと、放心する俺の口にめがけてその肉を押し込んだ。ぐちぐち、と歯の間から肉が入りこみ、ぎゅうっと口を押えられたため、どうすることもできなくて結局飲み込んだ。
人間とは思えぬ速度で走る大男に運ばれ、ゆっさゆっさと揺すぶられ、なんだかよくわからぬまま人肉を喰わされ、キャパオーバーした俺の脳は、結局意識を薄れさせるという緊急手段を使ったようだ。
視界が遠くなる。
なんだこれ…。
さよなら、俺の日常。