可哀想な二人は繰り返す
忘れてしまった考えや思いが目で認識出来たり、客観的にみえたりしたら、それほど切ないことはないと思う。
何となく知っていた。嘘、ずっと前から知っていた。彼は素敵な人で、魅力的な女性人が彼にアプローチをかけているのも。知っていた、でも逃げていた。彼も彼女たちには優しい。分かっていたから逃げたから、こんな結果になってしまったのかもしれない。
「アヤメ、俺の言いたいこと分かりますよね」
「分かっているよ、トオルくん」
彼の言葉に相づちを打つと喜ぶ。反抗的な態度、意見は眉間にしわをよせる。その時に適した行動を選んできたつもりだった。情がわくとは違うが、利益とは別で私的な感情で動くようになる前までは。感情で動くとどうしようもない思いになる。私は次第にそれを拒んだ。
「少しずつ私を構成してたものがなくなっていくの。最初は気にしなかったんだけど、だんだん無くなるのを感じて焦ったりしてた。でも今はこれでもいいかなって思う。崩れていく感覚は嫌いじゃないの、やっぱり会わない組み合わせだったのかなって考えてる。だから貴方は大丈夫。こんな私が言えるただひとつのことだけど、大丈夫」
「どうしたのですか、アヤメ」
「そのままのことだよトオルくん。ほら、私の足元のこれ見えるかな、透明な硝子の破片。触れることは出来ないし時間がたつと消えるんだけど、私からこれがこぼれ落ちるの」
私は彼の方に手を伸ばし笑ってみせた。ぱらぱらと手から落ちた破片は、薄透明。脱皮する生き物とは違うのに不思議だ。
「ちょっと待ってください、俺には今の現状が理解できない。こんな話聞いたことない」
「私もないかな」
感情の記憶はぱらぱらと私から離れていく。さよなら、ばいばい、もう会えないね、永遠の別れだ。
「なぁ、いつからだ。その言い方だとかなり前からなのか」
彼には珍しい感情的な物言いだ。髪をくしゃりとかき、ため息を漏らした。私の小さな部屋で、二人は向き合いながら話す。互いの瞳をみつめ、出方をうかがってるようだった。
「大喧嘩した日。あの後私は一度リセットされた。そして今で二回目になる」
思い出したくない思い出。彼の女性関係に痺れを切らした日。私はそう記憶をしている。
「喧嘩って、それは貴方がわがままを言うから」
「わがままじゃなかった。貴方の優柔不断な態度を指摘しただけ」
「でも次の日からはアヤメは素直になったじゃないか。それに先に自分に非があると謝ったのも貴方だ。何が悪かったのですか、俺らは悪い関係じゃなくなっていましたよね」
「それは、リセットされた私がバックアップされていた記憶を読みなおしていたから。とても受け身な状態だったと思う」
「それでもアヤメはアヤメなんですよ、なら」
「私は私です。それでも貴方が優しくなったのは、空っぽな私にたいしてでした」
彼の顔色が少し悪い。此方を食い入るように見てくるので、私も首を少し傾け見返した。とても綺麗な顔。 彼の内面の知的さが表に現れている。彼の指の腹が私の顔をなぞった。
「アヤメはロボットじゃない」
「私は人間です。トオルくんも」
「何故リセットなをて言うんですか」
「記憶としては残ってるのに、私が経験したと思えない。記憶に共感出来ないの」
他の人の人生を映画で目にするような、感覚の履歴が全てデリートされたような気分だ。
「俺との記憶は」
「ある」
「生活に支障は」
「ない」
「俺のことは好きか」
心臓が捕まれたような気持ちになった。
「わからない。今崩れていっているから」
「好きでしたか」
「私の記憶の中で、トオルくんがそんな質問するのはじめてだね」
「どうなんです」
「貴方との記憶はとても切ない。それでも好きでいた」
苦しいのに何故私は側にいたのだろうか。
「私の好きな人と記憶している」
そうですか、彼はそう言うと泣いていた。声も音もなく、静に瞳が濡れ水が流れる。涙まで綺麗なんだな。
「変なトオルくん。どうして泣いているの。皆貴方には優しい。たくさんの素敵な女性から愛を貰っているのに」
「違います。そんなのいない、いらない」
「大丈夫、皆貴方が好きだから大丈夫。」
「何が大丈夫なんですか」
「今の私がいなくなっても」
彼の手をとり握りしめる。少し頬を上げて笑みをつくった。彼の瞳は虚ろで、もの悲しげだ。彼はたくさんの女性から愛を貰っている。それなのにもっと欲しいというのだろうか 。彼はまた多くの人から愛をもらい与えるのだろうか。
「何故今さらリセットのことを言うのですか」
「貴方が一度目に気がつかなかったから」
「それはアヤメが少しずつ変わっただけだと」
「それでいいと思う。だから今の私は貴方に言いたかったんだと思うの」
大人しくなった私を、聞き分けがよくなった私を彼は人が変わったように優しく接してくれた。リセットされる前の私が知らない表情や会話をみせてくれた。昔の冷ややかな態度が嘘のようだった。
「同じアヤメなのに」
「だからこそ今の私を忘れてほしくないんだよ。私は私に、貴方のそばの人に嫉妬したんだ。馬鹿だなって笑いなよ」
「アヤメは馬鹿だ」
気がついたら彼の腕の中にいた。後ろから抱き締められてるからか、彼が見えない。私からこぼれ落ちる破片が彼を通り抜けて地面へと落ちていく。落ちる数が最初に比べて少なくなり、リセット完了までわずかだと悟った。私の心はまっさらになり、自己嫌悪もしなくなる。とても穏やかな気分だ。
「一度心のリセットが出来ればこんなに苦しまないと、今の私も願っちゃったの」
私はとても臆病者だ。怖いと逃げたしたくなる。自分の感情、彼の優しさもこわい 。
「またこのようなことが起こるか分からない。貴方の側に何故いないといけないか分からない。それでも好きでいた」
「アヤメ、俺は本当に」
彼が何かを話そうとしたから、指で止めた。彼の唇の動きが指に伝わる。唇の温もり、舌の生暖かい感触、彼の呼吸。
「私眠くなっちゃった。少し眠るね」
私はどうしようもない人間です。いつか側からいなくなるんじゃないかと、不安になるならと考えてしまう。
「目が覚めた私は、貴方を客観的に接してしまうかもしれない。でもまた、お人形のような私を可愛がってあげて」
私の瞳から最後の破片が流れていった。