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未来への一歩



やべぇ。

また泊まっちまった。

陽二は、隣で一緒に眠っていた女の姿を見ると、ゆっくり起き上がった。

このまま真っ直ぐ仕事に行こうか。

どうせ帰っても、また光平に嫌味を言われるに違いない。

「…起きるの?陽二」

女が目を覚まして、寝返りを打つと、陽二を見た。

「んー…悩み中」

陽二はそう言いつつ、ベッドから降りた。

その時、陽二の携帯にメールが届いた。

差出人は、光平である。

『今日は帰ってくる?』

陽二は小さく溜め息をついた。

また夢の相談だろう。

仕方がない。

とっとと帰って、早いとこ何が憑いてるか見てやるか。

「やっぱ、帰ろうっと」

「女からメール?」

「いや、違うけど?」

「本当?気になるなぁ」

陽二は服を着ながら、

「そんな事、いちいち気になるもん?」

と、聞いた。

陽二には特定の恋人がいない。

作る気もない。

一緒に過ごす相手も、当然それを解っているはずだ。

「陽二さぁ」

女が、じっと見つめて言った。

「モテてる自覚、無いでしょう?」

その瞬間、陽二は不思議な感覚に襲われた。

時間が止まったような、いや、巻き戻されたような、妙な感じだ。

なんだろう。

思い出せそうで、出せない何か。

「…じゃ、またね」

陽二は質問には答えず、部屋を出た。


帰宅すると、予期していた通り、光平は背中に人影を背負っていた。

「若い女だな」

リビングに入るなり、陽二がそう言うと、

「やっぱり!」

光平が、新聞を読んでいる喜一を見た。

喜一は顔を上げると、

「光平が、この人だって言うんだ」

と、新聞の片隅を指さした。

陽二が覗き込んで見ると、そこには写真も載っていない小さな記事があった。

「廃屋で若い女性の遺体…死因は覚醒剤の過剰投与による中毒死?」

「事件だよね?これ」

光平が陽二を見つめる。

「そうか?ヤク中が、やりすぎて死んだんじゃねぇの?」

陽二が気乗りしない言葉を返すと、

「だったら、俺の夢に出て来て憑いてる必要もないじゃん?」

と、光平が抗議した。

「どっちにしても、如月さんに連絡するつもりなんだろ?」

陽二は、そう言いながらバスルームへ向かった。

その姿を見送っていた光平が、

「なんか…陽二くん、いつもと違う」

と、呟いた。

喜一も、何となくそれに気付いていた。

何かあったのだろうか?

喜一は、少しだけ心配そうに、陽二の姿が見えなくなった先を見つめた。



「もしかしたら」

日向家を訪れていた如月が言った。

「今回は、殺人に関しての捜査は行われないかもしれない」

「え!?…どうして?」

光平が驚いて尋ねる。

如月は、少し困ったような顔をして、

「死亡した女…塚田由依が勤めていた飲食店というのが、バックに暴力団がついてて…以前から、良くない話はあったんだ。塚田由依が、覚醒剤に手を出していた噂も」

「自ら…事故死ですか?」

喜一が冷静に聞いた。

「彼女の死因は、そうかもしれません…でも、麻薬に関しての捜査は行います」

同席していた初美が答える。

「あの地域では、最近特に覚醒剤での逮捕者が増えているんです。大きな組織が介入して来ている可能性があります」

「でもさぁ…俺の夢に出て来たんだよ?何か伝えたい事があるんだ」

光平が、不満そうな顔をする。

「もちろん、捜査の中でも意識して行くつもりですから…」

初美がなだめるように言う。

「…それで、彼女の遺留品は?」

喜一が聞くと、如月が鞄の中を探り始めた。

「一応、持って来たよ」

「持ち出して、大丈夫ですか!?」

初美が、心配そうに如月を見る。

「殺人として動かないなら、すぐに遺族に返却されるか処分されるだろう?だったら、急いだ方がいいと思って」

如月は、袋に入れられた遺留品をテーブルへ取り出した。

携帯、ハンカチ、化粧ポーチ、名刺入れ、注射器。

え?

全員が、最後の一品を見て、絶句する。

「えっと…これは、やっぱりいらないよな」

如月が、そそくさと注射器を鞄に戻した。

どういうセンスだよ、と言いたげに、光平が溜め息をつく。

喜一も、ヘビーな映像を見せられずに済んで、胸を撫で下ろした。

「では…」

喜一が携帯に手を触れると、意識を集中し始める。

「そういえば、陽二くんはまだ仕事?」

如月が光平に尋ねる。

「うん、でも最近、特に外泊が増えたよ。色んな人のお相手で忙しいみたい」

「へぇ。羨ましいな」

「冗談でしょ?名前も覚えてない女の子とだよ?信じられない」

光平は、陽二がいないのをいい事に、

「特定の彼女を作らないで遊び回って…いい大人なのにさ」

そう言ってから、ふと思い出したように、

「でも…ちょっと様子が変なのも確かなんだよなぁ」

「変って?」

「うーん…なんか、ボーッと考え事してるみたいな顔を、よく見る」

その時、喜一が目を開けた。

「…何か解った?兄貴」

光平の問い掛けに、喜一は小さく息を吐いて、

「残念ですが…警察の見立て違いかもしれません」

「…殺人か」

如月が、ばつの悪い顔をした。

「僕が見たのは…たくさんの、麻薬らしき物をバッグに詰めているところ…最後は…」

喜一は、自分の顔を両手で覆って見せると、

「真っ暗でした。恐らく、何か…被せられたような」

「目隠し?」

光平が聞く。

「多分ね。数人の男達が、部屋に押し入って来ました。他に見えたのは、何人かの女性の顔、ですね。同じ店で働く女性だと思います」

「押し入られて…それって、拉致されて殺されたって事?」

光平が深刻な顔をすると、初美が言った。

「推測すると…麻薬を横流ししようとして、組織に見つかったから、報復を受けた…という感じでしょうか?」

「内輪揉めとなると、益々捜査がしにくいな」

如月が頭を掻いた時、リビングのドアが開いた。

そこには、少しぼんやりした顔の、陽二が立っていた。

「おかえり、陽二」

喜一が声を掛けると、陽二はハッとしたように、顔を上げた。

「あ、ただいま」

いつもの雰囲気ではない。

「どうしたの?初美ちゃんがいるのに、ノーリアクションなんて、具合でも悪いんじゃないの?」

光平が不思議そうに陽二を見つめる。

「…あ、いや、別に何でもない」

陽二はそう言うと、ソファに座った。

そして、如月が持って来た資料に目を留めると、

「…これ…」

陽二は、資料の中に書いてある、死亡した塚田由依の勤務先を指さしていた。

「この店、知ってるのかい?」

その店は、高級クラブだった。

顔の広い陽二なら、知っていても不思議はないが。

「陽二、どうした?」

喜一が尋ねると、陽二は頼りない顔で喜一を見つめた。

「…ずっと忘れてた…」

「なに?」

「思い出したんだ…」

陽二は、頭を抱えて、

「…この店に入って行った…あいつも俺に気付いてた」

と、辛そうに呟いた。





下校しようとロッカーを開けた時、中に封筒を見付けた。

陽二には、度々こういう事が起きる。

中身は、というと、メールのアドレスが書き込まれたカード。

ほとんどは、無記名だ。

それでも、時々は名前を書いている物もあったり、メッセージが添えてある物もあった。

陽二は、封筒を開けずに丸めると、廊下のゴミ箱に捨てた。

歩き出そうとした時、背後で声がした。

「見もしないんだね」

陽二は振り返って、その姿を探した。

声の主は、階段の踊り場に座って、こちらを見下ろしていた。

隣のクラスの、北原栞だった。

「どうしようと、お前に関係ねぇだろ」

「そうだけど…勇気出して告白してるのに、可哀想じゃん」

すると陽二は、フッと笑って、

「これが勇気出して告白?メールくれたら正体を明かします、てのが?」

そう言うと、栞の傍へ歩み寄り、

「人のロッカー、勝手に開けんじゃねぇ、って思うし」

と、言った。

栞は、クールな顔で陽二を見つめると、

「日向、モテてる自覚無いでしょ?」

と、言った。

「無いね。ちゃんと好きだって言われてねぇし」

「私、日向が今みたいに捨ててるとこ、いつも見てたよ」

「は?いつも?」

陽二は階段を少し登って、栞と同じ目線まで来ると、

「いつも、って…お前はいつも何してんだ?こんな所で」

「…家に、早く帰らないようにしてるだけ」

栞は無表情で答えた。

「なんで?」

「お母さんの彼氏がいるから。お母さん、仕事行ってるし、それまで気まずいから」

よく、そんな事をあっさり喋るもんだな。

しかも、母親の彼氏がヒモだと宣言しているようなものだ。

そういえば、こいつも母子家庭だったか。

「ねぇ、日向もお父さんいないじゃん?お母さんに彼氏は?」

「…さぁ?多分、いないと思う」

しかし、光平がいきなり生まれた前例もあるしな。

「いたら、嫌じゃない?」

栞の質問に、陽二は軽く、

「嫌なら嫌って、母ちゃんに言えば?」

と、答えた。

「日向は、言える?」

陽二は考えた。

何しろ、前回は言う暇が無かったというか、自分も子供過ぎて、気付かなかったというか。

「私、言わないよ。私がお母さんを、彼氏の代わりに幸せに出来ないから」

栞がそこで、悲しそうな素振りでも見せれば、陽二の心は動かなかったかもしれない。

逆に、栞は終始無表情だったため、なぜか陽二は興味をそそられた。

「帰らないなら、どっか行こうぜ」

「え?…私?」

「そうだけど?」

「日向のファンに呪われる」

「ファンなんて、いねぇよ。名無しだらけだ」

陽二がそう言うと、栞は黙って立ち上がった。


それから陽二と栞は、よく放課後につるんでいた。

栞は相変わらず、楽しそうにする訳でもなかったが、陽二はそんな栞の空気が嫌いじゃなかった。

栞が求めない分、自分も無理に盛り上げたりする必要が無かったからだ。

「日向は、なんで彼女作らないの?」

ネットカフェで漫画を読みながら、栞が聞いた。

「何で、って…彼女にしたい奴がいないから、じゃねぇの?」

「ふーん…彼女になりたい奴は、いっぱいいるのにね」

「…別に、いなくても困ってないし」

「今まで、色んな女と付き合ったから疲れたの?」

「…疲れるほど恋愛してないし」

そうだ。

もし、そんな事を言ったら、母さんに叱られるだろう。

まだ17歳のくせに、何言ってんだ、って。

「お母さんがね、結婚するかもしれないの」

あの、ヒモと?

と、言いそうになって、陽二は言葉を飲み込んだ。

「私…学校辞めて働こうかな…」

「何でだよ?」

「そしたら、一人で生活出来るし、早く大人になりたいから。学生なんて、つまらない」

栞は、今までずっと漫画から目を離さなかったが、その時初めて、少しだけ遠くを見るような目をした。

こんな時、どんな言葉を言えばいいのか…。

陽二は、話題を変えようとした。

「…なぁ、誰にも言ってない事があるんだけど」

「…何?」

栞の目は、漫画に向けられたままだ。

「俺…人に憑いてる霊が見えるんだ」

やっと、栞が陽二を見た。

「…本当に?」

「ああ。しかも祓える。」

「嘘…心霊スポット行けないじゃん」

「行けるよ。人に憑いてないと見えないし」

「…何、それ」

栞が、フッと笑った。

「中途半端だね」

栞はそう言いながら、笑っていた。

なんだか、少し楽しそうに。

俺が笑わせた。

そう思うと、陽二も何だか嬉しくなった。


ある日の放課後。

階段に栞の姿が無く、辺りをキョロキョロ見回している陽二の元に、一人の女子生徒が近付いて来た。

「日向」

陽二が振り向くと、

「あんた、北原さんと付き合ってんの?」

女子生徒が、いきなりの質問をした。

「は?付き合ってねぇよ?何で?」

「日向に相手にされて調子に乗ってる、って。何人かの女子が北原さんに言い掛かりつけてたから」

「…は?…なんだ、それ」

「付き合ってないなら、どうでもいいか」

歩き掛けた女子生徒の肩を、陽二が掴む。

「待てよ。今、北原どこにいんの?」

「助けてやる必要ある?彼女じゃないのに」

助ける、って何だ?

「おいっ」

陽二が詰め寄ると、女子生徒が言った。

「二階の女子トイレ」

その言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに、陽二はすでに駆け出していた。

女子トイレの前で、陽二は目の前の光景に愕然として立ち止まった。

栞がいた。

全身ずぶ濡れで。

「…おいっ」

陽二が腕を掴むと、栞はそれを振り払った。

「何でもないから」

栞は、いつものような無表情で言った。

「…何でもなくねぇだろ」

「…うるさい、日向には関係ない」

栞はそう言うと、足早に廊下を歩いて行った。

陽二は、カッと頭に血が昇った。

くだらない。

人をこんな目に遭わせる奴も。

傷付けまいとして、嘘をつくのも。

そんな事、俺は望んでない。

陽二は、すぐに栞を追い掛けると、再び腕を掴んだ。

今度は、栞に振り払われないよう、力を込めて。

「おいっ!」

陽二は、栞を自分に向かせると、

「言えっ!俺のせいで、こんな目に遭った、って!」

「…あんたには関係ないっ」

「関係あるだろ!?俺を責めないと、お前の怒りは、誰が受け止めんだよっ!」

「だって…別に、日向がやらせた訳じゃないじゃんっ」

陽二は、まだ雫が落ちている栞の頭を両手で掴んで、視線を合わせた。

「お前、バカだろ。そんな事言ったって、俺のためには、ならねぇぞ」

栞は、少し動揺したように、瞳を揺らした。

「二度とさせねぇようにしろ、って、怒ればいいじゃん」

「…あいつらを…止められるの?」

「…止められなくても、守ればいいんだろ?」

陽二は、栞の体を抱き締めた。

「…日向…制服、汚れる」

栞がもがくのを、陽二は更に力を込めて封じた。

「俺が守る」

陽二の言葉に、栞は静かになった。

「お前がどう思うかなんて関係ない。俺は自分のしたいようにするだけだ」

栞は、その時も、泣いてなんかいなかった。

ただ一言、腕の中で、

「…バカみたい…」

と、小さな声で呟いた。


無理をして欲しくなかった。

自分と一緒にいる時は、遠慮も気遣いも、して欲しくない。

陽二は、相変わらず栞が無表情でも、それで良かった。

ただ、陽二の中では、今までと違う点がひとつだけあった。

栞に、存在を拒まれたくない。

二人の仲が進展しなくても、一緒に過ごせる時間が大切だという事。

そして、自分から好かれたいと強く望んだ相手が、初めてだという事。

思いきり感情を表に出さない栞が、なんだか健気で、放っておけない。

だが、陽二はそんな自分の気持ちを、栞に打ち明ける事はしなかった。

口に出して、失ってしまうかもしれないなら、言わなくても良かったから。

好きとか愛してるなんて一言じゃ、この感情は正解じゃない気がするから。

まだ17歳の、がむしゃらで不器用な陽二には、答えなんか解らなくて当然だった。


その日も、階段に栞の姿が無かった。

陽二は胸騒ぎがして、校内を探し回っていた。

どこ行ったんだ?

まさか、また妙な事に巻き込まれてるんじゃ…。

陽二は携帯を取り出すと、栞にコールした。

どこからか、かすかに聞こえる着信音。

…近くにいる?

陽二は、音のする方を振り返った。

そこにあるのは、図書室。

こんな所に?

陽二が、まだ鳴り止んでいない音の方へ足を進めると、目の前のドアが勢いよく開いた。

瞳を真っ赤に潤ませた栞がいた。

「…日向」

栞は、ひどく驚いた顔をすると、慌ててボタンが外れたままのブラウスを押さえた。

その光景は、陽二の理性を瞬時に吹き飛ばすものだった。

制服を乱した栞の姿と、その後ろに数学の男性教師の顔。

陽二は栞を押し退けて、教師に近付くと、思いきり殴り飛ばした。

「…何やってんだっ!」

陽二は、倒れ込んだ教師に馬乗りになると、何度も殴り付けた。

廊下に座り込んだ栞は、ただただ震えながら、その光景を見ている。

教師の口から、鮮血が飛び散っても、陽二にとって止める理由にはならなかった。

「…日向、もう、止めて…死んじゃうよっ」

栞の目から涙が零れる。

それでも止まらない陽二を、騒ぎに気付いた他の教師が慌てて止めに入った。

「日向っ!落ち着け!」

「離せっ!」

陽二を押さえつけようと、また一人、教師が駆け込んで来た。

「もう、いいから、止めなさい!」

「何がいいんだよっ!こいつが何してたか、解ってんのかよっ!?」

陽二が抵抗すると、栞が言った。

「…日向っ、ごめんっ」

栞は、消え入りそうな声で、

「…私っ、先生と付き合ってる…」

何だって?

陽二は動きを止めた。

と、いうより、勝手に体が動かなくなった。

「日向、来なさい」

二人がかりで、体を離される間も、陽二は栞の顔を見つめていた。

ただ、ひたすら泣き続けている栞の姿だけが、視界の中にあった。

どういう事だ?

学校を辞めたい理由がこれ?

学生がつまらない理由がこれなのか?

全ては、この教師との関係を正当化するため?

「…ごめん、ごめんね…日向…」

栞の声は、陽二が職員室に連れて行かれるまで、耳の中で響いていた。

あんなに泣きじゃくって、感情をさらけ出している栞を見た事がない。

何で、そんなふうになる?

あんな奴のせいで、そんなに感情的になれるのか?

いつも、冷静なんじゃないのかよ。

違う。

そんなの、栞じゃない。

そんな栞を知らない。

じゃあ、あいつは誰なんだ?

俺は一体、

何をやってるんだ。




陽二が話している間、誰も口を開かなかった。

光平も、如月と初美も、どこか辛そうな顔で、黙っていた。

そんな中、喜一だけが普段と変わらない冷静な顔をしていた。

陽二は頭を抱えて、溜め息をつきながら、言った。

「…今まで、忘れてた…あんな出来事、忘れる訳ないのに…」

「忘れてた、というより…思い出さないようにしてたんだろ。無意識に」

喜一が口を開く。

「人間には、時々そういうシステムが働く事があるらしいからな」

喜一はそう言いながらも、それが陽二にとって、ひどく辛い経験だった事は理解していた。

「当時…少しだけ陽二の様子がおかしかったのは覚えてる」

喜一の言葉に、光平が、

「俺、全然知らなかった…」

と、呟いた。

「仕方ないよ、光平はまだ小学生だったし」

喜一は、少しだけ光平に向かって微笑むと、

「僕が大学から帰った時、母さんと陽二の担任の先生が話してた事があった。きっと母さんは全て聞いてたんだろうけど…僕には陽二が先生を殴ったから、一週間の停学になった、とだけしか…」

「俺…停学になってたのか…」

陽二が、まるで他人事のように言った。

「母さんの話によると、教師の側にも原因があったから、正式な処分というよりも、自主的に学校を休むように言われたみたいだけど…そんな理由なら、確かに陽二だけが悪い訳じゃないな」

「…ねぇ、陽二くん。それから、その子はどうしたの?」

光平が遠慮がちに尋ねる。

陽二は溜め息をつくと、首を振って、

「…気付いたら…いなくなってた。その教師も、俺が戻った時には、もういなかったし。クラスの奴らも、誰も北原の事は口にしなかったから…」

だから、陽二が栞の事を記憶の奥底へ閉じ込めてしまっても、支障が無かったのだろう。

誰も、思い出すきっかけを与えなかったのだ。

「俺、バカみたいだよな」

そう。

あの時、栞も腕の中で言ってた。

バカみたい、だと。

「…一人よがりもいいとこ。勝手にあいつを守るなんて言って…あいつはそんな事、望んでなかったんだ…あいつが大事にしてたのは…」

「…お前はバカじゃないよ」

喜一が遮る。

「お前が真剣だって解ってたから、彼女は謝ってたんだろ」

陽二は黙って喜一を見つめた。

「お前は、間違ってなかったよ」

その言葉に、陽二の目から涙が零れた。

あの時、全て考える事を止めてしまったせいで、何も解決出来なかった感情が、一気に溢れて来た。

「…如月さん、私達は、帰りましょう」

場の空気を読んで、初美が囁く。

如月は頷くと、静かに席を立った。

三人だけになると、喜一は陽二に向いて、

「もう、全部思い出していいよ」

と、言った。

次の瞬間、陽二はその場で泣き崩れた。

悔しくて、情けなくて、腹立たしくて、それでも栞の事を嫌う事が出来なくて。

それが現実でない事を心から願い、そして、ひどく悲しかったあの時。

「…俺はっ…」

泣きじゃくりながら、陽二が呟く。

「…俺は…逃げた…真実から、逃げたんだ…ダメな奴だっ…」

喜一は、そっと近付くと、陽二を抱き締めた。

「大丈夫。お前がどれだけ自分を責めても、僕はお前が正しかった、って何度でも言ってやる」

その言葉に、陽二は喜一にしがみついて、号泣した。

光平は、その光景に少し切なくなった。

こんなに苦しんでいる陽二を初めて見た事と、二人に強い絆を見せ付けられている気分になったからだ。

両親とも、血の繋がった兄弟という、深い信頼関係が、二人にはあるのだ。

光平が静かに立ち去ろうとすると、喜一の声がした。

「光平、コーヒーいれてくれる?」

光平は、ハッとして振り向いた。

「こんな時、そういう役目を果たしてくれる人がいないと、困る」

喜一の言葉に、光平は少し微笑んだ。

光平は、キッチンへ向かおうとして、二人の前で立ち止まると、

「ちょっとだけ参加」

と言って、二人に腕を掛けて抱き付いた。

「なんだよ」

喜一が少し楽しそうに微笑む。

すると、泣きじゃくっていた陽二が顔を上げて、

「おい、やめろよ、端から見たら気持ち悪いだろっ」

「うわ、陽二くん、不細工っ」

「うるせぇ、さっさとコーヒーいれて来いっ」

「はいはい」

光平がクスッと笑って、キッチンへ歩いて行った。

どんな生い立ちであろうと、そんな事は問題じゃない。

ここには、お互いの居場所を認め合える家族の形があるのだから。

「おい、陽二。ちゃんと鼻を拭け」

喜一が、陽二の顔をまじまじと見つめて、

「僕の服が汚れる」

と、いつもの冷静な口調で言った。



繁華街に、喜一と陽二の姿があった。

「この店か?」

喜一は、とあるビルの前で、連なっている数々の看板を見て言った。

「ああ。一階の店だ」

陽二が指さす。

「ごめんな、兄貴。付き合わせて」

「いや、お前の同級生が、死んだ塚田由依の記憶に見えた人かどうか、僕にしか解らないから」

「…事件に関係してると思いたくないけど…確かめたい」

陽二は、強い眼差しで、

「今度こそ、現実から逃げないで、全部すっきりしたいんだ」

と、言った。

喜一も、それは理解していた。

今回の事件のヒントを探すと同時に、過去の記憶とも向き合おうとしているのだ。

きっと、今の陽二の女癖が悪いのも、特定の恋人が作れないのも、あの出来事が関係しているのだろうから。

二人は、意を決して店内へと足を踏み入れた。

客足は、まあまあだった。

座席同士は広く間隔が空けられていて、互いが気にならないよう配慮されている。

陽二は店内を見渡すと、

「あの子を」

と、一人の女を指さして、ボーイに伝えた。

「彼女だけでいいから」

「かしこまりました」

ボーイに案内されて席につくと、喜一は全く落ち着かない様子で、視線を泳がせていた。

「…兄貴、大丈夫か?」

「…苦手なだけだから」

喜一は、頭痛がしそうになりながら言った。

少しして、一人の女が近付いて来る。

女は、陽二と視線が合うと、一瞬動きを止めた。

陽二も、複雑な表情をしていた。

懐かしいような、悲しいような。

それでも、どこか優しい目で、陽二は女を見ていた。

陽二がこんな顔をするなんて、初めて見たな、と喜一は思った。

「いらっしゃいませ、レイナです」

女が、気を取り直して言うと、二人の向かいに座る。

少しだけノスタルジックな気分の陽二に反して、喜一は早速切り出した。

「遊びに来た訳ではないので、手短に済ませたいのですが」

その言葉に、レイナと名乗った北原栞は、少し不審そうな顔をした。

「…兄貴、いきなりすぎるだろ」

陽二が注意すると、栞は小声で、

「それでも…一応は何か頼んで頂かないと不自然ですから」

と、言った。

「じゃあ、適当にお願いします」

その言い方からも、喜一が早く本題に入りたがっているのが、栞にも解った。

栞が作った水割りを飲みながら、やっと陽二が口を開く。

「ひさしぶり…」

栞は、苦笑いを浮かべて、

「…普通に接客するのは無理みたいね」

そう言うと、陽二を見つめた。

「用件は、何?」

「えっと…」

陽二は迷った。

まずは、過去の事を話した方がいいのだろうか。

あれから、どうしてた?

ずっと忘れてて、ごめん。

そう言うべきか。

「ここで働いていた塚田由依さんが、亡くなりましたよね?」

そんな陽二の気持ちを無視して、喜一が言った。

「…ええ」

栞は、不思議そうに喜一を見た。

「あ、これ…俺の兄貴」

「そうなの?…で、お兄さんが、どうして…」

「彼女が亡くなった事、どう聞いてますか?」

「…どう、って…覚醒剤中毒で事故死だったんじゃないですか?新聞にも、そう書かれていましたよね?」

「なぜ、中毒になったのか、解りますか?」

「…質問の意味が、よく解りません」

栞が怪訝そうな顔をする。

「要は…」

陽二が口を挟む。

「自分で打ったか、人に打たれたか」

栞は驚いたように陽二を見ると、少し周りを気にしながら、

「…殺人だって言いたいの?」

「多分…警察も疑ってるみたいだし」

「…だからって…日向がなんでそんな事聞きに来てるのよ…警察関係者なの?」

栞が喜一と陽二を交互に見る。

「いや、そうじゃないけど…」

陽二は、どう説明したら良いか迷って、

「…言ったろ?俺には彼女が見えるんだ」

「…嘘、あれ、本当だったんだ」

栞はそう言うと、ほんの少し口元に笑みを浮かべた。

それを見て、陽二は少しホッとした。

「…彼女、きっと何かが違う事を知らせたがってるんだ…何か、心当たりない?」

栞は、少しだけ考えると、

「こんな世界だから…色んな事はあるけど…」

栞は声を潜めて、

「あまり、知ろうとしない方がいいんじゃない?」

「…え?」

「…だって、もし本当に誰かが…だとしたら、嗅ぎ回っている人間がいると解れば、都合が悪いでしょう?…日向だって、危険な目に遭うかもしれない」

栞は、くるりと喜一を向いて、

「お兄さんも」

と、言った。

喜一は黙っていた。

「…この世界は、日向が来るような所じゃない。解ったら、もう帰って」

栞が真面目な顔でそう言った時、ボーイが近付いて来た。

「申し訳ありません、レイナさん」

ボーイの視線の先に、店内に入って来た男の姿があった。

「ごめんなさい、ご指名みたい」

栞はそう言って立ち上がると、

「こちら、お帰りです」

と、ボーイに伝えた。

追い返されたような気分で、二人は店を出るはめになった。

陽二は、もう栞の中に、自分の存在は無くなったと言われたようで、少し落ち込んだ。

虫のいい話だが。

自分は、すっかり記憶の奥へ追いやっていたというのに。

「傷心のところ、悪いけど」

店を出ると、喜一が言った。

「喋りすぎだ、正直に」

「は?」

陽二が喜一を見る。

「殺人の可能性を警察も疑ってるなんて…言う必要無かっただろ」

「だって…実際そうなんだから…兄貴にだって見えたんだろ?」

「そうだけど…」

喜一は小さく息をつくと、

「…彼女が関与していない証拠だって無いんだぞ」

そう言われて、陽二は口をつぐんだ。

「…お前が彼女を疑いたくないのは解るけど、お前も彼女も、昔のままじゃない」

喜一は、少し厳しいかもしれない事を承知で続けた。

「月日が経てば人は変わる…それに、死んだ塚田由依の記憶の中にも彼女は、いた。どんな関係かは解らないけど…少なくとも、由依の中では強いイメージの存在だったって事だ」

少し、しゅんとしている陽二を見て、

「…本当に、お前が何か危険な目に遭うような事があったら、どうするんだ?…もう、光平の時で懲りた…」

そうだった。

光平が犯人に殴られたと知った時、自分も生きた心地がしなかった。

「…ごめん」

陽二は素直に謝った。

その横顔を、喜一は見つめた。

大事な家族なんだから。

そもそも、大事だと思ってないなら、最初からこんな苦手な所に付き合わないんだからな。

喜一は心の中で、そう呟いた。



仕事帰りに、喜一は警察署を訪れていた。

会議室に通された喜一は、如月にあの店へ行った事を報告していた。

そして初美は、誰か来た時のために、ドアの外で見張りをさせられている状態だった。

「亡くなった由依の記憶に見えた複数の女性は、やはりあの店の従業員でした」

喜一は、如月が用意した数枚の写真を見ながら言った。

その中には、北原栞の姿もあった。

「僕が店に行って確認したのは、他に二人」

喜一は写真を抜き取ると、如月に手渡した。

「…そういえば…陽二くんは、どうしてる?」

「…人前では普通にしていますが…」

喜一が栞の写真を見つめて、如月に差し出す。

「彼女は、もう関わらない方がいいと言ってました…きっと、もう会いに来るなという意味なのでしょうけど…」

それで、陽二の気持ちが治まっているとは考えられなかった。

まだ陽二は、自分の抱えている過去の事を、何一つ栞と話せなかったのだから。

「俺も、ちょっと陽二くんに話したい事があるんだが」

如月の言葉に、喜一は不思議そうな顔をした。

「何です?」

「…今回の件で、従業員達の事を少し調べてるんだが…もちろん、彼女の事も」

「…陽二に会いますか?これから」

「会えるかな?」

喜一は携帯を取り出すと、メールを打ち始めた。

「如月さんの話は…陽二がショックを受けそうな話ですか?」

「…どうかな…喜一くんが聞いて判断してくれていいよ」

喜一の中で、答えは決まっていた。

どんな内容であろうと、本人には全て話すべきだと思っていた。

とことん向き合うのが、これからの陽二のためになる。

喜一の携帯に、メールの返信が届く。

「光平からです。陽二は、まだ帰ってないみたいですね。陽二からは…返信がありません。もしかしたら一人で…」

「あの店に?」

「はい。ちょっと行ってみようと思います」

「…なら、俺も行くよ」

如月はそう言うと、ドアを開けて、

「藤野、もういいよ」

と、初美に声を掛けた。

「え?如月さん、お帰りですか?」

「いや、ちょっと喜一くんと一緒に出掛けるよ。例の店に」

すると、初美が少し不満そうな顔をして、

「私は、一緒に行けないんですか?」

「…店に入るとなったら、藤野がいると違和感があるだろう」

如月の言葉に、初美は溜め息をつくと、

「解りました」

そう言って、

「では、運転手で」

と、ニッコリ微笑んで敬礼した。

「…藤野、喜一くんはあの手の女の子に興味なさそうだから、大丈夫だぞ?」

「そ、そんなんじゃありませんよっ!」

初美は思わず、大きな声を出してしまって、慌てて周りを気にした。

「く、車、回して来ますっ」

初美が駆け足で去って行くと、如月は呆れたように息をついて、

「だ、そうだ。喜一くん、続きは車の中で話すよ」

「解りました」

喜一は頷いた。


案の定、陽二はあのビルの前で、ぼんやりしていた。

事件の話とは関係なく、個人的に栞に会いに来た。

プライベートで客として来たと言えば、会ってくれるだろうか。

それとも、もう自分に会う理由など、少しも無くなってしまっているだろうか。

車の中から陽二を見付けると、喜一が、

「先に降ろして下さい」

と、言った。

やっぱり、ここにいた。

まだ、目一杯迷って、すぐには行動を起こせずにいるのだろう。

「駐車場に車を停めたら、すぐ追いかけるよ」

如月にそう言われ、喜一はその場で車を降りた。

喜一は、ガードレールに寄り掛かっている陽二の元へ近付いて行った。

「陽二」

陽二は、その声に振り返った。

同時に、何か街の騒音とは違う、聞き慣れない音が聞こえた気がした。

「…兄貴」

陽二は、そこに喜一がいる事より、更に驚かされる光景を見た。

立ち止まった喜一が、ゆっくりと膝から崩れ落ちる。

まるでスローモーションのように。

そして、喜一が押さえた脇腹から、血が滲み出していた。

…何だ?

喜一も陽二も、恐らく同時にそう思った。

さっき聞こえた音は?

普段の生活では、滅多に聞く事が無い音。

そう、銃声のような。

まさか。

嘘だろ?

陽二は、事態を飲み込めた瞬間、喜一に駆け寄った。

「兄貴っ!」

喜一は、不気味なくらいに冷静な顔をしていた。

想像以上の激痛で、逆に表情に出せる余裕は無かった。

「…兄貴っ!しっかりしろ!」

行き交う人々も、異変に気付き始める。

その時、如月と初美が走り寄って来るのが見えた。

「どうした!?」

「如月さんっ!救急車!兄貴が撃たれた!」

「…何だって!?」

「私っ、救急車呼びます!如月さんは署に連絡をっ!」

初美が、ヒステリックに叫んだ。

ひどく動揺している。

お願いだから、もう少し、皆静かにしてくれないかな。

喜一は、痛みの中でそう思った。

そんなに騒いだら、傷に響くじゃないか。

それにしても…こんな思いは初めてだ。

まさに、生きた心地がしない、っていうのは、この事だな。

喜一は、遠くなる意識の中で、ふと考えた。

僕はどうなるんだろう。

このまま、死ぬなんて事があるのだろうか。

もし、自分が死んだら…。

光平の夢に出て来たり、

誰かに憑いて、陽二に見えたりするのだろうか。

そうだとしたら…

何だか、死ぬ事に恐怖は感じないな。

じゃあ、会えたりするのかな。

母さんにも。




待合室に、頭を抱えている陽二と、その向かい側に如月と初美がいた。

如月は立ったまま壁にもたれ、初美は、じっと椅子に座って唇を噛み締めていた。

遠くから、慌ただしい足音がして、光平が飛び込んで来た。

「…光平」

陽二が気配に顔を上げると、光平は陽二に掴み掛かった。

「どうなってんだよ!?」

光平は、すでに涙でいっぱいな目をしていた。

「何で兄貴が、こんな目にっ!」

「…光平、落ち着けっ」

如月が、光平の体を後ろから抑える。

「陽二くんが、あの店に行ったからなんでしょう!?忠告されてたのにっ…兄貴は巻き添えになったんだっ!」

「よせ、光平。陽二くんを責めて何になる」

如月の言葉に、光平はポロポロと涙を溢れさせて、陽二を見つめた。

「…そうだ…俺のせいだ」

陽二が小さく呟く。

「そんな事はないさ」

「いや、北原にだって、もう関わるなって言われたのに…俺が勝手に…」

陽二は、茫然としていた。

「…兄貴は、どうなの?」

光平が、泣きじゃくりながら如月に尋ねる。

「解らない…まだ手術中だ」

如月も、そう言いながら、祈るしかなかった。

「…兄貴に何かあったら…どうしよう」

光平が、顔を覆って椅子に座り込む。

兄貴じゃなくて、俺が撃たれるべきだった。

悪いのは、俺なのに。

陽二がそう思った時、初美が立ち上がった。

「誰も悪くありません」

全員が初美を見る。

「悪いのは犯人です」

初美は、チラリと陽二に視線を向けると、

「陽二さんが、責任を感じるのは解ります。でも、陽二さんが忠告に従わなかったからと言って、喜一さんが撃たれても仕方ないって事にはなりません。そんな事、あってはいけないんですから」

そして、大きく息を吸うと、

「それは、喜一さんが一番思ってるはずです。どんな事があっても、陽二さんや光平さんのせいにするような人じゃないでしょう」

「…確かに、そうかもな」

如月は頷くと、光平に言った。

「光平も、どこに怒りをぶつけたらいいか、解らなかったんだよな?本気で陽二くんのせいだなんて思ってないだろ?」

すると光平は、ごしごしと顔を拭って、

「…ごめん…陽二くん」

と、呟いた。

陽二も、思わず零れた涙を慌てて拭くと、

「…いいよ…解ってるから」

と、言った。

泣けるという事は、大分、陽二も正気を取り戻して来たという事だろう。

如月は、安心した。

初美もホッとして、再び椅子に腰掛けた。

如月は、そんな初美を頼もしく思っていた。

泣くのも堪えて、しっかり自分を保とうとしている。

本当なら、仕事なんて手につかないくらい、不安なはずなのに。

ちゃんと成長しているんだな。

「藤野、俺はひとまず捜査に戻る」

「…え?」

「こんな事になったら、尚更早く解決しないとな。何としてでも、喜一くんを撃った犯人を捕まえなきゃ」

「では、私も…」

「いや、藤野はここにいてくれ」

如月が制する。

「喜一くんの手術が終わったら、報告をくれ。それから合流すればいい」

「…解りました」

如月は初美に頷くと、光平の頭を撫でて、待合室を出て行った。

「大丈夫、って伝えてあげたいわ」

如月の姿を、待合室の外で見送っていた知世が言った。

「やっぱり、僕は死なないんだ?」

その隣で、喜一が聞く。

「そうよ。処置が早かったせいもあるけど、死ななくてもいい怪我だから」

どうやら、この現象は、いつか光平が体験したものと同じらしい。

最初は、死んだはずの母と会うなんて、少し動揺したが、光平から聞いていたせいで、すぐに順応出来た。

「あんた、手術見てなくていいの?」

「いいよ。どっちかと言うと見たくないし」

そのおかげで、弟達が苦しんでいる様子を、目の当たりにする羽目になったのだが。

「そうなの?脇腹のお肉、ちょっと持っていかれてたわよ?」

「…言わなくていい」

喜一は、あの激痛を思い出して、顔をしかめた。

「でも、あんまり無茶しないでよ?あんたが死にそうになるから、また出て来る事になっちゃったじゃない。光平の時だけのつもりだったのに」

喜一が不思議そうな顔をすると、知世が続けた。

「死ななくてもいいタイミングなのに、死にそうになったから、早く戻れって伝えようと思ったのよ」

「…でも、さっきは死ぬ程の怪我じゃないって言ったよね?」

すると知世が、ずいっと目の前に近付いて、

「喜一。あんた一瞬、気力を無くしたでしょ」

「え?気力?」

「そう。このまま、死んじゃうのかな〜って…思ったでしょ?」

確かに。

あんな痛みは、この世のものとは思えない。

喜一は、うんうんと頷いた。

「あのね、人の生命力って、気持ちが重要なのよ。人のためなら強くいられても、あんたは自分の事となると、そうでもないから」

知世はそう言って、少し微笑んだ。

「だから…あんたはもう少し、自分を甘やかしていいのよ?いつも弟達に一生懸命で」

喜一は、ちょっと考えて、

「それは仕方ないよ」

そう言うと、フッと笑った。

「実際、あいつらが大事なんだから」

知世も、陽二と光平を見ながら、優しい目をして笑った。

「じゃあ、早く戻ってやりなさいよ。喜一がいないと、あの子達、全然ダメなんだから」

「…母さんも、もう行くの?」

喜一が知世を見る。

「そうね」

知世は、喜一が何か言いたそうな目をしているのに気付くと、

「私が改めて話す事も、もう無いし。喜一は、私の気持ち、全部解ってるから」

「そう?」

「うん。父親の事も、直人との事も、あの子達の事も…あんたの事だって、私がどう思ってるか、どう思いながら生きて来たのか、全部喜一が考えた通り。喜一が正解」

喜一は思わず、プッと吹き出した。

「説明するのが面倒だからって、適当だな」

「それも正解」

知世も、おどけて笑った。

「…で?喜一は?私に言う事、ある?」

喜一は考えた。

頭の中にある色々な言葉を整理しようとして、しばし悩んだ後、

「無いよ。母さんが全部解ってるから」

と、言った。

知世は、満足そうに頷いた。

だんだんとぼんやりしていく視界の中で、知世が笑顔で見つめていてくれるのが解った。

ありがとう、なんて、

言わなくても、解ってくれてるだろう。

そう思った後、喜一は完全に意識を失った。


「日向さん、手術終わりました」

看護師の言葉に、全員がものすごい早さで、待合室を出た。

術後で、まだあちこちにチューブが付けられたままの喜一が運ばれて来る。

「手術は無事に終わりましたから、後ほど先生から説明があります。まず、病室に向かいましょうか」

その看護師の言葉も、半分くらいは耳に入っていない様子で、陽二と光平は喜一の元へ駆け寄った。

「…兄貴っ」

「大丈夫か?兄貴」

喜一は、まだ言葉は発せられなかったが、二人の顔を交互に見た。

「兄貴、生きてる」

光平の率直すぎる感想に、喜一は心の中で、当たり前だ、と思っていた。

そして、視線を動かすと、その後ろにいる初美を見た。

少し不安そうな顔の初美と、視線が合う。

喜一は、ゆっくり瞬きをして見せた。

それを見た初美は、笑顔を返した。

喜一が運ばれて行くのを見送ると、初美はくるりと向きを変えた。

良かった。

まずは一安心。

後は、全力で事件を解決しなければ。

初美は、如月に連絡を入れようと、携帯を握り締めて出口へと急いだ。

外へ出た時、初美は思うように携帯を捜査出来ず、我にかえった。

気付けば、ボロボロと涙が落ちていた。

ホッとして気が抜けたせいで、指も震えている。

初美は、その場にしゃがみこむと、一人、思いきり号泣した。




「あ、ちょっと俺にもやらせて」

光平が器用にリンゴの皮を繋げて剥いているのを見て、陽二が言った。

「えー?陽二くん、出来るの?」

「出来るよ、それくらい」

そうは言ったものの、いざやってみると、皮は数センチで無惨に千切れた。

「うわ、下手くそ」

「うるせぇなっ」

陽二が皮を光平の頭の上に乗せる。

「あっ!何すんだよっ」

光平がすかさず投げ返す。

「食い物で遊ぶんじゃねぇよっ」

「陽二くんが先にやったんじゃんっ」

飛び交うリンゴの皮を見て、

「あのさ…暴れないでくれる?」

と、ベッドの上で喜一が言った。

「あ、ごめん、兄貴」

ここが病室である事を思い出し、二人はおとなしくなった。

「命に別状は無いにしても、痛いのは事実なんだけど」

喜一が抗議の眼差しを向ける。

「だよね、たくさん縫ったんだもんね」

光平が再びリンゴを剥き始める。

そして、思ったより喜一が元気で安心したのか、

「でもさぁ、よく考えたら、人生のうちでなかなか出来ない経験だよね。狙撃されるなんて」

と、呑気に言った。

「狙撃って…如月さんの方も捜査は難航してる、って言ってたけど、やっぱり兄貴か俺が狙われたのかな…」

光平の切り分けたリンゴを、先に口に運んで陽二が言った。

「まさか、偶然無差別な犯行に巻き込まれた訳じゃないでしょ?きっと塚田由依の事を調べてたから、じゃない?」

光平が、リンゴを喜一に手渡す。

「あー…俺にもっと強い能力があればなぁ〜。塚田由依の思ってる事が聞けるのに」

陽二がそう言った時、病室をノックする音がした。

「どうぞ」

喜一の代わりに、光平が返事をする。

静かにドアが開いて、その人物を確認すると、陽二が立ち上がった。

「…北原」

そこにいたのは、栞だった。

栞は一礼すると、ゆっくり陽二に近付いて、

「…これ、お見舞です」

と、花束を差し出した。

光平も、この状況に戸惑ったように、陽二と栞を交互に見つめている。

ただ、喜一だけは冷静な顔をしていた。

「具合は、いかがですか?」

栞が喜一を見る。

「…ええ、あとは回復を待つだけです」

喜一の答えに、栞は安心したような顔をした。

「…北原、お前どうして…」

陽二がそう言った時、もう一人、病室に入って来る人物がいた。

どこかで見たような男。

男は頭を下げると、

「初めまして。私、三上明と申します」

どういう展開?

陽二と光平が、ポカンとしていると、

「あの時…レイナさんを指名して来た方ですね」

と、喜一が言った。

そうか。

この、三上という男が来て、自分達は店を出る羽目になったのだ。

陽二は、ようやく思い出した。

それにしても、喜一はどうしてこんなに平然としているのだろう。

光平に至っては、もしかしたらこの二人が犯人で、今度こそ喜一を抹殺しに来たんじゃないかと思い、ドキドキしていた。

「そう言えば…まだ陽二には何も話せてなかったな。北原さん、説明してやって下さい」

喜一の言葉に、栞は少し驚いて、

「…お兄さんは、解ってるんですね」

と、言った。

「はい、僕はあの日…撃たれる前に如月さん…警察の方から聞いていました」

「…ちょっと、兄貴…どういう事?」

混乱している陽二に向き直ると、栞が静かに口を開いた。

「私…探偵なの」

「は…?」

陽二は、益々混乱した。

「三上さんと一緒に、仕事のためにあの店に潜入していたの」

当の三上は、ドアの前に立ったままだった。

恐らく、誰かが立ち聞きしていないか、警戒しているのだろう。

「…全然、解んねぇ」

陽二が頭を掻いた。

「こんな事が起きてしまったから…ちゃんと本当の事を説明しようと思って…それに、協力出来るなら、警察にも情報を提供しようと…」

栞はそう言うと、申し訳なさそうに喜一を見た。

「…とにかく」

陽二は、受け取っていた花束をサイドテーブルに置くと、

「解るように説明してくれ」

と、栞を真っ直ぐ見つめた。

「…実は…塚田由依さんは、家出人だったの。由依さんの両親から、娘を探して欲しいと依頼があって…。それで、由依さんがあの店に勤めている事が解ったから、私自身も潜入する事に…」

「由依さんのご両親には?」

喜一が尋ねる。

「一度は報告をしました。ご両親は、由依さんを連れ戻して欲しいと言ってたので…何とか親しくなって、説得してみるつもりだったんです…そんな矢先…」

栞は、少し辛そうな顔をして、

「ご遺体は、両親の元へ返されたけど…娘がどんな人生を送って、どうしてこんな最期を迎えなきゃならなかったのか…続けて調査を依頼されて…」

「それで…潜入を続けてるのか」

陽二が呟くと、栞は頷いた。

目の前で喋っている栞が、何だか自分の知っている姿とは、別人のような気がして、陽二は戸惑っていた。

あの頃に比べたら、随分と人間っぽくなった。

それは、もちろん悪い事では無い。

むしろ、陽二にとっては逆で…。

「お兄さんが撃たれた原因が、由依さんの件と関係があるとしたら…」

栞は、陽二を見つめて、

「あの時、店内にいた誰かが仕組んだのかも」

陽二はハッと我にかえった。

余計な事を考えてる場合じゃない。

「…そこまで話して頂けるなら、如月さんと会ってもらった方がいいと思います」

話を聞いていた喜一が言った。

「それに…僕も彼女と関わっていた従業員の女性に心当たりがありますから」

「え…?」

栞が驚いて喜一を見る。

「あなたの他に、あと二人」

「どうやって調べたんですか?」

栞の質問に、喜一は少し考えて、

「調べたと言うか…解ってしまったと言うか…」

と、曖昧な返事をした。

「と、とにかく」

陽二が口を挟む。

「如月さんに連絡をしとかなきゃ、ほら、お前の出番」

陽二は光平の肩を叩いた。

呆然と話を聞いていた光平が、慌てて立ち上がる。

「わ、解った」

光平は、三上の横をすり抜けて、病室を出て行った。

「…じゃあ、また改めて出直すわ」

栞がそう言うと、陽二は何やらメモをした紙を差し出した。

「…何?」

「俺の連絡先」

陽二は栞の手に、それを握らせると、

「協力してくれんだろ?兄貴をやった犯人、見付けたいんだよ、俺だって」

と、栞を見つめた。

栞は少し間をおくと、

「解った。病院を出たら、コールしておく」

そう言って、三上に目配せをして、病室を出て行った。

喜一は、その様子を黙って見ていたが、

「陽二、お前も気を付けろよ」

と、だけ言った。

傷付いて欲しくないんだよ。

身も心も。

そう頭の中で続けた。



日向家に、陽二と光平、如月、そして栞の姿があった。

「いいのかい?家を使わせてもらって」

如月が今更ながら、そんな事を言った。

「今までだって、さんざん捜査本部にしてたじゃん」

光平がコーヒーを用意しながら、突っ込んだ。

喜一があんな事になり、自分も顔を知られている可能性がある。

栞と個人的に繋がりがある事が誰かに解れば、今後の栞の仕事にも支障があるかもしれない。

そのため、陽二は外で会うのを止めたのだ。

早速、栞は自分の事情を如月に話した。

栞が探偵である事は調べがついていたせいで、如月が事の次第を受け入れるのに、時間は掛からなかった。

「この二人はご存知ですよね?」

如月が写真を取り出す。

「喜一くんが言ってた、彼女に関わりの深かったとされる従業員だ」

如月の言葉に、栞が頷く。

「ええ…二人とも、そうです。ミサとユウナです」

「二人は、どんな女性ですか?」

如月の問い掛けに、栞は一方を指さして、

「ミサの方は、事実上、店のナンバーワンです。女の子達も、ミサには一目置いてるようで、彼女に逆らえない子も多いです。自信家で気の強いタイプかと」

そして、もう片方の写真に目を向けると、

「ユウナは…その取り巻きの一人、といった感じでしょうか。あまり目立つ子ではないです」

「じゃあ…死んだ由依とミサはライバルだったとか?ユウナとは…親友かな?」

光平が、自分の推測を呟いた。

「ユウナが由依と親友だったような印象は、特に感じなかったですけど…」

栞が、少し申し訳なさそうに否定する。

「だったら、何で…兄貴に彼女が見えたんだろ。逆に仲が悪かったのかな」

再び光平が悩み出すのを、栞が不思議そうに見つめる。

その意図を察したように、陽二が、

「北原。兄貴には、死んだ人の記憶が見える力があるんだ」

栞が驚いた顔をする。

「ちょ、陽二くんっ、そんなの喋っちゃって、いいの!?」

光平が慌てると、陽二が頷いて、

「いいんだよ。俺の力の事も話してるし。北原は、ベラベラ言いふらしたりしねぇよ」

口外しないでくれ、という意味を含んだ言葉に、栞は小さく頷いて、

「…それで、由依が殺されたって解ったのね。信じがたいけど、すごいわ」

「今まで、何人もの真実を見てきたから、嘘じゃねぇよ?」

陽二が真面目な顔で言った。

その時、玄関のチャイムが鳴った。

来客の予定など、無いはずだが。

「…誰だろ?」

光平が立ち上がる。

「北原、三上って人に、ここ教えてる?」

陽二の言葉に、栞が首を振った。

「…光平、俺が出る」

如月が、すかさず席を立つ。

そして、モニターに映っているのが初美だと解ると、

「なんだ、藤野か」

と、脱力しながら玄関へ向かった。

「びっくりさせるなよ」

そう言われて、きょとんとしていた初美が、

「如月さんが、ここで打ち合わせをしてる、って言ったから…」

「そうだけど…来る前に連絡しろよ」

「私、ちゃんと後から行きます、って言いましたよ?」

そんな言い合いをしながら中へ入ると、初美は一瞬動きを止めた。

栞とは初対面だった。

彼女の事で取り乱した陽二を見ていただけに、いざ本人を見ると、少し動揺してしまった。

それでも初美はすぐに気持ちを切り替えて、栞に礼をした。

「部下の藤野だ」

如月に紹介されると、栞も頭を下げた。

「で…藤野は何か調べて来たのか?」

「はい。あの店の女の子達について、少し情報が…」

初美はそう言うと、少し迷ったように、

「…兄…姉…いえ、兄の美容室に、何人か従業員の子達が、客として通っていました」

「そうなの?初美ちゃん、すごいね」

光平が無邪気に言った。

「ああいう仕事の人達は、出勤前に髪をセットするんだろうな、と思って…ちょっと兄に聞いてみたんです。そしたら…」

初美は少し暗い表情になると、

「従業員の中にも…覚醒剤に手を出している子が、いるようです」

「…やっぱり」

栞が呟く。

「ご存知だったんですか?」

如月が尋ねる。

「従業員同士の噂でしたけど…」

栞が答えると、初美が続けて、

「そして、その子達に薬を回す、取りまとめ役をしていたのが、ミサという子らしいです」

如月が、ミサの写真を指さす。

「ナンバーワンか」

「ミサは、組織の幹部の愛人だという話もあるそうですよ?」

初美はそう言って、

「だから、薬を扱う役割も、信用されて任されていたのでは、と」

「ユウさん情報、すごいねっ」

光平が、労うかのように、初美にコーヒーを運んで来た。

「…その、ミサって女が管理していた薬を、由依が盗み出して…バレたから殺された、って事か」

「…仲間割れ?」

陽二がそう言って、栞を見る。

正確には、栞の後ろに現れている人影も一緒に。

「…まだ、何かが違うって感じがする」

陽二はそう言いながら、栞の背後に浮かぶ由依の姿を見つめていた。

栞も、陽二の視線が自分を通り越しているのに気付くと、チラリと後ろを振り返った。

「…もし、ミサが由依の殺害に関与していたとして…」

栞が、陽二に視線を戻すと、

「お兄さんを撃ったのは…ミサが指示した誰か、って事?…あの時間、ミサは店内で接客中だったし」

「幹部の愛人ってくらいだから、誰かに言うことを聞かせるくらいの権力はあるんじゃねぇの?」

「聞き込みします」

初美が立ち上がった。

「その、ユウナって子に、何かありそうですから。喜一さんにも見えていたし」

やる気満々の初美を、陽二が制した。

「ちょっと待った。初美ちゃんは警察の人間なんだから、もしユウナも覚醒剤を買っていたとしたら、簡単に事情を話すとは思えない。自分だって捕まっちまう可能性があるんだから」

「じゃあ、私が…」

栞が言いかけると、陽二は首を振った。

「北原は、変に嗅ぎ回ってるのを気付かれたら、店にいられなくなるかもしれない。北原自身に、身の危険だってある」

「…でも、陽二くんは顔を見られてるかもしれないんでしょう?」

心配そうに言った光平は、ふと思い立って、

「…えっ?待って…」

光平は、陽二の言いたい事が解ると、

「…お、俺っ!?」

と、妙な声を出した。

「だって、お前しかいないじゃん」

陽二は、真面目な顔であっさり言った。

「ちょっと待った!」

そう叫んだのは、如月である。

「光平に、そんな危険な事をっ…」

如月は、すっかり警察の立場を忘れ、おろおろしていた。

「だから、方法はちゃんと考えるって」

陽二が如月の肩をポンポンと叩いた。

「…どんな方法?」

光平が不安そうに尋ねると、陽二は少し考えて如月に向くと、

「如月さん、警察で押収した麻薬、貸してもらえません?」

と、言った。

すかさず、如月が、

「そんな事、出来るかっ」

と、即答したのは、言うまでもない。



喜一は、見舞いに来た陽二と光平を見て、少々呆れていた。

光平がユウナに近付いて、情報を聞き出すという所は理解した。

薬で釣る計画は、如月に却下されたため、

「逆ハニートラップ作戦だ」

と、陽二が自信満々に言い出して、何かがおかしくなった。

要は、誘惑しろという話なのだが、光平にしてみれば未知の世界で、どうしたら良いか、陽二が教示しているところなのだ。

「お前っ、見つめるって意味解ってんの?ただ、ボケッと見てりゃいいってもんじゃねぇんだぞ?」

「解んないよっ」

「落とす意気込みで見るんだよっ」

陽二が、光平に向かって、熱い眼差しを向ける。

「なんかっ、食われそうで怖いっ」

「バカ、食いたがって見えるのが正解なんだよっ」

陽二はそう言って溜め息をつくと、

「仕方ねぇな。まあ、幸いにも光平は、そこそこ顔も悪くないからな…スキンシップ攻撃にするか」

「スキンシップ…って、触りまくれって事!?」

「そんな下品な事じゃねぇし。例えば…」

陽二が光平の髪の毛に少し触れる。

「うわ、引くっ、こんなの引くよっ」

光平が慌ててドアの方へ逃げ出す。

「待てよっ」

陽二は光平を捕まえると、

「解った!もう、いきなり誘っちゃえよ」

「誘う、って…どうやって?」

陽二はうーんと考えると、光平の頬に手を添えて、じっと見つめた。

「ち、近いっ」

光平がうろたえていると、いつの間にかドアが開いていて、そこには唖然とした顔の初美が立っていた。

「…ノック…したんです、けど…」

初美は消え入りそうな声で言いながら、そのままゆっくりドアを閉めた。

「…いや、そうじゃなくて」

陽二と光平は体を離すと、慌てて後を追った。


「そもそも、陽二に引っ掛かる人は陽二と同じ価値観って事だから…全ての人に通用するとは限らないよ」

喜一が、やっと落ち着いた空気が戻ると、言った。

「なんか、いつも陽二くんがあんな事してるのかと思うと、ちょっと嫌」

光平は、初美が差し入れてくれたロールケーキを頬張りながら言った。

「すみません、お取り込み中かと…」

初美が、まだ戸惑ったように二人を見る。

「いや、実の弟といちゃつく趣味は無いから。しかも、兄貴の目の前で」

陽二の言葉に、喜一が、

「どうしても、って言うなら、理解する努力だけはしてみるけど?」

と、真面目な顔で答えた。

「やめてくれ。せっかくのケーキがまずくなる」

「あの…私の話、してもいいですか?」

初美が遠慮がちに切り出す。

「もちろん、どうぞ」

喜一が、何事もないかのように、頷く。

「…喜一さんが撃たれた時、休憩に入っていた従業員がいたんです」

「え?」

全員が初美を見る。

「その時刻、誰がどんなふうに過ごしていたか聞き込みをしたんです」

初美は手帳を開いて、

「ボーイの浅川という男です」

その時、喜一も陽二も同じ事を思っていた。

自分達が来店した時、席まで案内した男か。

それなら二人の顔も見ているだろうし、通りすがりに会話を盗み聞きする事も可能だろう。

「じゃあ、その浅川って奴が、ミサに言われて…」

陽二が言った。

「…他にも気になる事が」

初美が続ける。

「ミサの客には、経済力のある人物が多かったんです。その上客の中に…最近、別の子に入れ込み始めた人がいるようで」

「…ミサは、自分の客を横取りされた恨みもあった、って事か」

陽二の言葉に、初美が腑に落ちない顔で、

「でも…その、別の子っていうのは、由依ではなく…ユウナなんです」

と、言った。

喜一は、しばらく考え事をしているように、一点を見つめていたが、ふと顔を上げると、

「藤野さん、もう一度、由依の持ち物を見る事は出来ますか?」

「…兄貴…そんな体で、無理する事ないよ」

光平が心配そうに言う。

初美も、同じ思いで喜一を見た。

「いや、大丈夫」

喜一は二人を交互に見ると、

「今なら、もっと真実に近いものが見えそうだから。僕の中の仮説を、確かめたい」

と、少し微笑んだ。

喜一は初美に向かって、

「如月さんにも、調べて貰いたい事があります」

「は、はいっ」

初美は、すぐにメモを取る準備をした。

「それから、陽二」

「え?俺?」

陽二が慌てて、喜一を見る。

「北原さんと三上さんにも、協力してもらいたい事がある」

「ねぇ、俺は?俺は何か無いの?」

光平が、不満そうに喜一に言うと、

「あ、光平は…」

喜一は、フッと笑って、

「妙な作戦は、遂行しなくて済みそうだ」

と、言った。




フードを目深に被った浅川は、物陰から店の入口を見つめていた。

あれから、少し時間は経った。

この街じゃ、もう誰もが気にしてなどいないはずだ。

その証拠に、相変わらず街は賑わっている。

浅川は、ゆっくりとポケットから拳銃を取り出した。

そして、店の方角へ、銃口を向ける。

「…物騒な物をお持ちですね」

背後から突然声がして、浅川は慌てて後ろを振り向こうとした。

しかし、何者かに体の自由を奪われる方が先だった。

捩じ上げた浅川の腕から拳銃を奪うと、三上は胸につけたマイクに向かって、

「捕まえましたよ」

と、言った。

その言葉を、イヤホンで確認した初美が、客を見送りに出て来ていたミサに近付くと、

「警察です。ちょっとお話を伺いたいのですが」

と、手帳を見せた。

ミサは、怪訝そうな顔をして、

「何ですか?仕事中なんですけど」

と、不機嫌な声で言った。

「たった今、あなたを狙撃しようとした犯人を捕まえました」

初美の言葉に、ミサは驚いて、

「…何ですって?」

と、眉を潜める。

「詳しくは、署で伺います」

初美がそう言うと、ミサが面倒くさそうに、

「時間はかからないんでしょうね?私は狙われた被害者なんだし」

と、尋ねた。

「それはどうでしょう。あなたには、他に伺う事がありますから」

「何よ?」

「覚醒剤…店内で従業員の子達に、売っていましたよね?」

するとミサは、落ち着いた様子で、

「何の事?知らないわ」

と、首を振った。

「そんなはずはありません。彼女達のロッカーに用意されたお金と引き換えに、薬を入れておくのが決まりだったはずです」

その方法は、喜一が改めて見た、由依の記憶が教えてくれたのだ。

初美の言葉に、ミサは少し動揺を見せた。

「それに…」

初美は真っ直ぐにミサを見つめて、

「由依さんがあんな事になって、あなた自身も驚いてるでしょう?」

その言葉に、ミサは絶句した。


店を出たところで、目の前に見知らぬ男が立ち塞がり、ユウナは足を止めた。

「…どなたですか?」

ユウナが尋ねると、男はポケットから何かを取り出し、言った。

「如月と申します」

それは、警察手帳だった。

そして、その後ろにいる人物にも見覚えがあった。

いつか、店に来た事があったような。

でも、自分が付いた客ではない。

確か、レイナが接客をしていた。

派手で若い男だったから、印象に残っている。

「…警察が、何か?」

「ちょっと、お話を」

如月は、目の前に停めた車を指さした。

陽二が、後部座席のドアを開ける。

それがパトカーでは無い事に、ユウナは少し警戒心を解いた。

「何の話です?」

「大声で話すような事じゃないんですけどね。こっちは周りに聞かれても構いませんが」

如月は、少しユウナに近付くと、

「命拾い、したでしょう?」

と、言った。

ユウナはその瞬間、視線を泳がせた。

「代わりに…由依さんが亡くなりましたけど」

如月の言葉に、ユウナは諦めたように息を吐いて、車に乗り込んだ。

陽二は運転席に座ると、如月を振り返った。

「出してくれ」

如月が言う。

「ちょっと…どこ行くのよ?」

車が走り出すと、ユウナが少し大きな声を出した。

「邪魔が入ると困るんでね」

如月はそう言うと、本題に入った。

「ユウナさん、あなたはミサと揉めてたそうですね?なんでも、ミサの上客だった男が、あなたを指名するようになったとかで」

「誰を指名するかなんて、客の勝手よ」

「でも…あなたはルールを破った」

ユウナは、外の景色を見ながら黙った。

「あの店では、誰かの固定客の指名を、体で横取りするのは、御法度だそうですね?」

「…知らないわ」

「いいえ。客本人が認めました」

如月が、ユウナを見る。

「殺人事件に関わる重要な事だと言ったら、あっさり喋ってくれましたよ。正直に言えば、あなたの事は公にしない、と約束したんです。やはり、自分の地位や名誉は大事なんでしょうね」

無反応なユウナに構わず、如月は続けた。

「そのせいで、ミサは相当頭にきていた。だからあの日…あなたに復讐をしたんですよ。覚醒剤を、あなたが横流ししていると見せかけるため、ロッカーに忍ばせた…」

ユウナは、ピクリと眉を動かした。

「あなたは、自分のロッカーに覚醒剤がある事に気付くと、驚いたと同時に嫌な予感がした」

如月は、ユウナに少し顔を寄せると、囁くように、

「やましい事がある人間っていうのは、不吉な事に敏感なようですね」

と、言った。

ユウナは、徐々に落ち着きが無くなっている様子で、何度も自分の髪に触れた。

「あなたは咄嗟に、大量の覚醒剤を…由依さんのロッカーに移した」

するとユウナは、

「何を根拠に言ってるの?」

と、言いながら、少し笑った。

「そんな事、私がしたって証拠でもあるの?」

「…でも、そうじゃないとしたら…あなたの指紋が由依のロッカーに付いてないはずですよ?」

如月の言葉に、ユウナは再び黙った。

「そこまで注意が向かなかったのでは?慌てていたでしょうし」

すると、ユウナは少し考えて、

「…そう、思い出したわ」

「え?何をです?」

「私、由依に煙草を貰ったのよ。同じ煙草を吸ってるから、たまたま買い置きが無くて…だから、私の指紋くらい付いてても不思議は無いでしょう?」

「本当に?」

「ええ。時々、そんな事があったのよ」

黙って聞いていた陽二が、ルームミラー越しにユウナを見ると、

「やっぱり慌ててたんだな」

と、呟いた。

「…は?何なのよ、あんた」

「気が動転していて、記憶も曖昧だったんだろ?」

陽二は、ユウナの後ろに見えている由依の姿を確認すると、

「彼女、濡れ衣着せられて怒ってるぜ?」

と、言った。

「気味の悪い事、言わないでよっ!」

ユウナがヒステリックに叫ぶと、如月が冷静に言った。

「ありませんでしたよ。あなたの指紋。全く」

ユウナが驚愕の表情で、如月を見る。

「ちゃんと、ハンカチで指を覆ったはずなのに…もしかして、って迷いが出ましたね」

「騙したの!?警察のくせにっ…!」

「如月さんは嘘なんて言ってない」

陽二は、由依が静かに消えて行くのを確認すると、

「あんたの話が本当なら、指紋はついてないはずだ、って…当たり前な事を言っただけ。指紋が付いてたなんて一言も言わなかった」

ユウナは、大きな溜め息をつくと、

「で?だったら、私は何か重い罪になる訳?私だって、嫌がらせされたんだから、逆に訴えたいくらいだわ」

「それは、これから署に着いてみないと」

如月はニッコリ微笑むと、

「してもらいますよ?薬物検査」

と、言った。



「兄貴の見た光景って、何だったの?」

病室で、仕事帰りに立ち寄った光平が、待ちきれないように切り出した。

「由依は、ミサが薬をユウナのロッカーに入れている所を、偶然見ていたんだ。それで、どうしようか迷ってるうちに、いつの間にか薬は自分のロッカーに移動していて…」

「焦っただろうね…」

光平が、呟く。

「うん。だから、ひとまず由依は自分のバッグに詰めて…そのまま帰宅してしまったんだ」

「誰かに相談しなかったのかな?」

「言ったさ。浅川にね。由依は帰宅して、浅川に電話をした…携帯の画面が、由依の記憶に残ってたから…」

「え?」

光平が驚いた顔をする。

「浅川は…恐らく由依と付き合ってたんだろうな。どうしてユウナのロッカーにあった薬が由依の元に移動したのかはともかく…ミサが発端なのは浅川にも想像がついたから、由依もミサにはめられたと思い込んだのかもしれない。それで…由依の敵を討とうとして…」

「…え?ちょっと待って」

光平がきょとんとする。

「じゃあ…兄貴が狙われたんじゃないの?」

「……うん」

「えぇっ!?撃たれ損っ!?」

そんな、気が滅入る言い方を、思いきりしなくても…。

と、喜一は思った。

「如月さんに頼んで、街の中にある防犯カメラをチェックして貰ったんだ。僕が撃たれた時に、店の前がどんな状況だったのか…。そしたら、ちょうど、ミサが客を見送りに出て来ていたんだ」

「…で、ミサを狙ったのに、兄貴に当たったの?」

「…光平、離れた場所から狙った的を、確実に撃てる自信ある?」

すると、光平は悩んだように視線を巡らせて、

「解んない。ゲームでしか撃った事無いし」

「だろ?だから、僕じゃなくても、違う誰かに当たってたよ、きっと」

「…大変だったね、兄貴。でも、プラスに受け取れば、当たり年って事だから」

あまり、慰めにならないけど。

喜一は、そんな言い方も光平らしいと思った。

「後は…また浅川がミサを狙うだろうと思って、三上さんに尾行を頼んだ。それから…ミサが薬を入れたのがユウナのロッカーなら、それを移動させたのも、ユウナって事だろうから、北原さんに指紋を採って貰えるようにお願いしたんだ」

「なるほど…北原さんなら、店の中も自由に行き来出来るし、探偵だから知識もあるしね」

「で、指紋は出なかったけど…まあ、如月さんなら、何とかするんじゃないかと思って」

丸投げだったが、実際に何とかなったようだから。

「ところで、陽二くんは?」

光平が、窓の外を見渡しながら聞いた。

「陽二は、今日一日、如月さんに付き合ってたみたい。真相が明らかになって、由依が消えるのを見届けようと思ったんじゃないかな」

「そっか…陽二くん、亡くなった人が何を伝えたがってるか解らないって言ってるけど、最近は雰囲気で解る時もあるみたいだし、進歩してるって事だね」

「今後、彼女達の自供がないと断定は出来ないけど、薬の横流しで殺されるとまでは、ミサもユウナも思ってなかったかもしれないな…」

「でもさ」

光平がまだ解らないという顔をして、

「由依が薬を持って帰った事を、誰が組織にバラしたの?」

と、聞いた。

「それは、多分…ミサはユウナがロッカーに隠し持ってる、って言ったんだろうけど…実際には入ってなかった。組織の人間に聞かれて、由依が怪しいと証言したのは、ユウナじゃないか?現に、由依のバッグに入っていたのを、踏み込んだ男達が見つけたから、組織側も由依が横流しの犯人だと信じた」

「…持って帰っちゃったのが、不運だったね」

しかし、例え殺されなかったとしても、罪は償わなければならない。

覚醒剤は、違法には違いないのだから。

そして、そこから立ち直ろうとする人も、いる。

喜一は、過去の出来事を、ふと思い返していた。

「…とにかく、後は如月さん達に任せよう」

喜一はそう言って、すっかり暗くなった外を見た。

陽二は、真っ直ぐ家に帰っただろうか。

「ねぇ、あとひとつ…気になる事があるんだけど」

光平が尋ねる。

「北原さんが、由依の中に強いイメージとして残っていたのは、どうして?」

「ああ、それか…」

喜一は、ふと視線を落として、

「陽二には、伝えておいたんだけど…」




人の気配が無い公園で、陽二は栞とベンチに座っていた。

「何?話って」

栞が、前を向いたまま尋ねる。

「塚田由依の両親に、報告はしたのか?」

「まだよ。今、資料と報告書をまとめてる」

「…あの店、辞めるんだろ?」

「そうね。もう、いる必要無くなったし、他の案件もあるから。探偵って、意外と多忙なのよ」

栞が、フッと笑った。

「兄貴が言ってたんだけど…」

陽二は、まだ開けていない缶コーヒーを、手の中で転がしながら、

「由依の記憶の中に、北原のイメージが強く残ってたって」

「…私の?」

栞が、チラリと陽二を見る。

「うん…でも、ミサやユウナとは違って…多分、由依は北原の事を信用してたと思うって」

その言葉に、栞は複雑な顔をした。

「お前は仕事だったかもしれないけど、由依は、お前と仲良くしたいと思ってたみたいだよ。兄貴の意見だけどな」

「そう…何だか、悪い事しちゃったわね…」

栞は、どこか寂しそうな顔で呟いた。

「いいんじゃねぇの?…信用してたお前が、自分の死の真相を暴いてくれたんだから。由依も感謝してるはずだ」

「…そうかな?」

「うん。もう由依の姿も見えてないし。満足してんじゃねぇの?」

陽二はそう言って微笑んだ。

栞も、少しだけ笑顔を返した。

陽二は言葉に詰まった。

何から切り出したら良いのか。

言いたい事は、たくさんある。

「ねぇ、日向」

栞が口を開いた。

「何も言わないで、いなくなってごめんね」

「…え?」

「私ね、日向に謝らなきゃって思ってた」

栞は、あの頃の自分の気持ちを取り戻すかのように、遠い目をした。

「日向には、たくさん助けてもらったのに」

「…そんな事ない。俺の勝手な自己満足だったんだから」

「…あの後、私はすぐに退学して…先生もどうなったか解らないの。私は働き始めて、実家を出たし」

そうだったのか。

教師への想いは、成就しなかったんだ。

「私も子供だったから…まさに若気の至りね」

栞が、クスッと笑う。

じゃあ、今なら?

あの頃より、二人とも少しは大人になれてるかな?

陽二は、栞の横顔を見つめた。

すると、栞が言った。

「また、いつかどこかで会う事があるかな?」

「…え?」

「今度はお互い、おかしな事件に巻き込まれてなきゃいいけど」

これから、また会えるんじゃないのか?

これっきり、連絡を断つつもりなのか?

再会は、必然だと思わない?

陽二の頭の中で、様々な感情が渦巻いていた。

すると、栞が言った。

「私ね、これでも、結婚してるの」

陽二は、予想外の言葉に驚いた。

それに反して、栞は明るく清々しい顔をしている。

「携帯、この仕事が終わったから、解約するの。だから、削除しておいて」

栞は、そう言うと、立ち上がった。

「じゃあね、日向。元気で」

栞が、ゆっくりと歩き出す。

陽二は、言葉を発せずに、じっとその姿を見つめていた。

もう二度と、会えないかもしれない。

自分の思いは、伝えなくてもいいのか。

やっと、過去に、忘れていた真実に向き合う事が出来たのに。

陽二は立ち上がった。

「北原っ」

栞が、足を止める。

「…元気、でな」

陽二は息を吸うと、大声で言った。

「いっぱい、幸せになれっ」

陽二の声に、栞は振り返らないまま、ヒラヒラと手を振った。




光平が、喜一の着替えを片付けながら、

「そろそろ退院だって言うから、いらない物は持って帰るね」

と、嬉しそうに言った。

光平は、本当によく身の回りの世話をしてくれる。

「職場も、復帰するのを待っててくれるって言うし。良かったね、兄貴」

確かに。

職を失わなくて良かったのは、幸いだ。

そういえば、しばらくゆっくり読書もしていない。

職場復帰までの間、家で思いきり自分の時間を好きに使おう。

病室のドアが開いて、陽二が入って来た。

「あれ?陽二も今日は休みなのか?」

喜一の問い掛けに、陽二は持って来た袋を差し出して、

「うん。腹減ったから、色々買って来た」

光平が、中を覗き込みながら、

「ねぇ、陽二くん。お酒とつまみも入ってるよ?さすがに病室じゃ、ダメでしょう?」

と、言った。

「それは、家に持って帰るの。いくら俺でも、そこまで非常識じゃねぇよ」

陽二が、光平の頭をぐしゃっと撫でた。

喜一は、いつもと変わらない陽二を見て、安心した。

ちゃんと、自分の中で、過去の整理がついたようだ。

「非常識と言えば…」

光平が髪の毛を直しながら、

「陽二くん、今も家から来た訳じゃないよね?昨日、帰って来なかったし」

「それが?悪い?」

「そもそも、陽二くんの女癖って、北原さんとの事が原因で、って話じゃなかった?そこが解決したのに治ってない、って事は…やっぱり、元々の陽二くんの素質だった、って事だよね?」

「…そう言われたら、そうかも」

喜一も、納得したように頷く。

「余計なお世話だ」

陽二が、再び光平の頭を掻き乱す。

「そんな事よりさ」

陽二が続けて、

「兄貴の退院祝いに、どっか行かねぇ?」

「どっか、って、どこ?」

光平が、くじけずに髪を直して言う。

「どこでも。せっかく兄貴が生き残ったんだし、兄弟水入らずで」

その言い方…。

喜一は複雑な顔をした。

「たまには、いいかもね」

光平が、うんうんと頷いて、

「俺、思ったんだ。母さんが、俺達に力を使えって言ったのは、もっと俺達に人生を大事に生きて欲しいからなのかな、って…生きている事が、どれだけ素晴らしくて、どんなにラッキーな事か、きっと気付いて欲しかったんだよ」

「お?急に大人になったな、光平」

陽二が、ニヤッと笑う。

「人生の時間を大事に使って、大事な人と大事な思い出、作りたいなぁ、って思うんだ」

光平はニッコリ微笑んで、

「だから、退院祝い、行こうよ、兄貴」

「いいけど…どこに?」

「温泉っ!」

光平が、自信満々に言う。

「えー?もっと、遊べる所にしようぜ」

陽二が反論する。

「遊ぶ、って…まだ兄貴は無理出来ないんだから、落ち着ける場所がいいよ」

「温泉だって、兄貴がゆっくり入れるか解んねぇだろ」

「あ、切り傷に効く温泉探せばいいんじゃない?」

「バカ。切り傷ってレベルかよっ」

二人のやり取りも、少々騒がしいが、悪くない。

喜一は、いつの間にか少し笑顔になって、その光景を見つめていた。

その時、ふと陽二が動きを止めた。

「…どうしたの?陽二くん」

光平も、それに気付いて静かになる。

「…光平っ……憑いてるぞ…」

「えっ!?こ、今度はどんな人っ!?」

光平が、慌てて後ろを気にし始める。

「どんな人、って…」

陽二が、戸惑いながら言った。

「……馬だな」

「…動物っ!?」

「馬だと、全然表情が読めねぇ」

とうとう、人間以外も見えるようになったのか。

やれやれ。

力が進歩するのも、大変だな。

横で見ていた喜一は、思わずクスッと笑った。






《最終話・完》



《last case》



「見て、見てっ!」

助手席の光平が、大声で叫ぶ。

陽二は、車を路肩に停めると、

「何だよっ」

と、窓の外を見渡した。

「もしかして、あれか?」

後部座席の喜一が、指をさす。

外は、一面に牧草畑が広がっている。

そんな景色の中で、一つだけ立っている看板は、探さなくとも目に入ってきた。

「…花村ファーム…牧場か?」

陽二が呟く。

「ここ、絶対怪しいっ。予感がする」

光平はそう言うと、

「陽二くん、行ってみて」

「え?…どうする?兄貴」

すると喜一が、半ば諦めたように、

「…行ったら、光平の気も済むんだろうから…仕方ない」

と、陽二に向かって頷いた。

そう、仕方ない。

元はと言えば、自分が光平の後ろに馬が見えるなんて言ったせいなのだから。

陽二は、ゆっくりハンドルをきると、牧場の入口へ続く道を進んだ。

今日の休日は、喜一の退院祝いのためだった。

しかし、光平がどうしても馬が気になると言い出して、あまりうるさいから、宛も無くドライブでも行ってみるか、となったのだ。

そして、今の状況という訳である。

「あれ?」

牧場の入口に、見覚えのある車が停まっている。

「父さんの車だ」

光平が呟く。

「如月さん?…何か、事件か?」

陽二は隣に車を停めた。

すると、建物の陰から、如月が初美と共に現れた。

「…光平?」

二人はラフな出で立ちをしていた。

どうやら仕事で来たのではないらしい。

「父さん、どうしたの?」

「今日は完全にオフだ。ここのオーナーが昔からの知り合いで」

「乗馬に来たんです」

初美がニッコリ笑って言った。

「乗馬?…如月さんに、そんな趣味があったの?」

陽二が驚いた顔をする。

「実は、かなりの腕前だ」

如月が、得意気に言う。

「私は乗馬の経験が無いって話してたら、如月さんが誘ってくれたんです」

「光平達は…乗馬に来たんじゃないよな?」

如月が、喜一の体を見て言った。

「陽二くんが、俺の後ろに馬を見たの」

光平の言葉に、如月と初美がきょとんと、する。

「…陽二くん、動物まで見えるようになったのか…」

如月が、感心したように呟いた。

「俺にも、よく解んないだけど」

陽二が、困ったように頭を掻きながら、

「つい、正直に言っちゃったら、光平が気になるってうるさいから…本当は兄貴の退院祝いにどこか行くつもりだったのに、馬探しツアーに変更」

「きっと、何かあるんだよ。導かれたみたいに、ここ見つけたし」

自信満々に、光平が言った。

「…何があるか解らないが…とりあえず、乗ってみるか?馬」

「うわ〜、乗りたいっ」

如月の言葉に、一番盛り上がったのは、光平だった。

馬舎に向かって歩きながら、陽二が光平に向かって囁いた。

「なぁ、よく考えたら、如月さんも初美ちゃんも独身だから…二人が上手くいく、って可能性もアリだよな?」

「えっ…!?」

光平が息を飲む。

「…な、ないでしょ?年も離れてるし」

「そんな事ねぇよ。爺さんと孫みたいなカップルだって、いるし」

「…でもなぁ」

光平が、前を歩いている如月と初美を見る。

すると、初美がいきなり立ち止まった。

初美は、くるりと振り返ると、

「喜一さん、大丈夫ですか?」

そう言って、喜一が歩いて来るのを待った。

「大丈夫です。歩くくらいは支障無いですから。乗馬は…無理かもしれませんが」

喜一が苦笑する。

体より、自分に馬の記憶が見えるかどうかの方が心配だった。

「…無いね、ほら、初美ちゃんは父さんなんて眼中にないみたい」

光平が、初美の言動を見て、クスッと笑った。

ちょうどその時、近くの納屋から、一人の男が出て来た。

男は如月を見ると、

「いらっしゃい。今日はお仲間も一緒ですか」

そう言って笑顔になった。

「こんにちは。すみません、大勢で」

如月は頭を下げると、喜一達を振り返った。

「オーナーの花村さんだよ」

花村は、人柄がよさそうな初老の男だった。

一通り紹介をされると、喜一が辺りを見渡して、何棟も牛舎が並んでるのを見つけると、

「牛を飼ってるんですか?」

と、聞いた。

「ええ。元々は牛がメインの酪農ですから、馬は趣味なんですよ」

花村はそう言うと、

「馬は、全部で7頭います。そこが馬舎ですよ」

と、牛舎に比べると小さめの棟を指さした。

馬舎の入口に、柴犬が繋がれていて、来客が多い事に興奮しているのか、嬉しそうに尻尾を振っている。

「あ、そいつは迷い犬で、最近居着いたんです」

花村がそう言った時、

「うわ〜、馬だっ」

馬舎に足を踏み入れた光平が、感嘆の声を上げた。

「如月さんがいつも乗ってるのは、この馬ですよ」

花村が指さした先に、栗色の綺麗な毛並みの馬がいた。

「可愛いですねぇ」

初美も、無邪気な笑顔で馬を見つめる。

「あれ…?」

陽二が、通路の突き当たりを見て呟いた。

そこに、一人の少女の姿があった。

馬舎の中には似つかわしくない、学生服姿だったため、陽二は一瞬、生身の人間かどうか迷った。

「ああ…また今日もいらっしゃってる」

花村が、少し切なそうに言った。

「誰です?」

如月が、不思議そうに尋ねる。

「有本雄三って、ご存知ですか?」

花村の問い掛けに、如月が頷く。

「誰だ?それ」

陽二が首を傾げる。

「実業家だよ。結構有名で、本も出してる」

喜一が答える。

「金持ち?」

光平が率直に聞いた。

「かなり、ね」

喜一はそう言って少女を見た。

「有本さんのお嬢さんなんですよ、あの子」

花村は、目の前の馬を撫でながら、

「有本さんも、馬を飼っているんですが…乗馬中に突然暴れたらしく、お嬢さんが落馬したんです。それで…たまたまちょっとご縁のあった私の所に、馬を処分するよう言って来て…」

「…処分って…殺しちゃうって事?」

光平が驚いて聞くと、花村はやりきれない顔で、

「私が引き取って、置いておくつもりだったんですが…ああして、お嬢さんが毎日会いに来てしまうものですから…有本さんから、早く処分するよう催促されてるんです」

「ひどいな…」

陽二も、顔をしかめる。

「如月さん、勝手はご存知でしょうから、乗って結構ですよ。私は、お嬢さんに帰るように言ってきます。じゃないと、また有本さんから苦情の電話が入りますから。後で、もう一頭連れて行きますね」

花村はそう言うと、ゆっくり少女の元へ歩いて行った。

「じゃあ、行くか」

如月は、気を取り直してニッコリ笑った。


さすがに如月は、慣れているだけあって、乗馬の姿は様になっていた。

花村が連れて来たもう一頭の馬は、初美が指導を受けながら乗っていた。

「少し、コースを走って来るよ」

如月がにこやかに言うと、華麗に馬を操りながら、柵を出て行く。

傍らの木製のベンチに座って、皆の様子を眺めている喜一の元に、陽二が駆け寄って来た。

「兄貴、大丈夫?」

「僕は平気だよ。こいつもいるし」

喜一の足元には、さっきの柴犬が、すっかりなついた様子で座っていた。

「馬って、可愛いし楽しいよ。俺も乗馬やろうかな〜」

陽二が満足げに、澄んだ青空を見上げて言った。

こいつも充分可愛いけどな。

喜一は、柴犬の頭を撫でた。

「あれ?光平は?」

陽二が、キョロキョロと辺りを見回す。

喜一は、遊んで貰えるのかと期待の眼差しで見ている柴犬のリードを、陽二に預けて、

「僕はまだ走れないから、こいつと遊んでやって」

「いいけど…光平、どこ行ったんだ?」

「きっと…」

喜一は、馬舎の方を見て、

「本来の目的を果たしに行ったんじゃない?」

と、言った。


光平は、そっと馬舎を覗き込んだ。

まだ、少女はそこにいた。

光平が、ゆっくり少女に近付いて行くと、それに気付いた少女が、ビクッと身構える。

「こんにちは」

声を掛けても、少女は警戒した目で、じっと光平を見たままだった。

「えっと…大丈夫だよ?俺、お客さんだから」

光平がそう言うと、やっと少女は肩の力を抜いた。

「…君、中学生?」

光平が尋ねると、少女は小さく頷いて、

「…中2」

「これ、君の馬なの?」

「…そう。タイガー」

タイガー?

馬なのに?

光平が中を覗くと、艶々した黒い毛並みの馬がいた。

「綺麗な馬だね」

光平は素直にそう言って、少女を見た。

少女は、今にも泣き出しそうな顔で、じっと馬を見つめている。

「君の馬…お父さんを怒らせちゃったみたいだね?」

「…タイガーは悪くないのに」

少女は、声を震わせて、自分の腕を掴んだ。

袖から、チラリと包帯が見える。

「怪我、大丈夫?」

光平の言葉に、少女が言った。

「こんなの平気。タイガーの気持ちに比べたら…」

「…え?」

「ポケットに入れたままだった携帯が落ちて…慌てて手を伸ばした時に落馬したの。タイガーが暴れたんじゃない。私が勝手に落ちたのに…」

「そうなの…?」

「だけど…パパは信じてくれなくて…」

少女は、光平に顔を向けると、涙で潤んだ瞳で見つめた。

「タイガー、死んじゃう…」

そんな目をされたら…。

お兄さんは、何とか助けてあげたくなるじゃないか。

「…お父さんには、ちゃんと話した?」

「何度も…だけど、信じてくれないのっ」

少女は、零れる涙を拭った。

「一緒に、何かいい方法を考えようか?」

「…え?」

少女が顔を上げる。

「俺は、日向光平。君は?」

「有本葉月…」

「じゃあ、葉月ちゃん、作戦会議だ」

光平は、ニッコリ微笑んで見せた。




何をやってるんだ。

全員が、ポカンとして屋根を見上げていた。

もちろん、喜一の隣の柴犬も。

牛舎の上に、光平と葉月の姿があった。

「…多分、光平なりに知恵をしぼったんだろうけど」

喜一が呟く。

「せめて、決行する前に相談しておけよ」

陽二が呆れて溜め息をつくと、

「…もし、娘が間違って落ちたりしたら、光平こそ殺されるんじゃねぇの?」

と、言った。

砂利道を、けたたましく走ってくるタイヤの音がした。

黒塗りの高級車が、背後に停まる。

ドアが勢い良く開くと、まるで転がり出るかのように、一人の男が降りてきた。

「あ、有本さんっ」

花村が、慌てて駆け寄る。

「一体、何事なんだ!」

有本は、かなり立腹した様子である。

「お嬢さんがっ…いつの間にか、あんな所にっ」

花村は、かなり動揺していた。

有本は、屋根を見上げると、愕然として動きを止めた。

「…葉月っ…何をしてるんだっ!」

有本の声に、葉月は大声で、

「タイガーを連れて帰るのっ!」

と、言った。

タイガー?

もしかして、あの馬の名前?

馬なのにタイガー?

花村以外の四人が、一瞬、顔を見合せた。

「葉月っ、降りて来なさいっ!」

「嫌っ!タイガーを殺さないって約束してくれなきゃ、降りないっ!」

隣の光平は、勢いがついて、葉月が落ちてしまわないか、心配そうに見つめていた。

「葉月っ、タイガーは危険なんだっ!処分するのは、お前のためでもあるんだぞ!」

有本はそう言うと、花村に向き直って、

「さっさと、あの馬を処分しないから、あんな事に…」

そして、再び屋根を見上げると、

「それに、あの男は一体何者だ!?きっと、あいつにそそのかされて、こんな事をしているんだろう!?」

確かに。

やり方は、そそのかしたのかもしれないな。

喜一と陽二は妙に納得していた。

「どうしてもタイガーを連れて帰らないなら…」

葉月が、ジリジリと足を移動させる。

「…危ないっ」

初美が思わず声を出す。

「葉月っ!バカな事は…」

有本が、慌てて叫んだ。

あの場所から飛び降りても、助かるかもしれないが、無事ではないだろう。

喜一がそう思った時、葉月が光平の腕を掴んで言った。

「この人を突き落とすからっ!」

「えぇっ!?」

一番驚いたのは光平だった。

「…そう来たか」

陽二が呟く。

「葉月っ、やめなさいっ!」

有本が、顔面蒼白になって、あたふたし始める。

「…本当に落としたりしないよね?」

光平が、恐る恐る葉月に尋ねる。

葉月は、じっと父親を見つめながら、

「…パパがタイガーを許さないなら、解らない」

勘弁してくれよ。

光平は、焦って地上の如月を見た。

如月も、光平が本気で怖がっているのが解ると、大きく頷いて有本に向いた。

「…えっと、有本さん」

有本が、不機嫌そうに如月を見る。

「何だ!?」

「ちょっと落ち着いて下さいよ。整理しましょう」

「な、何を呑気な事を…!あんな状況で落ち着いてなんていられるかっ!」

「あんな状況だから、こそですよ。確かに非常にまずい状況だ」

傍にいた花村が、

「こちらは、警察の方なんです」

と、有本に言った。

「警察…?」

有本は、じっと如月を見ると、目の前に詰め寄り、

「だったら尚更、なんとかしたらどうだ!」

「いや、ちょっとお待ち下さい」

如月が、手を上げて有本の動きを制する。

「今の状況だと…逮捕されるのは、あなたのお嬢さんの方ですよ?」

有本が、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「お嬢さんが、言う事をきかないと、あの青年を落とす、と脅迫しています」

如月は、喜一達にくるりと向いて、

「皆さん、そう思いますよね?どうです?」

喜一達は、うんうんと頷いた。

ついでに、柴犬も。

「…て、事で…このままあなたが娘さんの言い分を受け入れなきゃ、私は娘さんを逮捕…しますよ?」

有本は、悔しそうに顔をしかめて、

「…花村さん、タイガーを…引き取ります」

と、言った。

「あ」

如月が思い付いたように、

「タイガーを、ご自分で処分しようなんて、思わないで下さいね?そうなったら、また娘さんが何をするか…解りませんよ?」

そう言って、ニヤッと笑った。

初美が、屋根に向かって叫ぶ。

「話はつきました!降りて来て下さい!」

すると、光平が頼りない声で言った。

「お、降りれません…」



「申し訳ありませんでした…」

地上に降りた光平は、素直に頭を下げた。

「…お前は一体…」

怒りに満ちた顔をした有本が、光平に近付く。

「パパ、やめて」

葉月が口を出す。

「私が頼んだの。タイガーを助けて、って」

「葉月…」

「でも、ちょっと危なかったな。反省しろよ?光平」

陽二がそう言うと、光平がしゅんとして俯いた。

「でも、彼女にしてみれば…自分を危険にさらしてでも、馬を助けたかったんだよな?」

陽二が見ると、葉月は小さく頷いた。

「有本さん…もっと娘さんの気持ちを聞いてあげて下さい」

如月が有本に向き直ると、言った。

「あなたの話は…全て人のせいだ。彼女が怪我をしたのは馬のせい。彼女がここに通うのは、馬を処分しない花村さんのせい。そして、娘さんがこんな事をしたのは、彼のせい」

如月は、光平の肩をポンと叩いた。

「人の事なんて、関係ない。彼女がそうする理由は、彼女の中にあるんです」

有本は、黙って如月の言葉を聞いていた。

「…娘さんの気持ちを理解するのは、簡単ではないかもしれません。しかし、娘さんは決してあなたを拒絶してはいません」

有本が、顔を上げる。

「こんな方法は、間違っているかもしれませんが…娘さんは、今、全身全霊であなたに気持ちを伝えようとしたんですよ?…真剣に、あなたにぶつかって来たんです。嬉しい事じゃないですか」

如月は、ニッコリと笑った。

「…うちには…母親がいません」

有本が口を開く。

「私は仕事もあるし、ずっと娘の傍にいる事は出来ませんから…正直、どうしたらいいのか解らない部分が多くて…」

有本は、苦笑いをしながら、そう言った。

「これからですよ。これからだって、充分育めます」

如月の言葉に、光平も顔を上げた。

「気持ちが解らないなら、聞いてみればいい。大人も子供も一緒です。そんな不器用でも、いいんですよ」

「かっこよぎる親父ってのも、嘘っぽいからなぁ」

陽二が横からそう言って、ニッと笑った。

黙ってベンチに座っていた喜一は、柴犬と共に立ち上がると、有本の傍に歩み寄って、

「僕の弟です。ご迷惑をおかけしました」

と、頭を下げた。

光平も、慌てて頭を下げる。

「じゃ、俺達はそろそろ帰ろうぜ」

陽二は喜一を見て、

「兄貴、犬は返して来いよ?」

と、言った。




「今回のケースは、結局、葉月ちゃんの念だったのか?」

帰宅すると、陽二がビールを飲みながら聞いた。

「だったんじゃないの?…光平や陽二の力も、まだまだ未知数だな」

喜一が、ソファに座ると、大きく伸びをした。

「光平、気が済んだか?」

陽二の問い掛けに、光平の返事は無かった。

何かを考えているように、ぼんやりしている。

「…光平?」

喜一が呼び掛けると、光平がハッと顔を上げた。

「あ、ごめん…何?」

「どした?お前、帰って来る時から、何か変だよ?」

陽二が、光平の分もビールを取り出すと、手渡した。

「…あのさ」

光平が、小さな声で切り出す。

「…考えてた事があるんだけど…」

「何だよ?」

光平が深刻な顔をしている事に気付いて、陽二も心配そうな顔をする。

「…俺さ…」

光平は、大きく深呼吸をすると言った。

「父さんと、暮らそうかと思ってる」

喜一と陽二は、一瞬言葉を失った。

「…え…それって…」

陽二が戸惑いながら、

「…ここを出て行くって事?」

光平が、こくんと頷く。

「…前から、ちょっと考えてた事なんだけどね」

陽二が神妙な顔付きで、ビールをテーブルに置いた。

「…父さんも、ずっと一人で生きて来て、俺みたいな息子でも家族がいるって解った訳でしょ?…今まで色んな事を見てきて…俺も父さんの傍にいようかな、って…父さんとも、家庭を味わうの、悪くないかな、って…」

じっと聞いていた喜一が、小さく息をついて、

「そうだな…そうしなくても、いつか結婚して陽二も光平も、ここを出て行くかもしれないんだし」

「兄貴…」

肯定的な喜一に、陽二が驚いて顔を見る。

「…この家が、嫌な訳じゃないし…兄貴達と住むのも…全然嫌じゃないんだよ…」

光平は、何とか上手く自分の言いたい事を伝えようとした。

しかし、思うようにふさわしい言葉が見つからない。

困った様子を察して、喜一が、

「大丈夫だよ、光平。それは解ってるし、家族である事に変わりはない」

「…わがまま言って、ごめん」

光平が頭を下げる。

「謝らなくていい。僕達は、色々と変わるべき時なのかもしれない」

喜一は、優しく光平の頭を撫でた。

陽二は、少し寂しげに、光平を見つめていた。

母が望んだ、自分達の成長。

如月と引き合わせる事に、何を望んでいたのか。

「僕は、まだあまり力仕事は出来ないから、陽二、引越しの手伝い頼んだぞ?」

喜一が微笑むと、陽二はやっと状況を受け入れて、

「よし、解った」

と、笑顔になった。

「じゃあ、まずは一階からだ」

喜一の言葉に、陽二と光平が、

「え?一階?」

「…光平の部屋、二階だぜ?」

と、きょとんとした。





騒がしい音がして、いつものように光平がリビングに飛び込んで来た。

「おはよう。また、夢か?」

トーストにかじりついていた陽二が顔を上げる。

「ち、違うよっ、今日は寝坊っ」

「は?寝坊?」

「今日は大学の卒業式だから、早朝から予約が入ってんの!」

光平は、慌ただしく洗面所へ駆け込んで行く。

「なんの騒ぎ?」

庭に出ていた喜一が、出窓から家の中を覗く。

「光平が寝坊だってさ」

「そっか。僕は散歩に行って来るよ」

喜一はそう言うと、庭に繋いでいた柴犬にリードを付け替えた。

「そいつ、全然俺になつかないんだよな」

陽二が不満そうに呟く。

「陽二が、ちゃんと名前を呼んでやらないからだ」

「だって…柴犬のくせに、マイケルだぜ?」

「仕方ないだろ。花村さんの所で飼われてた時から、マイケルだったんだから」

「行って来ます!」

光平が、バタバタとリビングを出て行こうとした時、急にドアが開いて如月が入って来た。

「お、光平」

「父さんっ、ちょうど良かった!車で送って」

「は?今、夜勤から帰って来たばかりで…」

「いいから、早くっ、遅刻するっ!」

光平は、如月の腕を掴むと、一緒にリビングを出て行った。

「あーあ、連れて行かれちゃったよ」

陽二がクスッと微笑む。

「大事な息子の頼みだからな」

喜一は、光平を乗せた如月の車が走り去るのを、庭から見送った。

四人の生活。

最初はどうなる事かと思ったが、なんとか形になってきた。

新しい家族も増えたし。

喜一は、柴犬を見つめた。

いつか、それぞれの家庭を持てば、バラバラになる時が来るかもしれない。

でも、それまでは一緒に過ごしてもいいじゃないか。

紛れもなく血を分けた家族同士。

全員が離れる事を望まないのなら、多少むさ苦しいが、それも悪くない。

「よし、行こう、マイケル」

喜一はそう言うと、庭から外に出た。

「いってらっしゃい」

陽二の声が、後ろから聞こえてきた。


いい天気だな。

光平に言わせると、

「今日も平穏」

喜一は、真っ青な空を見上げた。








《Fin》

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