第29話:ギリスの仮説
その日、アナガト川に浮かぶ船にサルヴァ王子の姿があった。
王子の傍には一人の男が付き従っている。その男は体格が良く力強さを感じさせたが、武人を思わせる殺伐とした雰囲気は纏っていない。民間人の様だった。
王子は船上から川面を見下ろした。
「聞きしに勝る急流だな。問題はないか?」
男は自分に目を合わせずに語りかける王子に、何の非礼さも感じていない様に口を開く。二人の身分の差を考えれば当然だった。
「なに問題はありません。予想よりも急流ならむしろ好都合です」
王子が男に向き直った。男の言葉に何か不満があるのかその表情は眉を顰め笑顔とは程遠い。
「しかし、あまりに急流であると、その勢いで流されてしまわないのか?」
男は背に冷たいものを感じた。自分が託されている作業はこの戦いに置いて重要な位置を締めると言う。不備があれば自分の命は無いだろう。
「勿論長時間は難しいですが……。御指示通りの事を行う間なら持つと思います」
「ならばその後は流されると?」
「はい。すぐにではありませんが多分そうなります。なにか問題でしょうか……」
男は王子に問いかけ返したがその表情は不安げで、足は小刻みに震えていた。その様子に気付いた王子は、男を安心させる為に微笑んでやった。王子に男を苛めて喜ぶ可虐趣味は無かったのだ。
「いや、それならばむしろ好都合だ。引き続きよろしく頼む」
「分かりました」
男は笑顔で答える王子に安心し、王子に悟られぬ様そっと安著のため息を付いた。
その後、船から降りた王子は本陣へと向かい今回の計画について考えた。
計画に問題は無いはずだ。だが相手はかつて自分が敗北を認めた事もあるあのギリスだ。油断する事は出来ない。しかしそのギリスですら以前は帝国軍の総司令官ではなくヘルバンの下の参謀だった。
そのヘルバンに自分は勝ったではないか。いやヘルバンに勝てたのは純粋に兵力差のおかげだ。同数ならそう易々とは勝てなかっただろう。
サルヴァ王子の胸中に自信と不安が交錯した。王子には間違いなく軍略の才能があった。グレヴィ、ギリスと比べても凌駕するほどの才能が。しかし経験という面ではグレヴィは勿論ギリスともその差は歴然としている。その自覚が王子に絶対の勝利を確信させないのでいた。
だが王子は、次の瞬間頭を一振りすると不安を振り払った。軍勢を指揮する司令官が不安がっていてはその下にいる者達は戦う事は出来ない。兵士達は戦いに負ければ死ぬのだ。どうして、勝利を確信していない将の命令で戦えるだろうか? 意図的に不安を追い払った王子の顔にいつも通りの不敵な笑みが浮かんだ。
常に自信に満ち溢れるかに見えるサルヴァ王子だったが、実は多少その様に演じている部分があったのだ。少年の日、初陣で経験不足から無様な失態を演じた王子はそれゆえに己の能力に絶対の自信を持ち得ずにいた。だがそれゆえに己の能力の証明とし自分の能力を誇示し、勝利を欲するのだった。
しばらくするとムウリ将軍が面会に来たと副官のルキノが王子に伝えた。
ムウリ将軍はサルヴァ王子が信頼する武将の一人である。王子が会おうとルキノに伝えると、しばらくしてルキノに案内されてムウリ将軍が現れた。ムウリ将軍は時間を無駄にせず開口一番本題に入った。
「お耳に入れたい事があります」
「ほう。重要な事か?」
そう問うたサルヴァ王子だったが、ムウリ将軍がわざわざ尋ねて来るならば、問題が発生したのだろう。王子は内心身構えた。
「重要……とまでは言えないかも知れませんが、気になる事が。ベルヴァース軍のサンデルという者が、どうやら我らの事を探っている様なのです。特に東側の陣について……」
「サンデルか。聞き覚えがあるな。確か最近ベルヴァース軍司令官のグレヴィが何かと目をかけているとかいう奴だ。という事はグレヴィが一枚かんでいる可能性が高いな」
「はい。ですので御判断を仰ぎに来ました。いかが致しましょう?」
ムウリ将軍に問われサルヴァ王子は顎に手をあて思案した。
グレヴィは、こちらの手の内を探って何をしようというのか? いや、探るのは当然といえば当然だ。今まで彼らに対して正直とはいえない対応を取ってきたのだ。
グレヴィが「自分達に隠して、また何か企んでいるのでは?」と考えるのは自然ともいえる。そして事実、ベルヴァース軍には打ち明けてない事がある。
サルヴァ王子は例によって、ベルヴァース軍を消耗させる気だった。だが、いくら老将グレヴィとはいえ、こちらが行っている作業を調べるだけで、そこまで読めるのか?
「やむを得ん。放置するしか有るまい。ベルヴァース軍は友軍だ。その友軍の将であるサンデルが我が陣の周りをうろちょろしたからといって、不審者だと捕らえる訳にも行くまい。だが、こちらから全てを話してやるほど親切にする必要もあるまい」
サルヴァ王子の答えにムウリ将軍も納得し「は! 承知いたしました」と答えると本陣を後にしようとしたが、その背にサルヴァ王子が声をかけた。
「報告御苦労だった。グレヴィは食わせ者だからな、油断が出来ん。これからも何か気にかかる事があれば報告してくれ」
ムウリ将軍は再度王子に向き直り「畏まりました」と一礼し本陣を後にした。
ムウリ将軍が立ち去ると、王子はグレヴィについてさらに思案を重ねた。
ベルヴァース解放戦で共に戦った感触では、特に奇抜な策を立てるという訳ではないが、状況判断が的確で、その状況下での最善の手を打ってくる。サルヴァ王子はグレヴィについて、そう評価していた。
今回の戦いでベルヴァース軍にとっての最善の手とはいかなものであろうか。サンデルの事は放置するしかない為放置するが、老将グレヴィ。やはり油断ならない。
もっともグレヴィにしてみれば、油断ならないのはどっちだ。そちらが油断ならないからサンデルに探らせているのだ。というところだろう。
いつもの様にギリスは、帝都を囲う塀の各所に点在する楼閣からランリエル軍の様子を眺めていた。勿論、東側のランリエル軍をである。
確かに兵士からの報告がある通り歩兵が多く、そしてどこか薄汚れた印象を受ける。兵士にとって武具の整備も重要な任務の一つであるはずなのにだ。
そしてこれも報告にある通り、居眠りしている兵士の姿も見える。確かに規律が乱れているかの様だ。しかし、ランリエル軍の規律の乱れには何か理由があるはずなのだ。
ギリスが視線を落とすと、帝都の塀の上に先日見かけた元ランリエル貴族のピナルが兵士となにかを話していた。兵士は、なにやら紙に書き止め時折首をかしげている。ギリスは興味を覚えて楼閣から降りるとピナルとその兵士に近づいた。
「こんなところで何をしているのだ?」
すると、ピナルは少し慌てた様に弁解した。
「ランリエルでは現在どんな音楽が流行なのかと思い、音楽の心得のある兵士を見つけ、音色を書き留めさせ再現させ様と……。いえ、決してランリエルが懐かしいとかではなく、少し興味を覚えたものですから」
「いや、誰もが昔住んでいたところには関心があるものだ。貴公が現在は帝国に忠実に仕えて居るのは誰もが知っている事。気にする事は無い」
ギリスは笑ってピナルの肩を叩き、言い添えた。
「しかし音色を再現できたなら、是非披露して欲しいものだな」
だがその言葉にピナルとその兵士は表情を曇らせお互い顔を見合わせた。彼らの態度にギリスは引っかかった。
「どうかしたのか?」
「実は、船から聞こえてくる音楽の音色が難解で書き留めるのに難儀しているのです。この兵士が言うには、曲によって一定の節や音域というものがある程度決まっている物らしいのですが、今船で奏でられている音楽は節や音域が頻繁に変わるらしいのです」
ピナルが兵士に目を向けると、兵士は歯がゆそう口を開いた。
「はい。そうなのです。一つの曲の内にあの様に節や音域が変われば、演奏する者とて並大抵の技量では演奏は不可能です。今船に乗っている楽士達はさぞ名の知れた者達なのでしょう。例え音色を書き留めたとしても再現できるかどうか」
「そうか、それは残念だな」
ギリスはそう言い残すとその場を後にしたが、釈然としないものを感じていた。そんな事があり得るのだろうか?
その後ギリスは、軍議で幕僚達ともはや定例事項となった兵士達からの報告内容の検討を行っていた。だが、報告内容も出尽くした様であり目新しい内容は特にない。
つまり「あの報告」がないのだ。規律が乱れているのなら、通常必ず発生するであろうあの事が、どうしてランリエル軍には起こらないのだろうか? 実は起こっているが、報告するに及ばないと報告されていないだけなのだろうか?
いや、どんな些細な事でも報告すれば恩賞を与えると布告している。そして事実些細な事でも兵士達は報告してきている。起こっていれば報告があるはずなのだ。
そしてなぜ南北のランリエル軍は規律正しいのに、東側のランリエル軍だけ規律が乱れているのか。ギリスはある仮定を元に、情報を再構築する必要があるのでは思い始めていた。その仮定とは「東側のランリエル軍が規律正しいとしたら」というものだった。