第2話:ランリエル軍出陣(2)
跡取りであるサルヴァ王子の戦死を危惧する国王は、晩餐の席でそれに相応しい話題を持ち出した。
「お前の結婚は外交的にも重要であり軽々と決められるものではないが、後宮の寵姫達にまだお前の子を授かった者はおらんのか?」
もう一つ父王を尊敬する事があった。それは13歳にして子の父となった事だ。サルヴァ王子は内心苦笑しつつ皮肉に考えたが表情には億尾にも出さない。神妙な顔で答える。
「こればかりは天から授かるもので御座いますから……。父上とは違い私には徳というものが無いのでしょう」
「サルヴァ。その様な事はありません。ですが、今度の戦はお前意外の者に任せる訳には行かないのですか?」
50近くになっても美しく国王と虜にし続ける王妃は息子の身を案じ提案したが、王子にその様な言葉に従う積もりはさらさら無い。
「母上のお気持ちは嬉しいですが、驕りではなく今ランリエルで私以上の将はおりません。他の者が軍勢を率いれば、負けないまでも私が率いた時より多くの被害を出しましょう。我が身を惜しみ、多くの者の命を危険に晒すなど出来よう筈もありません」
微かに憂いを浮かべた表情の息子の言葉に、母はなんと立派なと誇りに思った。だが、実際サルヴァ王子の言葉は、自分が一番優れているという事を美しく飾り立てているに過ぎない。
だが父も王子の演説に感激したのか大きく頷いた。
「お前がそこまで言うのなら最早止めはせん。だがくれぐれもその身を軽々しく思うでないぞ」
そして母も王子を引き止めるのは諦めたが、やはり心配を拭いきれるものではなく息子を見つめ一言添える。
「その通りです。お前に万一の事があれば悲しむ者が居ること。忘れる事はなりませんよ」
「心得ております」
かしこまってそう答えたサルヴァ王子だったが、内心は心得ているとは程遠かった。
俺が死んだとしても王位は弟の誰かに継がせれば良い。安全な王宮の奥深くに身を潜め暮らすぐらいならば戦場で散るが本望。そう考えていたのだ。もっともそれを口に出せば無用に王位継承問題を混乱させる。その、考えを漏らさぬだけの分別は持っていた。
その後、王子を引き止める事を諦めた国王と王妃は話題を転じ、親子は純粋に食事を楽しんだ。
その日の夜も更けてる頃、セレーナは身支度をし王子の来訪を待ち侘びていた。
彼女意外にも後宮には多くの寵姫がおり、現在21名の女性が後宮に住んでいる。セレーナにしてみればつらい事だが王子を独占する事は叶わず、王子が他の寵姫の部屋に足を向けるのを止める事はできない。
彼女には目を背けたい現実だったが、同じく後宮の寵姫であるヴァレリアなどはセレーナの顔を両手で掴み強引に現実に目を向けさせるのだった。
ある日の朝、後宮の庭をセレーナが散策していると、ヴァレリアと顔を合わせた。
王子の寵愛を争っているとはいえ礼儀正しく挨拶をするセレーナに、ヴァレリアも笑顔で挨拶を返す。
「おはよう御座います。ヴァレリア様」
「これはセレーナ様。おはよう御座います」
だがこの後ヴァレリアはセレーナに対し、散々王子が自分の部屋に訪問した時の事を嬉々として語ったのだった。
セレーナにとっては耳を塞ぎたくなる話であるし、その様な事を他人に話すなど常軌を逸しているとしか思えない。
だが実はヴァレリアは焦っていたのだ。
後宮がなされた当初はサルヴァ王子からの寵愛を一番受けていると言われたヴァレリアだったが、現在では誰もが王子の寵愛あついのはセレーナ。そう見ている。
セレーナはカスティニオ公爵令嬢でありダルベルト侯爵家令嬢のヴァレリアよりも爵位は上位である。それにそもそも最も多くサルヴァ王子の訪問を受けている。
みながそう思うのは当然だった。
ヴァレリアはどうにかしてセレーナを追い落とそうと考え、セレーナを精神的に追い詰めるべく彼女に王子との情事を赤裸々に語っていたのだ。
そう言う意味では確かにセレーナの考えているとおり、既にヴァレリアは理性を失っているのかも知れなかった。
だがヴァレリアの工作の甲斐なく、この日の昼セレーナはサルヴァ王子が今宵おこしになるとの連絡を後宮を管理する役人から受けた。
セレーナは胸をときめかせながら王子を持て成すべく手配した。湯浴みをし身体には香水をふりかけ、王子の好む酒を数種類用意する。
胸の前で両手を組み落ち着き無く部屋を徘徊しながら王子を待ち侘びていると、不意に扉が叩かれた。
この様な夜更けに、後宮の最奥の部屋の扉を叩く者は、王子しか居ない。セレーナは扉へ笑顔を向け急いで扉に駆け寄る。
「ようこそおいで下さいました」
扉から顔を覗かせたセレーナをサルヴァ王子も笑顔で応じる。そして部屋に入るや否やセレーナの美しく金色に輝く髪に指を差し入れると、彼女もうっとりと目を瞑る。
セレーナは王子に髪をなぶられるのを暫く心地よさそうに堪能した。そして、改めて部屋で王子を持て成すべく背を向けた。
だが王子は、背を向けるセレーナの腰に手をやると引き寄せ唇を強く吸い、次には胸に手を這わせた。
あまりの速い展開にセレーナは戸惑い、身を引いて王子の唇から逃れる。
「……殿下。お酒の御用意などもしておりますので……」
だがセレーナの控えめな抗議も王子はにべも無い。
「酒なら父との晩餐で十分飲んできた」
逞しい腕をセレーナに膝の後ろにまわし掬い上げ軽々と抱き抱えた王子は、落ちない様にしがみつく寵姫をベッドへと運んだ。
乱暴気味にベッドへと投げ出されたセレーナは怯えた目で王子を見つめたが、その顔は僅かに上気し赤みを帯びている。
恥じらい拒みながらも期待を込めたその寵姫の表情に、王子は笑みを浮かべ覆いかぶさった。
事が終わるとサルヴァ王子はいつもの様に朝までセレーナと共にはせず、あわただしく身繕いを行う。
出陣の前の高ぶりを吐き出す為出陣前夜に後宮を訪れる事が常となっているサルヴァ王子だったが、後宮から直接出陣する事は憚られる。自室に帰りそこで床に就くのである。
軍勢が出陣する時、王子はその近習、幕僚達を率いて王宮から白馬に乗り出陣する。
後宮の窓からその姿を微かに望む事は出来るが言葉を交わす事は出来ない。
その為セレーナは戦いに挑む王子への言葉を自分の部屋の扉で贈る。
「どうかご無事でお戻り下さいます様。お祈りしております」
だが頭を下げる彼女に王子は破顔した。
「セレーナ、どうせなら武運を願ってくれ」
近年にない大規模な出兵である。この戦いに勝利してこそ少年の日の誓いに近づけるのだ。王子が意気込むのも無理は無かった。
だが王子の言葉に、寵姫は悲しげな視線を向け、
「ですが……」と口ごもる。
女が愛する男の無事を祈るのは当たり前。セレーナにはそうとしか思えなかったのだ。
王子はそのセレーナに言い聞かせるように口を開いた。
「セレーナ。いつも言っているだろ? 俺は自分の力を確かめたいんだ。そして今回の戦いはその絶好の機会だ。今回の出兵に比べれば今までの戦いなど遊びの様なものだ」
だが王子の言葉は効果を上げず、それどころか明らかに失敗だった。
今までの戦いですら、セレーナは王子の身を案じ王子の出陣中は食事も喉を通さぬほどだった。それが遊びと言われては、今回の事を思えば気が遠くなりそうだった。
目に涙を浮かべ始めた寵姫に、己の失敗を悟った王子は寵姫を抱きしめた。
「分かった」
そしてなだめる様にその頭を優しくなでる。
セレーナは大人しく頭を撫でられながら王子の胸に顔を埋めていたが、その胸の中で小さく呟く。
「……御武運をお祈りしております」
面倒な……。と王子は思いながらさらに寵姫の頭を撫で続け、不意に王子は手を止めると寵姫に口付け、そして部屋を後にした。
後宮の寵姫の身では出陣前夜に王子を送り出すしかなかったが、セレーナはそれで十分幸せだった。王子が出陣前に訪れるのは常に彼女の部屋だったからである。それはセレーナにとって大いに慰めだったのだ。
だがもしサルヴァ王子に、出陣前にセレーナの部屋ばかり訪問するのかと問いかければ、
「そうか? それは気付かなかった。偶然だ」と応えただろう。
サルヴァ王子は意識して出陣前にセレーナの部屋ばかり訪問していたのではなかったのだ。
だが……。そんなにも偶然が続くものなのか? と問われれば王子は返答に窮しただろうが。
翌朝、サルヴァ王子は王宮の前で、精巧に細工された銀の鎧に身を包み白馬に身を乗せる。振り返り息子を見送る国王と王妃へと視線を向けると、国王は頷いて息子を送り出し王子も頷いて応えた。
王子は前に向き直りながら後宮の窓へと視線を通過させ、他の者が気付かないほど一瞬その視線を止めた後、前へと向き直る。
ここからではさすがに見えんか……。
寵姫の姿を見つけるのを諦めた王子は、白馬の腹を軽く蹴りゆっくりと進みだし、他の者達もその後に続いた。
王宮から城下町を進み王都を囲む門を抜けると、王子は思わず息を飲んだ。
弓兵は右肩に矢を担ぎ、弓は左肩に引っ掛けて整列し、槍兵は長槍を肩に担ぎその穂先は一定の高さに切り揃えられた様に並び日の光に反射させ輝く。
騎兵は馬をその場に停止させる為に手綱を引いて巧みに御し、馬は時折嘶きを響かせている。
それらが整然と隊列を組み眼前に広がる7万8千の軍勢は、今までそれを数字としてしか認識していなかった王子の魂を高ぶらせるには十分だった。
サルヴァ王子は自分のすぐ後ろで馬に乗り従う副官のルキノに顔を向けた。
「悪くない」
にやりと笑いながそう言う上官に副官も笑顔を形作り頷く。
興奮している為か上官に対して少しばかり礼を逸している副官の態度にも王子は気にした様子も無く、そればかりか満足そうに頷き返した。
そして白馬を進ませる。彼が率いる軍勢へと。
大陸歴627年夏。
ランリエル軍7万8千は王都を発した。