第20話:憂愁の寵姫
ランリエルではベルヴァースへの出陣要請も無事受諾され、出陣の準備も着々と進んでいた。
帝国に悟られずに全軍を集結する事は出来ない為、まず数千の軍勢を先発させ国境を押さえてから、他の軍勢は順次国境に集結させる事になっている。
そしてその日サルヴァ王子は副官のルキノ及び参謀などの幕僚達とその事について協議していた。
「まず私が8千の軍勢を率いて先発しよう」
軍議の開始早々のサルヴァ王子の発言に幕僚達は驚きの声を上げた。王子はランリエル軍の総司令官である。本来先遣隊など率いず後から大軍共に来るべき立場のはずだ。
「殿下御自身で御座いますか? 先発隊など他の武将にお任せになればよろしいのでは」
「なに、後から悠々出陣するなど性に合わん」
笑いながら答えるサルヴァ王子に幕僚達はいかにもサルヴァ殿下らしいと頷いたが、実際の王子の考えは違った。
万一先発した部隊が功に焦り、先発部隊の軍勢だけで攻撃を仕掛け敗北などされてはその後の戦いに支障をきたす。それを懸念した為だった。
もっともそれを素直に口に出す様な真似をすれば諸将を信頼していないと捕らえかねられない。あえて王子は冗談めかして答えたのだ。
だがこの様に準備が着々と進む中いまだ帝国侵攻に懸念を抱く幕僚が存在した。
「しかし、帝国は先の敗戦で戦力は激減しておりますが、それでも帝国を征服するとなると並大抵の事では御座いません。たとえベルヴァースと共に進撃しカルデイ帝都を落としえたとしてもその後帝国の民衆達は抵抗を続けましょう。そうなればたとえ十数万の軍勢があろうとも帝国全土を制圧するのは難しいのでは。そして現実には我が軍は十万にも足りません」
サルヴァ王子はこの発言に内心苦笑を禁じえなかった。もっともだからと言ってこの幕僚を無能と考えているわけではない。
どうすれば帝国を征服する事が可能なのか? その難問に一幕僚が回答を導き出せるとすれば過去の英雄達はとっくに帝国を従えているだろう。
ではそういうサルヴァ王子はどうか? と問えば王子はその回答を得ていた。勿論あくまでサルヴァ王子の主観においてだが、王子はその結論に絶対の自信を持っている。
だが今はそれを語る積もりはない。ことさら今話す必要の無い事であり、そして今話す必要のない事を軽々しく語り漏れれば取り返しがつかなくなる。
もっとも何の確証も与えず幕僚達を安心させる事は出来ないのもまた事実だった。その為、その考えの一端を披露する必要をサルヴァ王子は感じた。
「なに、自称帝国のカルデイを名実共に帝国にしてやるつもりだ」
王子はそう前置きをすると幕僚達に説明を始めたのだった。
翌日にはサルヴァ王子が出陣するという日、その寵姫であるセレーナは朝から体調が優れなかったが、彼女は意識して平然とした風を装いベッドから起き上がった。
侍女達に気付かれない様にしないと……。
今日は平然と何も無いように振舞わなくてはならない。それには理由があった。少なくともセレーナにとっては重大な。
セレーナがベッドから起き出し居間へと行く侍女達が挨拶をしてきた。
「おはよう御座います。お嬢様」
「おはよう」
セレーナは侍女達に笑顔を向けその前を通り過ぎ朝食を取るべくテーブルへと進む。そして椅子に座ったが、実はその笑顔の裏ではしきりに襲う頭痛を懸命に耐えていた。
風邪かしら……。
季節は冬となって久しい。風邪の一つも引いても不思議ではないが、セレーナにとっては、よりによってなぜ今? と思わずには居られないタイミングだった。
そしてセレーナの目の前にジャムを添えられたパンと紅茶というオーソドックスな朝食が並べられたが、食欲が無くとても食べる気にはなれない。しかしセレーナはパンをちぎるとジャムを塗り、とても美味しそうという風に口に運んだのだった。
そして朝食をすべて食べ終えたセレーナは、静かに読みたい本があるので誰も入って来ない様にと侍女達に言いつけ自室へと戻ったが、彼女は本棚へと向かわずベッドに寝そべる。
彼女は込み上げる吐き気を懸命に耐えていたが、それでも侍女に体調の不調を訴える訳にはいかず、さらに寒気も襲って来た。
でも耐えなければ、今日は殿下がお越し下さるはず。
サルヴァ王子が後宮に出向く時は前もって連絡がある。それは「寵姫がサルヴァ王子を出迎えられる状態にあるかどうか?」の確認の為だ。
そして今のセレーナの状態はとてもではないが王子を出迎えられる状態ではない。その為彼女は体調の不良に懸命に耐え、他の者に悟られぬようにしているのだった。
そこへ彼女の使える侍女の中でも一番長く仕える者が扉をノックして入ってきた。
「殿下がお越しになるという連絡が来たのね!」
セレーナは一瞬からだの不調を忘れベッドから飛び上がった。
侍女達には本を読むから部屋には入って来ない様に言ってある。それでも部屋に来たのなら王子の使いが来たという知らせに違いないと考えたのだ。
そして彼女の考えは当たってはいた。だがその先は彼女の希望とは遠くかけ離れていた。
「殿下が起こしに成るという連絡の使者が参りましたが、お断りしておきました」
「そんな……。どうして勝手な事をするの!」
普段は大人しく侍女相手とはいえ大声を上げる事のないセレーナが思わず怒鳴り声を上げた。
「本日のお嬢様の体調ではとてもでは有りませんが殿下のお相手が出来るとは思えません」
結局セレーナの努力は長年仕えた侍女の目を誤魔化す事は出来ていなかったのだ。だがそれでもセレーナは食い下がった。
「大丈夫よ。これくらいの風邪我慢できるわ!」
「ですが、そのお風邪をサルヴァ殿下におうつしになったらどうなさるのです。しかも御自分が風邪を引いていると分かってて殿下におうつしになったとなれば、処罰される事すら考えられるので御座いますよ」
セレーナにもこの侍女のいう事が正論であると理性では理解できる。しかし、その理性以外の部分でどうしてもサルヴァ王子と会う必要があったのだ。
「お願い。今日は特別な日なの! 明日殿下は御出陣なさる……。もしかしたら……もしかしたら二度と殿下と会えなくなるかも知れないのに……」
「お嬢様……」
侍女にも今更ながらセレーナの気持ちが理解できたが、それでもやはり王子の訪問を認める訳にはいかなかった。そもそもすでに王子が訪問すると伝えてきた使者には、セレーナは体調不良の為お相手する事が出来ないと伝えてしまっているのだ。
「……うぅ……ぅぅ……」
侍女の悲痛な色を湛える瞳に見つめられながらセレーナは嗚咽を漏らし、その悲しみで部屋は満たされたのだった。
一方サルヴァ王子の方と言えば己を慕う寵姫の想いを理解していないのか、セレーナの部屋への訪問を風邪だからと断られたサルヴァ王子は、それならばと他の寵姫へ訪問の連絡を行い、その夜その寵姫の部屋を訪ねた。
だが、その寵姫と情事を行い翌朝は自室から出陣すべく部屋を後にした王子だったが、何か重要な事を忘れているのではないかと寵姫の部屋を出てすぐの廊下で立ち尽くした。その視線は後宮の奥へと向けられていた。
出陣前には必ずサルヴァ王子の訪問を受けその事に喜びを感じていたセレーナだったが、思いがけない体調の不良にこの夜は枕を泣き濡らしていた。
どうしてよりにもよってこの日に……。セレーナはその事を繰り返し考え、自身の不幸を嘆いていたのだ。
だが不意にセレーナの部屋の扉が叩かれた。セレーナの部屋は居間へと通じる扉と、王子が訪問する時に直接セレーナの部屋を訪れられる様に廊下へと通じる扉がある。その扉が叩かれたのだ。
もしかして……。セレーナはしきりに痛む頭を抑えつつ扉へと向かった。
「サルヴァ殿下……で御座いますか?」
「ああ、そうだ」
「殿下!」
諦めかけていた王子の訪問にセレーナは急いで扉を開け、そして王子に抱き、サルヴァ王子も抱きついてきたセレーナを抱きしめ返した。
「どうして?」
「お前が風邪で寝込んでいると聞いてな。様子を見に来た」
「はい……申し訳御座いません」
サルヴァ王子は寵姫の言葉に苦笑した。
「何を言う。病気などお前の所為では有るまい」
「ですが……」
「良いから、もう横になれ」
王子はセレーナを抱き上げるとベッドへと寝かしつけた。
「さあ、もう寝るがいい」
自分が部屋に訪問し彼女を起しておきながらの王子の言い草は、随分と自分勝手な物だったが、セレーナにとっては十分優しい言葉だった。そもそも他の女の部屋に出向いて情事を行いその足で他の女の部屋に向かうなど、両方の女性にとって失礼極まりない話なのだ。
だが後宮の主にとって寵姫とはその様なものとわきまえているセレーナは、その様な事を考える事すらせず王子の訪問を喜び、サルヴァ王子はセレーナがベッドに横になるのを確認すると、もう様は済んだとばかりに背を向けた。
だがその背にセレーナの言葉が贈られる。
「殿下。どうかご無事で」
しかしその言葉は王子に感銘を与えず、王子はまたかと苦笑しセレーナへと向き直った。
「良いかセレーナ。何度言えば分かる? 祈るなら武運を祈ってくれといつも言っているだろ?」
だがいつもは従順な寵姫が、なんと王子の言葉に首を振ったのだ。常ならば王子のいう事を素直に聞くセレーナもやはり病気で頭が朦朧としている為か、自分の思いに固執したのだった。
「嫌です。私は殿下がご無事ならばそれだけで……」
思いがけない寵姫の叛乱に王子は表情を曇らせる。
「セレーナ。どういう積もりだ? 俺は武運を祈れと言っている」
「嫌……です」
「ちっ! いい加減にしろ!」
自分の言葉に逆らい続ける寵姫に遂に王子は舌打ちをし怒鳴り声を上げるとセレーナから背を向け扉へと向かう。
「あ……殿下。お待ちを!」
セレーナは慌てて呼び止めた。この様な積もりではなった。サルヴァ王子が来てくれた事が嬉しく、そして王子の無事を祈りたいだけだったのだ。それなのに王子を怒らせてしまうとは。
サルヴァ王子は扉を開け放つと一歩廊下の外へと踏み出し、そこで足を止めた。
「俺は勝つ! 無事帰ってくるなど当たり前の事だ。お前は心配せずに待っていろ」
「はい!」
王子が部屋から出て扉は閉められた。そして王子を愛する寵姫は自分の思いを王子が分かってくれたのだと、身体の不調も忘れ喜びを胸にベッドに横になったのだった。