第7話:小さな年上の女《ひと》(1)
今年40歳になるグアルド・ヘルバンには2つ年上の妻がいる。そして同じく2つ年上の姉がいた。ヘルバンの妻は元々姉の友人だったのだ。
二人が出会ったのは、ヘルバンが11歳のころの話になる。
巨大な体躯を持つヘルバンは、11歳の頃からすでにその兆候は現れ、同年代の少年達を見下ろすほどの長身となっていた。そして勝気で気性が荒かった。
だからといって悪さばかりしているという事ではなく、彼なりの正義感も持っている。自分の正義を力ずくで通す。その様な少年だった。
将来は軍人になりたいと考えていた彼は、ある日学問の自主勉強をサボり、自邸の庭で棒切れを持ち我流ながら剣の稽古に励んでいた。木々の間を走り抜けながらその木々を棒で叩いていく。自分なりの剣術の特訓だった。
木の根を飛び越え、枝を掻い潜り、木々の幹に巻きつけた目印の綱を目掛けて棒切れを打ち下ろす。
ヘルバンの脳裏には、戦場に累々と横たわる屍を飛び越え、敵兵が繰り出す槍を避け、敵の喉下に剣を突き刺す自分の姿がありありと浮かんでいたの。
すると木々の間から見慣れぬ茶色の髪の小さな女の子が、きょろきょろとあたりを見渡しながら、突如ヘルバンの正面に現れた。
二人はお互いの出現に共に驚き、そして少女は「あっ」と一言発してその場に立ち尽くした。しかし、全速力で掛けていたヘルバンは止まれなかった。
身を左に捩りかろうじて少女を避けたが、体勢は大きく崩れ少女のそばにあった茂みに「うわ!」と叫びながら頭から突っ込んだのだ。
もっともこの様な事は、特訓を繰り返してきたヘルバンにとっては珍しくはない。今までも、木の根に足を取られ転倒し、茂みに突っ込んだ事など何度もある。
だがそんな事を知るよしもない少女は、擦り傷だらけになりながら茂みから這い出たヘルバンの姿に、おろおろとうろたえ、そしてついには泣き出した。
この少女は何者なのか? 少女はヘルバンと同年代の女の子と比べても小さく見えた。
だが今はとにかくこの少女を泣き止ますのが先決と、ヘルバンは屈んで少女と目線を合わせて宥めた。
「大丈夫だから泣くなよ。な?」だが少女は「で……でも、ごめんなさい」と薄く青い瞳から、またぼろぼろ涙を溢れさせた。
困り果てたヘルバンは重ねて何度も少女を宥めたが、それでも少女は泣き止まない。
これじゃらちが明かないな……。
そう思ったヘルバンは、さきほどからの疑問を少女に問いかけた。
「それで、どうしてこんなところに居たんだ?」
すると少女は泣いて何度もどもりながらも、自分はヘルバンの姉に呼ばれて来た。そして庭で迷子になったのだ。と答えた。
姉上にこんな小さな女の子の知り合いが居たのか? まぁ本人がそう言うならそうなんだろう。そう思ったヘルバンは、ならば姉の元に連れて行こうと考え、少女の手を引いてやりテラスへと案内した。
この時間なら、姉はよく中庭のテラスでお茶を飲んでいる。居なければ改めて探せばよい。
テラスに辿り着くと、果たして姉はのんびりとお茶を飲んでいた。しかも少女の手を引くヘルバンに向かって「あら? 仲が良いのね」とのんきに笑ったのだ。
「姉上。笑い事では有りません! 自分に会いに来た子供を一人にするなんて、危ないではないですか!」
抗議するヘルバンに対して姉はさらに笑い声を上げた。
「子供はないわね。貴方の勉強の先生になる子なのよ? あなた一人で勉強していたらすぐにサボるじゃない」
姉の言葉にヘルバンは絶句した。だが我に返るとさらに抗議の声を上げる。
「確かに私は勉強が得意とも好きとも言いません。ですが、こんな小さな子に勉強を教えて貰うほど落ちぶれてはおりません!」
すると姉は大きな声で笑い声を上げた。
「小さな子とはひどいわね。確かに体は小さいけどフィオナは私と同い年なのよ?」
ヘルバンは唖然として少女を見つめた。少女は恥かしそうに薄く青い瞳で上目遣いにヘルバンを見つめていた。ヘルバンは未だに少女の手を握り締めていた。
そして姉は紅茶を満たしたカップに口をつけながら、その2人を面白そうに眺めていた。
こうして11歳のヘルバンは、後にフィオナ・ヘルバンとなる少女と出会ったのだった。
フィオナが家庭教師となってから、ヘルバンが勉強をサボる事はなくなっていた。
当初はヘルバンも何度かサボった。
しかし勉強の時間にフィオナがヘルバンの部屋に行き彼が部屋に居ないと、彼女はまた彼が庭に居るのだろう。そう考え庭まで探しに行くのだ。
そして大抵は迷子になった。
それでも運よくヘルバンとめぐり会えばよいが、会えなかった時は勉強をサボる為にフィオナから逃げたはずのヘルバンが、庭中を駆け巡って彼女を探す事になる。
この様に素直に勉強をした方がマシ。という状況に追い込まれたヘルバンは、もしかしてフィオナはわざとやっているのではないかと疑った。
「まさかわざとではないのか?」
ある日、ヘルバンはまた迷子になったフィオナの手を引いてやり、自邸に戻りながらフィオナに問いかけた。
「何がですか?」
フィオナはそう言って心底不思議そうに薄く青い瞳でヘルバンを見つめた。
ヘルバンはフィオナに、年下の相手に話しかける様な言葉で話しかけていた。
「フィオナは私と同じ年なのよ!」
姉にはそう言って、何度も注意したが、はじめに会った時フィオナを小さい子供と思って話しかけたヘルバンは、今更年上の女性としてフィオナを見る事に抵抗があったのだ。そしてフィオナも特に気にはしていない様だった。
「なんでもない」
ヘルバンはそう答えると無言でフィオナの手を引いて歩き続けた。それからヘルバンが勉強をサボる事は無くなったのだった。
「グアルド様は、軍人になりたいのですか?」
ある時、フィオナが薄く青い瞳でヘルバンを見つめながら問いかけた。
「ああ、俺はこの通り体もでかいしな。ぴったりと思わないか?」
事も無げに答えたヘルバンだったが、フィオナの表情が曇っているのに気付いた。
「どうした? なにかまずい事でもあるのか?」
「……危険ではないですか?」
フィオナは表情を曇らせたままさらに問いかける。
「それは……戦いに出るのだから危険は承知だ」
表情を曇らすフィオナに、困ったと思いながらヘルバンは答えた。だがフィオナからのさらなる問いかけはなく、この時はそのまま話は終った。