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断片の使徒  作者: 草野 瀬津璃
レステファルテ国編
33/340

 2 


「起きたかい、小僧」


 ぐっすり寝入っていた修太が夕方に目を覚ますと、相変わらず窓辺に腰かけて煙管(きせる)をふかせていたコーラルが声をかけてきた。


 白い漆喰(しっくい)壁と、水色に塗られた複雑な模様の刻んである窓枠が夕日に照らされて綺麗だ。窓辺はベンチのような段差があり、そこに赤い絨毯が敷かれ、クッションがいくつか並んでいる。コーラルはクッションにもたれかかって窓枠に片腕を預けて座っている。すぐ膝元の小さなテーブルには、刻み煙草の詰まった瓶と灰皿が置かれていた。


「俺の名前、小僧じゃなくて修太なんだけど……」


 寝ていたお陰でだるさは抜けてきたが、まだ熱があるのかぼうっとする。ぼそぼそと悪態だけは返すと、コーラルはふんと鼻を鳴らす。


「オレは一人前未満の小僧は名前で呼ばない主義でね」

「……じゃあ、みんな小僧ばっかで呼び分けが大変だな」


 単純にそちらのほうが面倒そうだと思ってつぶやくと、コーラルはハハハと笑う。


「そうでもねえ。小僧で統一してりゃあ、名前を覚えなくてもいいからな」

「……それもそうか」


 納得した。

 だるいのを無視して身を起こし、コーラルに問う。


「俺の仲間、来た?」

「いいや。ちょいと問題が起きて、来るのが遅れるそうだ」

「……何があったんだ?」

「第三王子の船と出くわして、攻撃されたんだと。遠回りして、陸路で来るってよ」


 よく分からなかったが、理解はできたので頷く。


「そうか。じゃあ俺はお邪魔だな。近くにいい宿泊先ないかな? 良ければ紹介してくれないか。このザマじゃ、正直探すのはきつい……」


 熱に浮かされた頭でも、自分が余所者で邪魔な客人ということは分かる。だが、出て行くにしろ、今の体調では、前にフランジェスカとグインジエの街を歩き回ったみたいに宿を探し回るのは無理だ。


「可愛くないガキだねえ。泊めて下さいって頼めばいいもんを」


 呆れた顔をするコーラル。


「他人の家に長居するのは迷惑だろ」


「ますます可愛くねえガキだ。調子の悪い小僧一人泊めるくらいで、このオレがとやかく言うと思ってんのか。しかもなんだ、襲撃かけてきたオーガーの群れを鎮めたせいで調子悪いってんなら、この町のギルドの長を請け負ってる身としちゃあ手を貸す理由にゃ十分だ」


 そう言うと、コーラルはふうと煙草の煙を修太に向けて吹きかけてきた。窓から離れているとはいえ、煙たさに修太は眉を寄せる。


「いーから、それ食って寝てろ、小僧」


 泊めてくれるなら最初からそう言えばいいのに、回りくどいなこの人。親切はありがたいが、ちょっと面倒臭い。

 修太は内心でげんなりしつつ、コーラルの示す先を見る。

 長椅子の前に置かれた樫製のロウテーブルに、洋梨みたいな形の、皮が黄色い果物が籠に盛られている。


「何これ?」

「パネの実だ。この町の名産品でな、魔力具有の果物だ。魔力切れなら少しは効くだろ」


 まじまじとパネを見つめ、一言断ってから食べてみる。果肉は白で、味は林檎だった。瑞々しくて美味い。


「おいしい。ありがと、コーラルの旦那。せっかくだからこのままお邪魔するよ」


 修太が言うと、コーラルは盛大に顔をしかめた。


「だから、ちったぁ子どもらしくしろや。物分かりの良いガキは薄気味わりい」

「…………」


 修太は無言のままむっすりと口をへの字にした。見た目は子どもでも、精神年齢は十七歳なのだ。そう言われても困ると思ったし、子どもらしい態度というのが分からないので困るのである。


 それでもパネを頬張り、一つ食べ終わると長椅子の上に再び寝転がる。いつの間にか毛織の掛け物がされていたらしく、足元に落ちていたそれを拾ってかぶさる。


 空腹も満たされ、調子の悪さもあいまって、すぐに眠くなってきた。

 もう少しで眠りに落ちそうだというところで、ノックの音が響いた。前の宿でのことを思い出し、びくりとして目を開ける。入口に立つ漆黒の影に、ほっと息を吐いた。グレイだ。


「なんだい、賊狩り。(つか)いは済んだのかい」

「旦那の頼まれ物を買ってきた。ほらよ」


 グレイは手にしていた酒瓶をコーラルに放る。重量があるだろう、琥珀色の液体がつまった四角い瓶を危うげなく受け取るコーラル。にやりと口端を引き上げる。


「おう、これだこれだ。子守りの駄賃としちゃ十分だね」


 浮き浮きとした声で言い、小間使いを呼んでグラスを持ってこさせると、瓶の中身をすぐにグラスに注いで飲み干す。美味い! と膝を叩くコーラルの姿は、どこにでもいる酒好きな老人のそれだった。

 グレイはちらりとコーラルを見る。


「そいつの仲間は来たか?」

「いいや。第三王子のせいで遠回りして来るそうだ。グインジエの提督が、護衛継続で頼むとよ。まったく、こんな小僧に護衛金を出すとは、あの男も相変わらず甘っちょろいねえ」


「そいつの仲間と魔物避けが共にいる。安否をはかって当然だろう。それに、奴の船がオーガーの群れに襲われた時に、こいつは魔物避けの手伝いをしていたからな」


 コーラルは喉の奥で愉快気に笑う。


「あの嬢ちゃんかい。あの男、まだモノにしてないのかい?」

「ああ。相変わらずだ」

「こりゃ面白いね。早いとこ結果を知りたいもんだ。一応、『上手くいく』に1000エナ賭けてるんだよ、オレは」


「悪趣味だな」

「お前さんは賭けてないのかい?」

「サマルがどの女とどうこうなろうと興味ない。よく仕事を回してくれる、面倒じゃないお得意様ってだけの話だ」


「つまらんねえ。もっと人生を楽しめよ」

「余計なお世話だ」


 大袈裟に肩をすくめるコーラルと、表情は変わらないけれどきっちり言い返すグレイ。グレイは無口そうに見えるが、意外に喋るのだなと長椅子に寝転がったまま修太はちらりと考える。


「コーラルの旦那! まずいっす。面倒な客がおいでなすった!」


 ノックもなしに部屋に飛び込んできた男を、コーラルは一瞥する。


「なんだい、騒々しい」

「落ち着いてる場合じゃねえっすよ。第三王子が旦那に会わせろと下まで来てる」


 コーラルは口を引き結んでしかめ面をした。

 持っていた酒瓶を男に投げ渡す。慌てて酒瓶を両手で受け止める男。


「ちっ、酒が不味くなる。お前はそいつ持って別の部屋に隠れてろ。他の奴らにも言っておけ。あのバカの相手はオレがする。――いいか、そいつ飲んだりしやがったら、後で三枚におろしてやるからな」


「旦那のものに手ぇ出したりしませんよ! 了解しやした、他の者にも伝えます!」


 男はバタバタと騒々しく部屋を出て行ったが、下に降りたところで悲鳴が起きた。コーラルは舌打ちする。


「ちっ、遅かったか。賊狩り、てめえもそのガキ連れて……」


 コーラルが言いかけたところで、扉が開いて焦げ茶の髪の男が現れた。白い軍服と、左腕の腕章に朱色で描かれた獅子。宝飾のされたサーベルを帯剣し、暗い朱色のマントをしている。肩まである髪はウェーブをえがき、いかつい顔には無精ひげが目立つ。野性味溢れる大柄の男の顔には残忍な色が見え隠れしており、深紅の目は獲物を探すハイエナのようで、無闇に近寄れば痛い目を見そうな嫌な空気を持っていた。

 コーラルはすっと立ち、一度膝をついて礼をして、また立ち上がる。


「きついだろうが、頭を下げろ。絶対に口をきくな」


 一方、修太は、いつの間にか側に来ていたグレイに長椅子から引きずり下ろされ、訳が分からないまま同じように膝をついて頭を低くさせられる。土下座みたいな体勢だ。


 やばい。この姿勢、気持ち悪い。


 腹が圧迫されるからか、喉の奥にすっぱいものがせり上がってくる。修太はくらくらする視界に眉を寄せつつ、緊張感が伝わってくる為に必死に耐える。


「ザダック王子殿下、こんなむさ苦しい所へ足をお運びになるとは。いかなる御用で?」


 先程までの面倒そうな態度を消し去り、落ち着いた態度で問うコーラル。

 普通、この国の王族や地位のある人間は直接下々の者と応答しないので、従者が伝言するのだが、世界の各地に支部を持つ冒険者ギルドの支部長、しかもレステファルテ国内の四大都市の一つであるアストラテ支部の支部長であるコーラルの地位は大臣と匹敵するので、間に入る必要はない。


「海岸一帯のオーガーを大人しくさせたという〈黒〉がいると話に聞いてな。俺の船の魔物避けにしてやろうと思って来てやった。――どいつだ?」


 横柄な口で問うザダック。

 修太の頭を押さえているグレイの手がぴくりと動いた。


 修太は修太で嘔吐感をおさえるのに必死だったが、言葉は聞こえたので冷や汗を浮かべる。コーラルがあからさまに対応を嫌がっていた相手な上、言い方が完全に自己中心的そのものだったので、関わりたくないと瞬時に思ったのだ。だというのに、リコの代わりにサマルの船の魔物避けを務めた短時間だけで、面倒なことに巻き込まれかけている。


「ああ、そいつか。おい、ガキ。顔上げろ」


 室内を一瞥し、噂の人物に見当をつけたザダックが命令する。修太は緊張で凍りついたが、このままじっとうつむいていると吐きそうなので、気持ちの半分は安堵も覚えた。が、それは一瞬だけで、顔を上げた瞬間に髪を掴まれて上を向かされ、痛みに眉を寄せる。


「へえ、漆黒か。こりゃまた珍しいもんが転がってたな」

「――殿下。そのガキは預かり物でね、貴方様に差し上げられるものじゃありません」


 コーラルが冷静な声で横から口を出す。なんの感情も含んでいない、ただ冷徹な声が、木香(もっこう)と煙草のにおいが混ざった室内に響く。


「奴隷か? 金なら出す」


「そうではありません。私の親戚筋の者の子で、行商に来ている時に海賊にさらわれてしまったらしく、偶然こちらで助けたので、両親がグインジエから迎えに来るのを待ってるんですよ」


 素知らぬ顔で嘘を吐くコーラル。しかも妙に説得力のある嘘だ。


「とにかく、魔法使用の反動で具合が悪いのです。貴方様を汚れさせると悪いので、手を放してやって下さいませんかね」


 修太の顔色が悪くなる一方なのに気付いてか、コーラルはザダックをたてる言い方でさりげなくたしなめる。ザダックも修太の顔色に気付いたらしく、汚い物を見るような目をして手を放した。


 絶対に口をきくなと言われていたから、声を漏らさないように口を閉じつつ、力が抜けて床に倒れ込む。額を打ちそうになる前に、隣で低頭しているグレイが右手を滑りこませて床にぶつからないようにしてくれた。


「ちっ、お前の親戚筋じゃ仕様がないか。ったく、救援要請が来たから、こんなアストラテくんだりまで来たってのに事は片付いてるしつまらねえ」


「それは仕方がないですよ。オーガーの群れを食いに来た大型のモンスターのお陰で、あっさり片が付いたんです」

「おお、あの水竜だろう。見たぞ。俺様が砲撃をくらわしてやったら、尻尾を巻いて逃げだしやがった」


 ザダックは愉快気に哄笑する。


「そいつはすごい。殿下、どうです、近くの酒場で祝杯といきませんか?」


 コーラルがグラスを傾ける動作をすると、ザダックはふんと鼻を鳴らす。


「はっ、下賤(げせん)の輩と(はい)を重ねる気はねえ」

「そうですか、残念ですな」


 コーラルは大袈裟に肩を下げてみせる。それをザダックは鼻で笑い飛ばし、ふと忌々しげに眉を寄せる。赤い目はグレイを睨んでいた。


「お前は相変わらず悪趣味だな。荒野の残飯食らいを雇ってるとは」

「冒険者ギルドは人種の差別はしない決まりですのでね」

「知ってることを一々言うな」

「失礼しました」


 慇懃に返すコーラル。

 ザダックはとても楽しそうに笑う。その醜悪な笑いに、コーラルの眉が僅かに寄った。

 かつんと床を踏む音が部屋に響く。

 ふわりと空気中から溶けだすように炎が生まれ、蛇の姿を取る。


「……殿下、何を?」


 コーラルの緊張を含んだ声が聞こえ、修太は何が起きているか分からないけれど嫌な予感がした。


「なに、お前の代わりにゴミを始末してやろうと思ってな」

「お(たわむ)れはおやめ下さい。そいつは賊狩りという通り名を持つ男でしてな、我がギルドの稼ぎ頭なのです」

「ますます面白い。どう反応するか見ものだな」


 コーラルの制止は逆効果だった。尚更面白そうに口端を歪めたザダックは、右手をぐっと握りしめる。火焔の蛇の姿が一瞬膨れ上がり、ごうと燃える音を立てた。


 蛇はザダックの指示とともにグレイに襲いかかる。

 修太はすぐ隣でグレイが舌打ちする音を聞き、同時に顔を上げて火焔の塊が突っ込んでくるのを見て、頭を手で抱えて床にうずくまる。


(……駄目だっ)


 炎に包まれた自分達の姿を想像してしまい、痛みを覚悟して歯を食いしばる。


 全く理解できない。

 この意味不明の危ない男はなんなのだ。

 何故、誰も止めない。

 誰か止めろよ!


 そう、強く思った。


(……あれ?)


 痛みが訪れないので、修太はそっと目を開ける。思わず顔を上げかけたが、横から頭を押さえつけられて身動きが取れない。

 グレイは修太を押さえつけたまま低頭の姿勢を崩していなかった。


 が、コーラルは何が起きたか見えているので内心で舌を巻く。

 青い魔法陣が修太とグレイの周りを包み込んでいて、火焔の蛇は魔法陣に触れた瞬間に消滅したのだ。


「無効化……。てめえか、ガキ! 俺の邪魔をするとはっ」


 ザダックが低い声でわめいているが、頭を上げることのできない修太には何が起きたか分からない。


 殺気を含んだ怒声に身を縮めるだけだ。何も言えないし、何も行動できない。まるで耐えろというように、頭を押さえている手に強く押される。意味が分からなくとも、グレイが(かば)ってくれているらしいのは空気で分かるから、修太は何もできないでいた。


 遊びを邪魔されたザダックは怒ってサーベルを抜きかけたが、コーラルが間に入って冷たい目で睨んだ為、抜けなかった。


「殿下。これ以上のお戯れをなされる気なら、私が容赦いたしませぬ。幸い、国王陛下には、お戯れを致しすぎた殿下を力づくで止めてもよいと御許可頂いておりますゆえ」


 言外に、これ以上ごたごたさせるようなら殺すぞと脅され、また、先程までと打って変っての殺気を含んだ目に、ザダックはサーベルの柄から手を放した。


「ふんっ、少し悪ふざけをしただけだろう。あーあー、つまらねえの。もういい、帰って酒でも飲むとする」


 コーラルは殺気を引っ込めず、まだ冷たい目でザダックを見据えたまま、頭を下げる。


「左様でございますか。ご理解頂きありがたく存じます。では、参りましょう。見送らせて頂きます」


 コーラルはようやく平静に戻ると、ザダックを玄関へと案内していく。

 階段を下りる音が遠ざかるのを聞いて、修太はやっと安堵した。




「……もういい。魔法を解除しろ」


 頭がふっと軽くなり、横でグレイが言った。


「え?」


 修太はきょとんと声を漏らす。

 低頭の姿勢は苦しかったから、よろよろと身を起こしつつ、ふと周りを見て目を丸くする。

 青色の魔法陣が修太とグレイの周囲を球状に取り囲んでいた。


「なにこれ」


 得体の知れないものを前に、修太は魔法陣に触れないように身を引く。


「お前の魔法だろう、シューター」


 どこか疲れたように床に座っているグレイ。修太は、幽鬼(ゆうき)みたいな黒衣の男の顔をまじまじと見る。初めて名を呼ばれたことに気付いた。そしてやはり発音できないのかとも思った。


「あの王子の魔法を無効化してくれて助かった。避けても良かったが、ああいう、無駄に権力をかさにきた連中は、甘んじて攻撃を受けないとつけあがるから面倒なんだ」


 受けたら受けたで面倒だし。とにかく面倒。

 そう締めくくるグレイは、あの物騒な男のことを特に恐れている様子はない。

 唖然と座り込んでいると、ぽんと頭に手を置かれる。まるで弟にする仕草のようで、顔に似合わずグレイは子どもの扱いに長けていそうな気がした。かなり似合わない。


「やはりここに来て正解だったな。コーラルの旦那くらいだ、この町であのバカ王子を追い払えるのは」

「ギルドマスターってそんなに偉いのか?」


「町の規模にもよるが、力はある。ただ、コーラルの旦那は前代の宰相(さいしょう)で、引退してギルドマスターの役を請け負ったんだ。現国王の信も厚く、王族でもおいそれと手出しできない」


 修太は唐突に理解した。

 つまりあれだ、水戸黄門。この場合、先の宰相閣下であるぞ~と、そういうことになるわけだ。

 なるほどなるほど。修太は内心で頷く。


「……いい加減、魔法を解除しろ。顔色が最悪だぞ。気付いていないのか?」


 グレイはわずかに目を細めて言う。

 そんなことくらい知っている。吐き気は増すばかりで、ガンガンと頭の中で割れ鐘が鳴り響いているようなのだ。


「そう言われても、どうすれば解除できるか分からない……」


 うつむいて吐き気をやりすごしながら返事すると、グレイは仕方なさそうに短く息をついた。


「――後で(うら)むなよ」


 短い声に、何を? と疑問を覚えた瞬間、首の後ろに痛みを覚えて視界が暗転した。


     *



「いや~、ごめんごめん、グレイの旦那。足止めできなくて」


 夜が更けてきた頃に冒険者ギルドを訪ねてきたサマルは、ギルドの一階、依頼受付窓口のあるカウンターや依頼の書かれた紙が貼られたボードのある部屋の隅にグレイの姿を見つけてひらりと手を振ってみせた。その後ろにはオドが随行している。


 六人がけのテーブルが並ぶその部屋で、グレイは紙巻きの煙草を片手に持ちながら、酒瓶を傾けてグラスに注いでいた。朱色の酒が、ランプの明かりの中で鈍い光を弾く。


「謝るのは、コーラルの旦那にしろ。俺はたいしたことはしていない」


 無感動な顔で、酒をあおるグレイ。


「でも、火焔の蛇に焼かれかけたって聞いたよ? あ、おねーさん僕にグラス頂戴」

「ここは酒場じゃありません! お酒を飲みたいなら、自分で持参して下さい!」


 受付の女の返事はにべもなく、サマルはグレイの向かいの席に座ったまま、がっかりと肩を落とす。恨みがましげに朱色の酒を見つめるが、グレイの返事も冷たい。


「……やらんぞ」

「ちぇ、ケチだなあ! で、実際どうだったのさ?」

「確かに焼かれかけたが、シューターが無効化して事無きを得た」

「シューター?」

「あの〈黒〉の子ども」


 グレイがちらりと天井を見たので、サマルは頷いた。


「そんな名前だったっけ? 珍しいね、旦那が同胞の子ども以外の名前呼ぶなんてさ。しかも親切だし」

「同胞と同じで、差別のない目を向けられれば親切にもなる」

「そういやそうだったね。モンスターにも人間にも、どっちにも変わらない態度だった。あの子ども」


 グレイはちらりと琥珀の目でサマルを見据える。


「俺よりも、お前のほうが大丈夫じゃなさそうだ。血と消毒薬のにおいがする」


 サマルは後ろ頭をかく。


「ああ、分かった? ほんと旦那には隠し事ができないよなあ」


 困ったように笑むが何も言わない。

 グレイはサマルの斜め後ろにひかえているオドに目を向けた。オドは憤りを隠せない態度で即座にばらす。


「第三王子が、この非常時で少人数しか動かせないというのに、出迎えの人数が少ないとお怒りになりましてね。実は寝てないといけない怪我を負われているのですが、この通りふらふらされておいでなのです」


「へえ。今度はどこをやられたんだ? 前は殴られた上に、腕の骨を折られてたろ」


 グレイの平坦な声にからかいの色を見つけ、サマルはひょうきんに両手を肩の高さに上げる。


「いやあ、今度は肋骨(ろっこつ)を三本やられちゃってさ。ほんと酒でも呑んでないとやってらんないよ」


 はああと溜息をつくサマルの前に、グラスと酒瓶が置かれる。サマルが顔を上げると、受付の女が立っていた。同情たっぷりにサマルを見て、頑張ってと優しく言って仕事に戻った。


 サマルは機嫌を少しだけ直し、いそいそとグラスに酒をつぎ、一気にあおる。にっこりと笑みを浮かべる。完全に機嫌を直したようだ。


「あの魔物避けの娘には、早々に帰ってきてもらわんといかんらしいな。いつもなら、怒鳴って寝台に叩きこんでいる頃合いだろうよ」


 グレイの言葉に、オドが重々しく頷く。


「ごもっともです。リコには早めに帰ってきて貰わないと。提督が過労死する前に」

「ひどいなあ。仕事の分量はわきまえてるよ。まあ、さすがに事故死まではカバーできないけど」


「軍医はどうした? その程度なら、魔法で完治できるだろ」

「僕らは救援に来たんだよ? 昼間に魔力を使い切ってぶっ倒れて寝てるよ」

「そりゃまた間の悪い」


 グレイは気の毒そうに――と言っても、表情は微塵も動いていない――サマルの肩を軽く叩いた。


「それに、第三王子の前では怪我は治さないほうがいいからね。余計に痛めつけてくるんだから、悪趣味だよねえ」

「……大変だな」

「本当だよ。平民からこの歳で提督まで成り上がっちゃったもんだからさあ。ほんと、才能って罪だよねえ」


 おどけて言う様に、同情する気は失せる。グレイは無言で杯を傾けた。


「え、無視? 冷たいなあ」

「呆れているだけだ」


 そう返すグレイを、サマルはふと真面目な顔になってじっと見る。声も静かな調子になった。


「旦那。あの王子はまだしばらくこの町にいる。また殺されかける前に、町を出たほうがいい。あの王子は黒狼族と灰狼族をただの犬としか思ってない」


 グレイはくつりと喉の奥で笑い、ぎらりと琥珀の目を光らせる。


「いいや、違う。王族以外はただの動物だと思ってる、の間違いだ」

「旦那、ふざけないでくれる」


 サマルはどこか苛立ったようにテーブルの盤面を指先で叩く。突然、緊迫を帯びた二人の男に、ギルド内にいた他の人間は息を潜めて様子を見守る。


「ふざけていない。事実だろう?」


 グレイは目を細め、サマルを見返す。サマルは身じろぎ一つしないでその視線を真っ向から跳ね返す。


「――グレイの旦那。旦那が人から指図されるのを嫌うのは分かってる。でも同時に厄介事が嫌いなのも知ってる。だから忠告してるんだ。無駄に怪我を拾ってもつまらないだろう」


「お前だってそうだろう」


「僕と旦那じゃ立場が違う。僕はグインジエの提督だよ。部下や仲間を守る盾になるのは当然だ。そうでないと、ついてきてくれた仲間に立つ瀬が無い。だけど旦那は違う。一人で自由に動けるんだからね」


 サマルは緑の目をふっと笑みの形にする。空気がやわらいだ。周囲の傍観者達もほっと息を吐く。


「旦那、一人じゃつまらないよ。ここいらで奥さんでも見つけたらどうだい」

「片思いの女に袖にされまくってる奴には言われたくない台詞だな」


 グレイの声に呆れが混じる。グレイはサマルから目をそらすと煙草を口元に運んだ。ふうと煙を吐く。


「ムカツクなあ。あれがただの天然じゃなきゃ次に行くんだけどねえ。押しまくってるのに、全然だよ。どうすりゃいいのか教えてよ」

「俺に訊くか? 正直、そういうのは分からん。たまに故郷から見合い兼ねて女が押しかけてくるが、鬱陶しいだけだ」


「え、何それ面白そう。初耳だよ!」

「いちいち言うわけがないだろうが。俺には迷惑だ。故郷を出たばかりの子どもの世話くらいにしといて欲しいもんだ、役目を押し付けてくるのは」


 サマルは耐えきれないというように吹き出す。


「そう言って、ちゃんと世話してるんだから、面倒見が良いよねえ」

「…………」


 黙り込んだグレイを横目に、サマルはひょいと立ち上がる。


「とりあえずさ、旦那。本当、気を付けてよ。僕は旦那のこと、友人だと思ってるから心配なんだ。ああ、これは嘘じゃないからね」


「お前の嘘は分かるから、前置きしなくても分かる」

「そ。じゃ、僕はコーラルの旦那にお詫びしてから帰るよ」


 サマルは飄々と笑いながら、ひらひらと片手を上げ、左手にしっかり酒瓶だけはぶら下げ、オドを連れて二階への階段に向かっていく。


「……友人ねえ」


 感情に欠けた顔で、朱色の酒の入ったグラスを眺めながら呟く。意外に思っただけで、やはり感慨は浮かばない。ただひどく不思議な言葉を耳にしたような感じがしただけだった。

 まあ、話す分には気楽な奴だと思っているが。そういうのも友人になるのだろうか? やっぱりよく分からなかった。



=簡単人物紹介=

・コーラルの旦那

 白い髪と赤茶色の目、褐色の肌をした口の悪い爺さん。

 アストラテ支部のギルドマスター。前代宰相。柄悪いけど、表向きの態度になるとそれなりに丁寧。


・ザダック王子

 こげ茶色の髪と赤目。無精髭の目立ついかつい男。

 レステファルテ国第三王子で、乱暴者で、厄介者扱いされてる。どこでも嫌われてるが、戦いのセンスだけはあるので余計に面倒臭い人。

 気に食わないとすぐに暴力に走るので、周りの人間は入れ代わりが激しい。


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