6
修太は二段ベッドの下段に腰かけたまま、うとうとしていた。
昨晩はいろいろありすぎて疲れていたし、塩水のお陰かだんだん気分の悪さが減ってきたのだ。
フランジェスカは壁際に座り込んで仮眠体勢に入っている。どうせならベッドの上段で眠れば良いのにと思ったが、そう言う前に眠ってしまったので放っておくことにした。
静かな部屋でぼんやりしていたから余計に眠い。
でも朝に寝る習慣がないために寝る気はなく、うとうとしつつも眠らない。
――ベチャ!
「?」
妙な音に、眠気が飛ぶ。
――ベチャ! ビタ! バッタン!
濡れた雑巾で窓を叩いているような音がする。
ん? 窓?
寝ぼけた頭で船室の丸窓に目を向ける。
しかし、何も見えない。
窓の下の壁にもたれているフランジェスカを起こさないようにそっと近付き、丸窓から外を見ようと背伸びする。腹が立つことに、修太の今の身長だと背伸びしないと海面が見えないのだ。
なにか海藻でも引っかかっているのかと、最初は思った。
(んー……?)
緑色? 青緑? よく分からない固まりが見える。それが船の側壁をベタベタとカエルみたいな水かきのある手で叩きながらよじ登って来る。
(え? あれ何? 蛙? 魚? ………でかくね?)
大きさは大人の人間と同じくらいに見えるような。それが修太のいる船室の丸窓まで来ると、丸い青目玉をぎょろぎょろさせてこっちを覗きこんだ。
「…………」
「…………」
思わず無言で見つめ合う。
それはでかい魚だった。姿は金魚に似ているが、色は青緑色で、鰭のあるべき場所から蛙の手足を生やしている。恐ろしく不格好で不気味な魚。何より、おちょぼ口から牙がにょっきりと生えている様はシュールとしかいいようがない。
――ゴンッッ!
「うわっ!」
突然、窓に向かって頭突きしてきた金魚もどきに驚き、修太は後ろに離れようとして足を滑らせ、船室の木製の床に派手に尻餅をつく。
丸窓は割れなかったが、金魚もどきは執拗に頭突きを繰り返す。
「なんだ、うるさいぞ」
修太が暴れていると思ったのか、目を覚ましたフランジェスカに開口一番に文句を言われる。
「ちがっ、俺じゃねえ!」
床に座ったまま返し、窓を指差す。フランジェスカが振り向いた瞬間、金魚もどきは頭上から降ってきた矢に額を撃ち抜かれて落ちていった。
修太は急いで丸窓に飛びつき、べたっと窓ガラスに額をくっつけて海面を見る。蛙もどきが波間へと落ちた瞬間だった。
「なんだったんだ、あれ。魚……?」
魚じゃないなら、モンスターなんだろうか。
不思議さに首を傾げていると、船内が騒がしくなった。ガシャガシャと武器を鳴らしながら走り回る足音がし、怒号や悲鳴が聞こえてくる。修太達のいる部屋は甲板から一つ階段を下りた部屋だから、天井から直接足音が響いてくるのだ。
「何事だ?」
フランジェスカはすくりと立ち上がり、口布を鼻の頭に引き上げてフードを被る。いつでも出られる準備をしつつ、フランジェスカは判断を口にする。
「よく分からぬが、ここにいるべきだな。部屋から出来るだけ出るなと言われている」
「多分、さっきの金魚もどきのせいなんじゃないかって気がする」
修太の言葉に、フランジェスカは眉を寄せる。
「金魚もどき? 貴様の言うことは要領を得ぬ」
「だから、でかい青緑の金魚に蛙の手足が生えたのが、さっきそこからこっち見てたんだって」
フランジェスカの眉の皺が更に増える。
「言っている意味が分からん」
だからって馬鹿を見るような目で見るな! 修太は頭をかきむしりたくなった。修太自身がよく分かっていないのに、そもそも説明するなんて無理なのだ。
「うわっ!」
「!」
突然、船体が大きく傾ぎ、修太はバランスを崩して丸窓のほうへ倒れた。とっさに身をひねったので壁への顔面衝突はまぬかれたが、肩口をぶつけて息がつまった。フランジェスカは壁際にいたから背をつけたまま驚いた顔をし、そこでハッとして、床を滑ってきた荷物入れらしき長い木箱を右足の裏で受け止める。
二段ベッドは天井と床の間にはまるような作りだから動く気配はないが、木箱は大きいから打ち所が悪ければ骨折くらい簡単にしそうだ。フランジェスカの反射力に内心で喝采を送る。
「床にいては危険だ。お前も寝台に上がれ」
「ちょっ、いで!」
上がれというか、後ろ襟を引っ掴まれてそのまま寝台の下段に放り投げられた。寝台幅は狭いので、勢い余って壁にぶつかる。今度はよける暇がなく額をぶつけた。フランジェスカはその直後にはベッドの梯子に飛びついている。
再び船体が大きく傾ぎ、今度は丸窓と反対側の壁へ向けて木箱が滑っていき、激突する。修太は浮遊感にも似た頼りない感覚と壁に押しつけられる重力を同時に感じ、背筋をゾッと凍らせる。
「こ、こんなに揺れて、沈むんじゃないか?」
梯子につかまったまま、――さりげなくその場所が一番安定してる――、フランジェスカは首を傾げる。
「これだけの大型船があっさり沈むものなのか?」
「いや、知らねえけど、あんたは少しくらい危機感を覚えないのか?」
修太の中ではエマージェンシーコールがガンガン鳴り響いているのだが、フランジェスカは不思議そうにしているだけで怖がっている素振りはない。肝が太いのか、無知からくる無謀さなのか分からないが、自分が慌てているのに隣にいる人間が落ち着いていると、自分が馬鹿みたいに思えてくる。だが、お陰で軽いパニック感はおさまってきた。
「こんな時はあれだ、“おはし”だ!」
「なんだ? おはし?」
「押さない、走らない、喋らない。火事や地震が来た時に避難する時に学校で教わる言葉だ」
「ここは船の上だぞ?」
「避難する時は一緒だろ!」
ああもう、ごちゃごちゃうるせえ!
修太はフランジェスカの言葉を切って捨て、避難すべきか冷静に考える。船がぐらぐら揺れてる。不安を感じて当然だし、さっきの金魚もどきも気になる。――うん、ここはせめて事情を聞くくらいは許されるだろう。
修太はポンチョのフードを目深に被ると、さっそく部屋を出ていこうと寝台を飛び降りて木製の扉の取っ手に張り付く。
――ゴンッ
ほぼ同時に勢いよく扉が開き、修太はぶつけた額の痛さに目尻に涙が浮かんだ。さっきからぶつけてばっかりだ。
「ぐうう……こんなに頭を打って馬鹿になったらどうしてくれる……っ」
頭を抱えてしゃがみこんだまま恨みごとを口にするが、扉を開けた主は清々しいくらいきっぱりと無視した。
「ここに〈黒〉がいると聞いたわ! 力を貸して!」
そう怒鳴りこんできたのは、灰色の長い髪と黒目をもった二十代ほどの女だった。軍服に似た白い上着と、紺色のロングスカートを着ている。小柄なのに、異様なほどに存在感のある女だ。
女はずかずかと部屋に入るや、梯子のほうにいるフランジェスカの腕を掴んだ。二人いる客のどちらがそうなのか正しく理解していないようだ。
「さ、こっちよ!」
「おい、待て」
「なによ、あんた、サマルさんに助けられたんでしょう? こっちが困ってるんだから借りを返しなさい! あんただってこのまま海の藻屑になりたくないでしょ!」
「いや、そうでは」
「いいからとっととついてきなさい!」
フランジェスカがごねていると思ったらしく、まくしたてて言葉を塞ぐ。そしてフランジェスカを細腕でぐいぐい引っ張って部屋から連れだした。
違うという否定の言葉を口にするフランジェスカと、いいから来いと言葉を叩き伏せる女の遣り取りがどんどん遠ざかって行く。
修太はぽかんとそれを見送り、ハッと我に返るや自分も部屋を出る。瞬間、またもや船が傾ぎ、とっさに戸口に張り付いて難を逃れる。
(あのフランを連れてくなんて、すげえ女……)
苦手なタイプだと感じとって苦い顔をしつつ、このまま放置しておいても事態が悪くなるだけだと二人の後を追う。廊下には手すりが設けられているから、船が傾いでもどうにかなりそうだ。
*
甲板に出ると、生臭いにおいが鼻腔を刺激した。
口布をしていて良かったとフランジェスカは内心でうめく。
(さっきシューターが言ってた金魚もどきはこれか……)
青緑色の魚に蛙の手足が生えた奇怪な化け物が甲板に次から次へと乗り込んでくる。それを兵士達が倒し、化け物を黒い霧に変えていた。どうやらあの奇妙な生き物はモンスターのようだ。
魚のモンスターの中で上手く甲板まで上ることに成功した者の中には兵士に口から水鉄砲で攻撃して怪我を負わせた者や、倒れた兵士に喰らいにかかって、助けに入った他の兵士に殺される者もいた。
「さあ、手伝って! あいつらを落ち着かせるのよ! あんたも〈黒〉なんだったら出来るでしょう!」
やたら押しの強い女の催促に、フランジェスカは渋面を作る。
船に女は乗せないものと聞いていたが、この女は例外なのだろう。修太ほど濃い黒の目をしているわけではなく、黒灰色といった目だが、〈黒〉だ。海賊の言っていた、普通は雇用契約を結ぶという“魔物避け”だと思われる。
「私一人だと厳しいのよ! あいつら完全に狂ってるんだから!」
さあさあとうながしてくるが、フランジェスカは〈黒〉ではないから不可能だ。
「残念だが、私は〈青〉だ。〈黒〉はあなたが扉で攻撃してたほうだ」
「はっ?」
眉を寄せて睨んでくる女に、フランジェスカはフードを脱いで顔を晒す。女は息を飲んだ。
「なによもう、役立たず! 〈青〉になんか用はないのよ!」
あまりの言いざまにフランジェスカは静かに怒りを纏う。
「貴様が勝手に勘違いしたのだろう。役立たず呼ばわりされる道理はない」
「あなた」が「貴様」に格下げされた瞬間だった。
わずかに殺気をこめて睨めば、女はうっと息を飲んで後ずさった。
「フラン!」
船室へ続く扉が開き、修太が現れた。ここに来るまで大変だったのか、被っていたフードは外れていて、どこか服が埃かぶっている。加え、痛そうに肘をさすったりしている。
「なんだったんだ、さっきの強烈女……。うわっ、いた!」
「人を化け物みたいに言うんじゃないわよ!」
女がキッと修太を睨みつける。気の強い性格のようだ。
「シューター、この小うるさい女は貴様に用があるようだ」
「ああ、聞いてた」
フランジェスカはすらりと長剣を抜く。それに女が怯えた顔をしてまた一歩退いた。それを小気味よく思いつつ、ふんと鼻を鳴らす。
「言い方は気に食わぬが、借りは返すものだ。話を聞いてやれ」
修太は怪訝そうにフランジェスカの剣を見つめる。
「あんたはどうする気?」
「あの化け物どもを屠ってくる。貴様も好きに動け。失敗したとて、全部私が霧に変えてやる」
ふふっと笑うと、修太は呆れた顔をする。
「モンスターに役割があるのを知ってるよな?」
「ああ。だが、こうして襲われているのなら敵だ。私は奴らのせいで死ぬ気はない」
「……そう。まあ、止めねえけど」
甲板上の惨状を目にし、止める気はなくしたようだ。
フランジェスカは不敵に微笑み、剣を一閃する。兵士が取り零した、背後から迫っていたモンスターは分断され、あっさりと黒い霧に変わる。
「――ふん、手ごたえのない。つまらんな」
それを冷めた目で一瞥すると、フランジェスカは混戦の中へ身を投じた。