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貨物室を出ると、潮風に混じって鉄錆びたにおいが鼻をついた。
船の甲板のあちこちに倒れている海賊の死体に、修太は口に手を当てる。流れる血と傷から覗く臓腑、陰惨な死に顔を直に見てしまい、吐き気と胸焼けを覚えて目をそらす。
「!」
足元に倒れているものが視界に飛び込んできた。
貨物室にやって来たあの海賊の男が倒れている。血に染まったまま仰向けに倒れていて、虚ろな目が空を向いている。
さっきまで生きていた人間だ。それが今ではただの死体に成り果てている。演技かよく出来た人形と言われた方が、修太にはよっぽど現実的だった。日本で暮らしてきた平和な日常からは遠すぎる光景に、がくぜんと立ちつくす。
嘘でも冗談でも夢でもない。
潮のにおいに混じった血のにおいがそう囁きかける。
「ニャア」
ハッと瞬く。
腕に抱えたフランジェスカの鳴き声に、現実に引き戻される。
それに僅かに遅れ、すっと視界を隠すように赤髪の男が修太の前に立ち、頭をかく。
「ああ、ごめんごめん。子どもが見ていいようなもんじゃなかったね。僕らには日常茶飯事だから忘れてたよ」
こんな陰惨な光景が日常なんて嫌だな。
修太は赤髪の男が着ている膝丈まである白い上着の裾を見るともなく見つつ、内心でこっそりと呟く。男の気遣いがありがたかった。このまま見ていたら、間違いなく吐いている。
「サマル提督!」
そこへ、赤髪の青年と同じく、襟の立ったダブルボタンの白い軍服を着ている年若い青年が駆けてきた。赤髪の青年と違い、上着の裾は短く腰丈である。白いズボンを履いた足を颯爽と動かし、黒い頑丈そうなブーツの底で甲板をゴトゴト叩きながらやって来る。
「ん?」
赤髪の青年が振り返る。
二十代後半くらいにしか見えないこの青年が提督と呼ばれていることに、修太は素直に驚いた。み、見えない……。
「伝令が入りました。アストラテがオーガーの群れに襲われている為、救援が欲しいそうです!」
「被害状況は?」
「津波とともに街の海側は大破。海から上がってきたオーガーは三百近く、街の住民の死体や逃げ遅れた者を餌にしているとのことです!」
「――そうか、分かった。今すぐ出立準備に入るよう伝令を回せ」
「はっ!」
青年は敬礼をともに声を張り上げ、すぐさま自分達の船へと帰っていく。
「すまんな、グレイの旦那。もうしばらく船旅に付き合ってくれ」
赤髪の青年――サマルの言葉に、ひっそりと立っていたグレイはかすかに首肯する。
「問題ない」
「ついでにご助力頂いても?」
「……グインジエに戻ったら酒をおごれ」
「お安い御用だ」
サマルはにっかりと歯を見せて笑う。
それから修太を見下ろす。
「悪いね、ちょっと帰るのが遅くなりそうだ。モンスターの群れがいる所に一般人を連れて行きたくはないが、急ぐから一緒に来て貰うよ」
修太はサマルを見上げて少し考える。バ=イクがあるからそれで帰ればいいかとも思ったが、海のど真ん中では方向を見失って遭難しかねないと気付き、結局、頷きを返す。
「――分かった」
「ありがとう」
「こっちの台詞だから、気にしなくていいよ。俺はどこにいたら邪魔にならない?」
修太の問いにサマルは目をみはるも、すぐに表情を戻し、船を検分して歩き回っている部下を振り返る。サマルがその中の一人の名を呼ぶと、こげ茶色の髪と目をした地味そうな顔立ちの青年がすぐに駆け寄ってきた。
「オド、この子どもを本船へ連れていってくれ」
「この子は?」
「海賊にさらわれていた子どもでね、保護したんだ。グインジエまで送り届ける約束をしている。僕の部屋に案内しておいて」
「え、よろしいのでありますか? それに、そのモンスターは……」
「ああ、引き離さないでいい。グレイの旦那が大丈夫って言うから大丈夫だよ。でも、他の連中は嫌がるかもしれないからね。僕の部屋なら大丈夫だろう? くれぐれも妙な手出しはしないように言い含めておくように」
「では、提督のお客人という扱いにさせて頂きます。じゃあ、君、一緒においで」
オドという名の青年の後に従い、修太は甲板を横切って白で塗られた美しい帆船へと続く渡し板へ向かう。
その背後で、サマルが、三番船は残って、使える積み荷を没収後、海賊船を燃やしてから追いつくように指示を出しているのを聞く。
あんな優男だが、容赦のない人柄のようだ。
*
一隻を海賊船の処理のために残し、官船二隻はすぐに出立した。
修太は大人しくサマルの自室にいるつもりだったが、陰惨な光景を思い出して気分が悪くなり、オドに頼んで甲板の隅っこにいさせてもらうことにし、夜明けの近い空と海を眺めていた。
フランジェスカも眠れないのか、それとも護衛の立場としてか、修太の側にいて、手すりの上に座っている。
(気持ち悪……)
少しは船酔いもあるのだと思うが、吐かないまでも胸焼けが酷い。思えば、修太は船にはほとんど乗ったことがない。趣味の釣りは川や港でしていたし、啓介の家と違って修太の家は旅行に行くことは滅多となかった。旅行に出ても、どうせ行くなら遠い場所と飛行機を使っていた。
暗闇に沈む海に、船尾灯の光が三つ、ゆらゆらと揺らめいている。
「……眠らないのか」
修太はびくりと肩をすくめる。
ぎょっとして振り返ると、グレイが立っていた。ハルバートは持っておらず、代わりにジッポライターと紙巻きの煙草を手にしている。闇の中に赤い光がぽつんと浮かび、紫煙が潮風に流され消える。
(気配とか足音とか、なんにも無かったぞ……)
突然そこに湧いて出たみたいに存在感がない。動揺を押し隠し、どうにか答える。
「気分が悪いんだ。あんたこそ、休んだほうがいいんじゃないか」
オドの話だと、グレイは海賊船一つを一人で殲滅したらしい。百人近く乗っていただろうに、それを一人で片付けたというのだから空恐ろしい。賊に何か思うところがあるらしく、賊の殲滅依頼ばかり引き受けるので、「賊狩り」とあだ名されており、悪人達はその呼称を聞いただけで震えあがるのだとか。とはいえ、公の立場の人間からすれば頼もしいこと限りないらしいが。
「血がざわついていて目が冴えているからいい」
どうやら煙草を吸いに出てきたらしいグレイは、修太の隣に立つと、海を向いて煙草の煙をくゆらせる。
「ふうん……?」
手すりにへばりついたまま、修太は気の無い声を返す。修太には理解の出来ない感覚だから、よく分からなかった。
ざあああと波を切る音しか聞こえない海原を、修太は見るともなく見る。
「……?」
どこか遠くで歌声が聞こえたような気がして、じっと闇の向こうに目をこらす。しかし何も見えない。
「セイレーンの呪い歌だ。久しぶりに聞いた。幸先がいい」
ふうと煙を海のほうへ吹きかけ、若干トーンの上がった気のする声で呟くグレイ。思わず顔を見てしまうが、なんら変化はないので気のせいかもしれない。
「呪いなのに、幸先がいいのか?」
「俺にとってはな」
そうなのか。あまり聞けないから、聞いた時は良い事に出くわした気分になるのかもしれない。
(なんだか、物悲しい声だなあ……)
聞いていたら、故郷や死んだ両親のことを思い出してしまい、切ない気分になる。もうあそこへは帰れないのか。墓参りに行けなくてごめん。
だんだん目蓋が熱くなってきた。修太は慌てて表情を引き締め、海をにらみつけた。そうしていないと、郷愁や喪失感で押し潰されそうだった。
今までは啓介が側にいたから、なんとなく平気だった。同じ立場なあいつが落ち込んでいないのに、自分が落ち込むのは変な気がして、無理に現実から目を反らしていたのだと思う。
無言で目に力をこめて海をにらんでいるうちに、だんだん水平線が明るくなってきた。
修太はちらりとフランジェスカを見て、そのままグレイを見上げる。そう言えば、フランジェスカのことをきちんと話すのを忘れていた。
「驚かないでくれると嬉しいんだが」
「なんだ」
じっと修太を見下ろすグレイ。身長が高いので、子ども姿の修太には威圧感がある。普通の子どもだったら泣きだしているかもしれない。
「こいつ、今はモンスターだけど、本当は人間なんだ」
修太がそう言った時、水平線から太陽が顔を出し、海原を明るく照らし出した。
その瞬間、手すりに座っていたポイズンキャットの姿が揺らぎ、妙齢の女性の姿に変わる。青みがかった黒髪と白いマントが海風になびいた。
「やれやれ、やっと朝か」
フランジェスカは呟いて、手すりから下りる。
「――どういうことだ。今、何が起きた」
グレイの鋭い問いに、フランジェスカは特に動じた様子もなく、藍の目でしっかりとグレイに視線を返す。女にしては少し低めの声で言葉を紡ぐ。
「私はある呪いをかけられていてな。夜の間だけポイズンキャットになってしまうのだ」
それだけで説明を終えると、フランジェスカは甲板を見回す。
「それにしても、大型船というのは不思議な乗り物だな。足元が妙で落ち着かない」
「俺も帆船には初めて乗ったよ……」
「シューター、船酔いか? 鍛えないから船酔いなんてするのだ」
「どこを鍛えろって言うんだ、あんた」
口を開けばすぐに憎まれ口を叩くフランジェスカを、修太はじと目で見る。フランジェスカは鼻を鳴らす。
「まったく、貴様は運が良いのか悪いのかどっちなのだ。賊にさらわれたかと思えば、その先ですぐに助けられ……。こういうのを悪運が強いと言うのか?」
「知るか。啓介がいないのに厄介事に巻き込まれたのは初めてでね」
「ふん、気付いていないだけでお前自身のトラブルだと思うがな。おい、こっちを向け。……思ったより、顔色が悪いな」
珍しく体調を気遣うフランジェスカに、修太はぎょっと固まる。思わず空を仰いだ。
「どうしたんだ、あんた。雪でも降るのか?」
こんな暑い気候で雪が降ったら異常気象もいいところだ。それか槍でも降るのか。
途端にフランジェスカのぶっきらぼうな面立ちが渋面に変わる。
「本当に失礼なガキだな。ガチャルを使われていただろう、あれには副作用があるのだ。頭痛や吐き気がする程度だが……。グレイ殿、だったか? すまぬが塩水を一杯頂けないか」
言葉を失くして二人の遣り取りを見ていたグレイは、それで我に返ると、眉を寄せて言う。
「その前に、サマルの所に戻る。女、お前のことを話す必要性ができた」
「ふむ、それもそうだな。では行くとしよう」
フランジェスカは落ち着いた態度で頷いた。
*
「だいたい事情は分かったよ。君はこの子どもの護衛ってことでいいんだね?」
地図や海図が置かれた船室で話を聞いたサマルは、のんびりと言った。動じた様子は欠片もない。
「側に〈黒〉がいるから問題ないって言うなら、邪険にする必要もない。どっちにしろ、グインジエまで届けてあげると言った。僕は一度した約束は守る主義だから」
「かたじけない、サマル殿」
フランジェスカはほっと安堵の息を吐く。船から放り出されてもおかしくないと思っていたのだ。パスリル王国でならばすでに処断されているだろうから、レステファルテ国とはいえ、この男の処置は寛大といえる。
「部屋を一つ用意するから、君達はそこを使って。この子どもが一緒とはいえ、さすがにご婦人に僕の部屋を使えとは言えない。それから、何か用事があったらオドに言ってくれ。彼はたいていこの部屋にいるから、呼びに来てくれればいい。いいね、オド」
「かしこまりました、提督」
そんなこんなで、二段ベッドが一つ収まっている部屋を貸して貰った。丸窓から覗く海の景色が綺麗だ。
船に女が乗っているとばれると面倒だからと、フランジェスカはあまり部屋から出ないように言われている。
軍の大型船には女を乗せないものらしい。不思議だ。パスリル王国では兵士の四割が女だから、完全に男社会らしい船のありかたが理解出来なかった。
「かなり昔だけど、俺の国じゃ女を乗せると船が沈むって言われてた。今はそんなことはないけど。ここもそういう考え方なんじゃないか」
睡眠薬であるガチャルの副作用を減らす為、二段ベッドの下の階に座り、しかめ面で塩水を飲みながら、修太が抑揚の無い声で言う。
この子どもには、子どもらしさとか元気とか明るさというのは無いのか? いつ見ても無愛想で陰気臭い。うるさくなくていいが、せめてもう少し明るく話せばいいものを。まあ、面倒臭いという感情で静かにしているわけではないようなので、それについてはマシだと思うが。
「なんだそれは、暴言にもほどがある」
「あと、女人禁制とかな。ここじゃ神殿っていうのか? 女が入ると穢れるから立ち入り禁止とかな」
「はっ、穢れは男だろう。我が国の神殿は男立ち入り厳禁が多いぞ」
「うん。だから、考え方の違いなんだろ。そう目くじら立てるなよ。いろんな国があればいろんな考え方もある」
「…………」
本当に、子どもらしからぬ子どもである。
まさか大人の自分が諭されるとは思わなかった。
フランジェスカは丸窓の下の壁に背を預けて直接床に座る。いちいちベッドの二段目に上がるのも面倒だ。部屋には二段ベッドと荷物入れと思われる、ベンチ代わりにもなりそうな木箱が置いてある以外は何も無い。
「貴様、本当に実年齢十七か? ときどき妙に爺臭いぞ」
「啓介と似たようなことを言うな。俺のどこが爺臭いんだ」
苦々しい顔で返事が返る。
「妙に達観した物言いといい、爺臭い」
「……色んな人種があって色んな宗教があって、人がいるだけ違うんだから差別しない。そういう考え方が俺の国、というか世界にあった。それを言っただけだ」
「では、そういうことにしておいてやろう」
フランジェスカが言うと、何でそんなに上から目線なんだお前とぶつぶつと修太はぼやいた。
「なあ、フラン。そういやオーガーってなんだ? どんなモンスターなんだ?」
急に変わった話に、フランジェスカは首をひねる。
「私も初めて聞く名だな。オド殿が海から上がると言っていたし、海に生息しているモンスターなのではないか? 我が国は海に面していないのでな、私は知らぬ」
「そうか」
修太は小さく頷くと、それきり口を閉ざした。
塩水を少しずつ飲みながら、考え事をするかのように足元を見つめている。
フランジェスカもまた黙った。日射しは熱いがひんやりと涼しい部屋で、壁にもたれて片膝を立てた姿勢で目を閉じる。昨日はろくに眠れなかったから、一眠りするとしよう。
簡単紹介
・グレイ
「賊狩りグレイ」の異名を持つ冒険者。感情をどこかに置き忘れてきたような男。
黒髪琥珀色の目、高身長。三十代半ばほど。犬か狼みたいな黒い尻尾あり。端正な顔立ちをしているが、表情がほとんど変わらないのでむしろ怖い。
煙草と酒を嗜む以外、趣味らしい趣味なし。武器は斧槍のハルバート。
・サマル
赤い髪の男。目の色は緑。二十代後半に見える。
レステファルテ国の海軍の提督。グインジエを拠点としている。
優男だが容赦はない。紳士的な態度をとる。