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夜中、修太は喉の渇きに目が覚めた。
うすぼんやりとした闇の向こうに、天井の木目が見えた。船室にしてはやけに高い位置にある。
ぼうっとしたまま、修太は考える。
(船にしては広い……。でも宿にしても広い。どこだ、ここ)
魔力を使い切った後特有の体の重さを感じながら、這うようにして起き上がる。
「啓介? ピアス、サーシャ、いないのか。――コウもいないな」
体調が悪い時はこの三人の誰かがだいたい近くにいるのだが、今回は返事がない。珍しいことにコウも傍にいない。あっちに行けと言っても傍から離れないのにどうしたんだろう。
しばらく待ってみたが、やはり返事が無い。
修太は仕方なく、だるい体を叱咤して扉に向かった。部屋の隅にある仄かな明かりのお陰で、扉というよりふすまに似た引き戸のようだと分かった。
ふと振り返ると、布団が置いてある所だけ分厚い敷物がある。日本の和室と似た雰囲気だが、畳ではなく板の間の上に敷き物が置かれている。
修太が取っ手に手を掛けた時、同時に引き戸が開いた。
「ひゃっ」
相手も驚いたらしく、盆の乗せた水差しとコップをひっくり返した。幸い修太にはかからなかったが、思ったより音が響いた。
(び、びっくりした……。髪の色が白いから、てっきり幽霊でも出たかと!)
修太は相手とは違った方向から驚いていた。心臓がバクバクと鳴っている。
「も、申し訳ございません! 直ちに片付けます!」
二十代くらいの見知らぬ女性は即座に謝って、盆とコップを拾い上げると、静々と廊下を歩き去った。少しして雑巾を手に戻ってくる。
女性の髪はとても長い。膝まで届くのではないだろうか。ほぼ白に近い銀の髪を、頭の両側でみずらのように結い、そこに葉の形をした銀製の飾りをつけている。それ以外はそのまま流していた。薄灰色の衣は着物に似ていて、上に濃い灰色の羽織を着て、前の方で金属製の飾りでとめている。パッと見た感じ、とても気品ある雰囲気だ。
「お姉さんは誰? 俺の仲間を知らないか?」
「わたくしはハクレン=ササラと申します。こちらの聖殿で傍付きをしております。この度は光栄にもわたくしがあなたの担当に選ばれました。どうかササラとお呼び下さい。これからどうぞよろしくお願いします」
雑巾をさっと横によけると、ササラは床に手をついて深々と頭を下げた。
土下座のような姿勢での挨拶に、修太は戸惑う。ここが高級な宿だから、こんなに丁寧に挨拶するのだろうか。
「セイデン? 宿の名前かな。ええと、ササラさん、もう一度聞きますけど、俺の仲間を知りませんか?」
「聖殿です。聖なる御殿のことですわ。夜御子様の住まう場所です。こちらは南の一の聖殿です。申し訳ありませんが、わたくしはあなたのお仲間のことは存じ上げません。熱を出して運ばれていらしたのですよ。さあさ、そちらにお休みになって下さいませ」
ササラは修太を布団へ誘導すると、「すぐにお飲物とお食事をお持ちしますね」と言い、再び部屋を出て行った。
布団に座ったものの、休む気にもなれず、修太は首をひねる。
(訳が分からん。何で俺はここにいるんだ? ササラさんは見る感じ下働きの人っぽいし、訊くなら別の人かな)
とりあえずどんな場所か分からないと落ち着かない。
修太は引き戸と反対の方へ近付いた。障子に似た戸があるので、そっと開けてみる。
そこには小さな庭があった。低木が植えられ、石が配されている。その向こうには三メートルくらいの塀があり、修太が元気でも乗り越えるのは難しそうに見えた。周りにも目を向けると、どうも他にも部屋が幾つかあるようだ。
確認を終えた修太は障子を閉め、布団に戻る。たったこれだけの動作でかなり疲れた。ふうと息をついていると、ササラが戻ってきた。
「夜御子様は二日も眠っておいでだったんですよ。こちらは薬草粥です、しっかり栄養を取って下さいませ。こちらはお薬です、食後にお飲み下さい」
「ありがとう、ええと、ササラさん? 俺は塚原修太だ。修太でいいよ。悪いんだけど、仲間と連絡が取れたら教えてくれないか」
「承知いたしました、シュウタ様。御用の際は、こちらの鈴を鳴らしてお呼び下さい。わたくしは隣に控えておりますので」
にこっと微笑んだササラは、再び床に手をついてお辞儀をすると、部屋を出て行った。
(謎すぎるけど、動けないんじゃどうしようもない。体力回復が最優先だな)
見知らぬ場所で目が覚めるというのにすっかり慣れてきた修太は、特に慌てもせず、行動方針を固めた。
一人用の土鍋が載った盆を膝の上に引き寄せる。土鍋の蓋を開けると、米と見慣れない山菜が混ざったお粥が入っていた。
(久しぶりの米だ。うわあ、ここに来て初めて見たよ)
喜んだが、同じ味とは限らない。薬草粥と言っていたのが気になる。
恐る恐る木匙ですくって口に運ぶ。三つ葉のような苦味があるが、出汁が効いていておいしい。
「うま……っ」
ずっと食べたかった和食っぽい食べ物である。感動のあまりちょっぴり泣きそうになった。
(啓介にも食べさせてやりたいなあ。だけどほんと、皆、どこに行ったんだ? せめて手紙でも置いてくれたらいいのに)
恨めしく思ったが、今のところ酷い待遇を受けているわけでもない。それに、いざとなったら体調を戻した後に抜け出せばいい。
修太はしっかり味わいながらも早めに食事を終えると、薬に手を伸ばす。
「くっ、どこに行ってもこいつとは離れられないのか!」
紙包みの中には、ひどい味のする魔力吸収を補助する薬の玉が三粒入っていた。渋々噛み砕いて、水で胃へと流し込む。
だが、やっぱりむせた。
*
「ツカーラ=シューターですか? さあ、そのような夜御子様は存知あげませんが」
約束の日、南の一の聖殿に赴いた啓介は、門番からそんな言葉を返された。
啓介は鼻白んだ。
(まさかと思ったけど……ラミル君の心配が的中したよ!)
つい固まっていると、一緒に来たフランジェスカが目つきを鋭くして問う。
「おかしなことを言うな。二日前、船に夜御子達が押しかけてきて、あのクソガキを介抱すると連れて帰ったんだ。知らぬわけがあるまい」
門番はむっと眉を吊り上げる。
「知らぬものは知らぬというのだ、無礼者め!」
「ね、門番さん、そんなこと言わないで少し考えてみて下さいよ」
すかさずピアスが前に出て、下手に出て問いかける。その態度に、門番も少しだけ歩み寄る姿勢になった。
「だから、知らないと申しているだろう」
「本当に?」
サーシャリオンがピアスの隣に立った。
見目麗しいダークエルフの青年姿をとっているサーシャリオンを、門番は不愉快そうに見上げる。
「本当だ」
「――そう」
サーシャリオンは、門番の目の高さに、すっと右手の人差し指を立てた。思わず注目する門番を、怪しい目で見つめる。
「我の目を見よ。――そうだ。なあ、本当に知らぬのか?」
青や緑や銀にキラキラと輝くサーシャリオンの不可思議な目を見た門番は、どこかぼんやりと遠くを見る目つきになる。
「知らない。本当だ」
「……なるほど、ありがとう。どうやら本当に知らぬようだ、さあ行こう」
サーシャリオンは、啓介とフランジェスカ、ピアスを道へと誘導しながら、パチンと両手を叩く。
「あ、あれ? 今、何してたんだ、俺……」
後ろでは、我に返った門番が不可思議そうに呟いている。雑踏へと歩き出しながら、啓介はサーシャリオンの腕を小突く。
「ちょっとサーシャ、あの人に何したんだよ。こわっ」
「なあに、軽い暗示だ。嘘は言っていないから、これ以上の問答は無用だろうよ」
「でも、シューター君のことをどうするのよ」
サーシャリオンの右側から顔を出し、ピアスが詰め寄る。
「さてなあ。ひとまず船での様子を見る限り、奴らはシューターに危害を加える真似はすまい。なあ、フランジェスカ?」
「ああ。だが、これは誘拐と同じではないか。立派な犯罪だぞ、気に入らぬ」
思い切りしかめ面をして、フランジェスカは呟いた。どうやら正義感が燃えてきたようである。
(頼もしいけど、怖いなあ)
啓介は苦笑する。
「きっとシュウ、困惑してるよ。あっ、そうだ、サーシャ。前みたいに、影の中を通って迎えに行くっていうのはどうかな」
「ちと厳しいな」
サーシャリオンはすぐさま首を横に振る。啓介は問う。
「それって俺達が通るのがってこと?」
「いいや、迎えに行ったところで、シューターが中に入れぬということだ」
「もしや体調に関係があるのか?」
「おお、フランジェスカは察しが良いな。もともと不安定な道だ。調子を崩しているシューターには負担が大きいだろう。まあ、あれを使うのは最終手段だ。生者が頻繁に出入りすべきではないからな」
そう返すと、サーシャリオンはふっと唇に笑みを乗せて言う。
「だが、我が影を伝って様子を見に行くことは出来る。今回は、居場所のマークは外しておらぬから、どこにいるかは分かる」
「ちょっと! それじゃあ門番に訊かなくても、中にいるか分かったんじゃないの?」
聞き捨てならないと、ピアスが口を挟む。するとサーシャリオンはにやりとする。
「その通り。我はあの門番が何か知っているかを確認したかったのだ。だがあの者は本当に何も知らぬらしい。当てが外れたよ」
話を聞きながら、啓介は前からやって来た荷運びの青年をさっと避けた。啓介の足元を歩いていたコウも尻尾を守るようにして横にずれる。
南の一の聖殿前には屋台が出ていて、人でごった返している。
港町から少し離れているのに、港町の市場と同じくらい活気づいている。横目に見ると、魔除けの魔法陣が刺繍されたハンカチが売られているのが見えた。
物珍しさに気をひかれ、啓介がそちらを見ていると、ピアスに腕を引っ張られた。
「ケイったら、貴重な品が安価で売られてるのが気になるのは分かるけど、今は話し合いに参加すべきでしょ」
「あ、ああ、ごめん。ああいうのが多いのは、〈黒〉の人達の副業なのかなあってちょっと思っちゃって」
「ははあ、なるほど、上手い手だな。持っているだけでモンスターの襲撃を避けられる品だ。輸出すれば高値で取引されるだろう。夜御子とやらの豊かな暮らしを支えるのも、結局は夜御子ということか」
フランジェスカは愉快そうに青目を光らせる。血染めの糸のことを思い浮かべて、啓介はゾッとした。
「うわあ、シュウは大丈夫かなあ」
「具合の悪い〈黒〉から血を取るような、馬鹿な真似はしないと思うが」
サーシャリオンが冷静に断ったところで、屋台の陰から黒衣の青年がすっと現われた。
「どうだ、首尾は」
自然な歩みで啓介達の後ろについたグレイの問いに、啓介達は人波に乗って歩きながら、そろって首を振る。
「駄目だった。ラミル君の不安が的中だよ。でもサーシャによれば、シュウはあの中にいるみたいだよ」
「そうか」
予想していたのか、グレイの返事は短かった。
やがて雑踏を抜け、街道に出ると、木陰にいたトリトラとシークが大きく手を振った。皆、木の影の中へと集まる。
「で、どうだったんだ?」
フランジェスカの問いに、トリトラとシークはそろって肩をすくめる。
「駄目駄目。一定間隔で物見台が建ってるから、侵入は厳しそうだよ」
「門は分厚いから壊すのは難しそうだな。塀自体はそんなに高くないんだけど、物見から矢を射られたら面倒だ。師匠は?」
シークの問いに、グレイも軽く肩をすくめた。
「海の方はもっと厳重だ。まず塀に返しがあるから、忍びこむのは難儀だな。中に入るだけならいくらでもやりようはあるが……。変装して侵入、使用人として雇われるのどっちかだが……、使用人は船で聞いた通り、選ぶのに一ヶ月もかかるらしいから却下だな」
「変装ねえ。フランさんが猫になれば」
「おい、ケイ殿!」
フランジェスカが口を挟むと、トリトラが笑った。
「あれだけ厳重なのに、モンスターの猫を入れるわけないだろ。安直すぎ」
「ああ、そっか。フランさんが変身出来るのはポイズンキャットだもんな」
残念な顔をする啓介の横で、フランジェスカはほっと息を吐く。
やれやれとサーシャリオンが右手を挙げる。
「とりあえず今日のところは、夜になったら我が様子を見に行ってくるよ。連れ帰るにせよ、先にオルファーレン様の断片を集めてからの方がいい」
「どうして?」
啓介の問いに、サーシャリオンは海を示す。
「別に海に逃げる分には、我の子分を呼べばいいが……。狭い陸地で、逃げながら断片を探して移動してみよ、すぐに捕まるだろう。地の利はこの国の民にある」
「ああ、それもそっか」
納得して、啓介は頷いた。そしてすぐに頭を切り替える。
「じゃあシュウのことはサーシャに任せるとして、断片の情報収集を優先しよう。早く用事を済ませて、速やかに出て行こうな」
ぐるりと皆を見回して、予定を話す。
皆、それが妥当かなという顔をして頷いた。