5
まるで波との鬼ごっこのようだ。
大波を引き起こしたオーガーの群れに追われ、船はスオウ国へと向かっていく。
遠くに見えていた島影は、すでに陸地がはっきりと分かるまでに近付いていた。
波は一度崩れて、その勢いで流れに乗った船は更に加速したが、オーガー達はしつこく追いかけてくる。
「船長、このまま行くと、スオウ国を巻き込んでしまいます!」
船員の誰かが叫んだ。
「分かってる! だが、どうしろっていうんだ!? こっちにしか逃げ場が無いんだ!」
ダール船長は怒鳴り返した。
斜めに進路をとればすぐに追いつかれそうな程、オーガー達は後ろまで迫っている。直線距離だからなんとか逃げおおせている状況だ。
「魔物避けは何してる!」
他の船員が叫んだ。
船縁にしがみついていた修太は、そこで初めて、魔物避けの双子が船長室の前にへたりこんでいるのに気付いた。三つ編みの方が倒れていて、それをもう一人が必死に揺さぶっているが、船員の問いに言い返す。
「イミルが魔力不足で倒れた! 俺一人じゃ無理だ。俺とイミルは、一緒に魔法を使うことで効果が増幅されるんだ。その状況だってあの量は抑えきれない!」
少年の声には涙がにじんでいた。半分パニックに陥っているのだろう。
「なんだよ、肝心な時に使えねえ!」
「どうしてこの船に乗ったんだ!」
あちこちから非難の声が上がるのを、船長が怒鳴ってやめさせる。
「やめろ! 希望してきた〈黒〉の中じゃ、この二人が一番強かったんだ。それをお前らも知っているだろう!」
だが、死の恐怖の前に、船員達は気持ちを抑えきれないようだった。
少年は震えながら、守ろうとするかのように、倒れた片割れを抱きしめている。
甲板は分かりやすく殺気だっていた。もし何か起爆剤でもあれば、簡単に魔物避けの二人を殺してしまいそうな、そんな嫌な空気だ。
修太でさえ息を潜めて成り行きを見守っていると、風音や水を切る音、騒がしい声の中でさえよく通る低い声がした。
「ごちゃごちゃうるさいな」
啓介だった。
据わった銀の目が、鈍く光って船員達を睨みつける。
「ケイ?」
「お、おい……」
ピアスと修太は思わず声をかけたが、結局黙った。静かに怒っている啓介の迫力に圧倒されたのだ。
大波に追い立てられる中、啓介は手遊びに波に向けて魔法を使う。雷が落ちて、何匹かのオーガーが霧へと変わった。
「倒れるまで頑張った子達にかける声がそれか? 良い大人が情けない。俺も必死にやってるんだ、騒ぐのはやめてくれ」
お願いするような口調だが、それは実質、命令だった。
啓介の左の指先で、電気がバチリと音を立てて光る。
「もし手元が狂っても、俺のせいじゃないからね?」
そう言うと、啓介は鮮やかに微笑んだ。
美しく整った顔に浮かべられた笑みは、見る者の目を釘づけにし、背筋を凍りつかせた。仄かに毒を含んだ笑みに魅入られながら、目を逸らせない。視線を外したが最後、恐ろしいことになりそうな、そんな怖さもあった。
甲板の上は静まり返った。
風や水の音は絶えず聞こえているはずなのに、何も聞こえないようだった。
修太は溜息を吐き、啓介の左膝の後ろを思い切り蹴った。
「うわっ!?」
間抜けな声とともに、啓介は甲板に転がった。
「やりすぎだ、馬鹿」
修太はそんな啓介を見下ろして、文句を言う。啓介は尻餅を着いた格好で、心外そうに眉を寄せる。
「だって、ひどすぎるよ! あの子達、頑張っただろ!」
「だってとか言うな、きもい。――ああ、悪いな。でもこいつを怒らせたお前らも悪いんだぜ」
修太が周囲に向けてひらひらと手を振ってみせると、ようやく皆の緊張が抜けた。船縁にしがみつくようにへたりこんだピアスが涙目で言う。
「ナイスよ、シューター君。怖かったぁ!」
「別にもう少し続ければ良かったのに。私もあの言いざまには腹が立った。ケイ殿は流石だ」
フランジェスカはつまらなさそうに言う。
「止めろよ。ったく、面倒くせえな。啓介、つまりはあいつらを助けりゃ、お前の気は治まるんだな?」
修太の問いに、啓介は銀の目をパチパチと瞬く。嬉しそうに立ち上がった。
「ああ! 手伝ってくれるのか?」
「手伝わないと、どっちにしろ纏めて沈む。アストラテと似た状況だから、やり方は分かる」
修太はそう答えると、啓介を見上げる。
「いいか、俺はあんまりやりたくないけど、お前が望むから魔法を使う。お前は何をする?」
「もちろん、シュウの援護と、後始末!」
「もう一つ忘れてる。あの二人のフォロー」
啓介の顔にぱあっと明るい笑顔が浮かんだ。大きく頷く。
「分かった! 任せてくれ」
「よし、任せた」
修太が右の拳を突き出すと、啓介も右の拳を突き出した。軽く拳を合わせると、修太は船長室の方に向かう。被りっぱなしだったフードを外し、双子の前に立った。少年の肩を軽く叩いた。
「――手伝う。だからお前も頑張れ」
「えっ」
少年はぽかんとした声を出した。そんな少年に、修太は薄らとした笑みを向けた。
「今回だけだぞ。俺は情に厚い奴は好きだし、それにあいつの頼みもあるからな」
「〈黒〉……」
修太の目の色に気付いて、少年が呆然と呟く。修太はそんな少年の額を軽く指で押す。
「おい、しっかりしろよ。給料もらってんなら、ちゃんと働け」
「わ、分かった。俺も使う! イミル、ちょっと我慢してろ」
少年はイミルという少女を床に寝かせると立ち上がった。少年は修太と向き直り、フードを外す。
癖のある赤い髪を後ろで束ね、意志の強そうな目は黒い。日射しの下で見ると、修太よりも若干色合いが明るいようだ。
少年は修太よりも背が高い。啓介と同じくらいの身長で、年齢も今の外見年齢と同じくらいに見えた。
「俺はラミル。よろしく」
「塚原修太だ。修太でいい。よし、じゃあやるぞ。あいつらを落ち着かせるんだ」
「ああ!」
前からの友人だったかのように自然と頷き合うと、修太とラミルはそれぞれ後方を振り返った。
ラミルは両手を握りしめる仕草をした。
すると黒い目が青く光る。何かが起きているのかもしれないが、落ち着かせる対象が多すぎて変化は分からない。
修太も続くことにした。
一度目を閉じる。
いつものように、穏やかな花畑を思い浮かべる。
赤や黄の花が咲き乱れる草原。青い空。羊雲がゆっくりと通り過ぎていく。
心が落ち着いたのを認識して、修太は目を開けた。
黒かった目が、青く光っている。
「――落ち着け」
そしてやはりいつものように、修太はモンスター達へとそう呼びかけた。
修太とラミルが鎮静の魔法を使った瞬間、大波の中で、オーガー達は石のように動きを止めた。
今にも船を飲み込もうとしていた大波が、その形を溶かす。まるで土の山が泥となって流れ落ちるかのように、音も無く静かに消えた。
そして、穏やかな海が戻った。
オーガー達が水面にぷかぷかと浮かんでいなければ、先程まで襲われていたとは信じられない程だ。
波間から船をじっと見つめていたオーガー達は、やがて緩やかに身を反転させ、大海の方へと去っていった。
船の上に、歓声が上がった。
「やった! 成功した! すごいな、お前。俺達なんかよりずっと力が強い……」
興奮したラミルは、隣にいる修太を口早に褒め、そこで言葉が途切れた。
無言のまま、前のめりに倒れる修太を、ラミルは腕を差し出してかろうじて受け止めたが、支えきれずに共に床に転がった。倒れたままうめく。
「うえ、吐きそう……。おい、ちょっと、俺も調子悪いんだけど! ……って気絶してる。おいおい、俺一人にどうしろって言うんだ!」
気絶している二人の〈黒〉の間で、青ざめた顔のラミルは座り込んだまま途方に暮れる。
「ごめんごめん、シュウをありがとう、ラミル君」
そこへすぐに駆けつけてきた啓介が修太を請け負った。それで気が抜けたのか、ラミルは口に手を当ててうつむいた。つらそうだが、声を絞り出して言う。
「……こっちこそ、ありがとう」
「ん? ああ、シュウに後で言ってよ。その方が喜ぶから。こーんな無愛想な顔してるけど、困ってる人を放っておけない良い奴なんだ」
にこっと笑い返し、啓介は修太を背負う。
「そうじゃなくて。いや、それもあるけど。さっき、嫌な空気の時、庇ってくれただろ。……ありがとう」
ラミルは礼を言うと、フードを被って顔を隠してしまった。
案外照れ屋なのだろうかと啓介は意外に思いながら、微笑み返す。
「どういたしまして。――さて、フランさん、手伝ってもらっていい?」
「ああ。その子を船室に運ぶんだろう? 任せておけ。君も担いでやろうか?」
フランジェスカがラミルを一瞥すると、ラミルはとんでもないと首を横に振る。
「女に運んでもらう程、落ちぶれちゃいない!」
よろけながらも立ち上がるラミル。明らかな強がりだが、フランジェスカは満足げに頷いた。
「それぐらいの気概が必要だ。合格だな」
「フランジェスカさんてば、何の話よ」
ピアスが呆れ顔で口を挟むと、フランジェスカはイミルを両手で抱えながら返す。
「なにって、将来性の問題だ。男はこれくらいないとな」
「あら。それってかなりの褒め言葉じゃない? 良かったわね、ラミル君。この人、男の人にとっても厳しいのよ」
ころころと笑うピアスに、ラミルは疲労の滲んだ顔で返す。
「そう、どうでもいいから部屋に行こう。お姉さん、こっち」
「ああ」
客室へと向かう啓介達の前に、船員達が立つ。
「ありがとう! お陰で命拾いした。助かったよ」
「こんなに強い〈黒〉がいるんだな。あの群れ全部を鎮めちまうなんてすごいぜ。夜宮様レベルだ!」
修太を褒める声があちこちで上がる。
シークがひゅうと口笛を吹く。
「すげえな、チビスケ。〈氷雪の樹海〉で見た時よりずっと多いってのに、鎮めちまった」
「漆黒ってすごいんだね。あんまり〈黒〉は会ったことないけど、出来ても船の周囲だろ?」
トリトラも感心しきりのようだ。
「アストラテでも圧巻だった」
グレイがぽつりと呟くと、船員が食いついた。
「えっ、アストラテって、昨年あったオーガーの大災害のことか? 津波で町が半壊にされただろ」
グレイが首肯を返すと、修太を見る目が更に熱を帯びる。
「すげえ、アストラテの奇跡を起こした〈黒〉だってよ」
「二次被害を食い止めたんだろ。船乗りの間じゃ有名で、しばらくあちこちの商家が探してたよな」
なんだかすごいことになっていたらしい。啓介は戦慄した。
ざわめく人々がいる一方で、ラミルに謝る者もいる。
「悪い、ラミル……。さっきは、その、どうかしてたよ」
「すまなかった」
「いいよ。……分かってる」
そんな彼らに対し、ラミルは冷めた声で返した。退くように言い、船員達が横へとずれて出来た道をずんずん突き進んでいく。
口では許すと言っているが怒っているのだろう。それも当然だと、啓介はラミルの強張った背中を眺めながら、胸中で息を吐いた。