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船に揺られること五日。
ようやくスオウ国の島影が遠くに見えた。
船縁に腰掛けた啓介が、晴れた空を見上げて言う。
「天気は穏やかで、風も吹いて、良い船旅だったよな」
「そうね、船酔いしなくて済んで、私も大助かりだわ」
啓介の左隣に座っているピアスがにっこりと微笑む。啓介の右側で、縁に肘を乗せたまま、修太は胡乱な眼差しを向けた。
「荒れなくて済んだけど、それでも揺れるだろ。何でそんな不安定な所に座って平気なんだ、お前ら。落ちたらどうすんだよ」
「やだわ、落ちないわよ、このくらいで」
きょとんと返すピアスを修太は不思議に思う。
「それだけバランス感覚が良いなら、船酔いなんてしないんじゃないか?」
「不思議でしょ。私も謎なんだけど、船は苦手なの。馬車は酔わないんだからおかしいでしょ。おばばにもよく変だって笑われたわ」
ピアスは軽やかに笑い返す。一緒になって楽しそうに笑う啓介の横顔越しにピアスを見た修太は、また縁に手を置いて、青黒い海面に視線を戻した。日射しが表面で反射されてキラキラと光っていて綺麗だ。
「まあいいけどさ。だけどこの定期船、よく沈まないで港に帰れるよなあ。俺、海の大蛇が出た時は流石に死ぬんじゃないかと思ったぜ」
「私もビビったわよ。でもケイの雷で一撃で沈め返しちゃったから呆れたわ。だってあれが顔を出して、ほんの十秒くらいで片付いたのよ。ほんと信じらんない」
「魚相手には敵無しだな、こいつ」
修太が頷くと、啓介は首を傾げる。
「なんかちょっと微妙な気分になる褒め言葉だけど、ありがとうと言っておくよ。でも俺には爆弾魚の相手は無理だから、敵無しってのは違うぞ。フランさんとサーシャに感謝だよな」
啓介の言う通り、雷の攻撃魔法を使うと、爆弾魚は爆発してしまい大惨事になってしまう。一つが爆発すると、他の魚までつられて爆発して、悲惨なのだ。だからフランジスカが水の魔法で波を起こして追い払ったり、サーシャリオンが魚を氷漬けにして沈めたりして対処した。
それ以外は長閑で平穏な旅だ。
「あっ」
ふいに啓介が声を上げた。
「何だよ、何か出たのか?」
「違うよ、シュウ。あの子達だ。おーい、おはよう!」
啓介は人懐こく笑って、この船の魔物避けである双子の少年少女に手を振った。巡回していた二人はこちらをバッと振り返り、すぐに踵を返して船の後方へと去っていった。啓介はがっくりと肩を落とす。
「お前がまだ打ち解けられないなんて、逆の意味で奇跡だな」
一連の様子を見ていた修太は感心混じりに呟く。五日も同じ場所で過ごしていて、啓介が友達になれない人間がこの世にいるなんて驚きだ。
「ほんとね、びっくり。冒険者でも誰でも、すぐに仲良くなっちゃうのに」
ピアスも菫色の目を真ん丸にしている。
(ピアスの言う通りだ。この船の連中とも仲良くなっちまってるもんなあ、こいつ……)
啓介は、船乗りにはもちろん、乗客にも人気がある。歩いているとすぐに挨拶されたり、声をかけられたりする。小さい頃から何度も見ているが、まるで魔法のようだ。無愛想な修太には到底無理である。
雑談している修太達の所へ、律義に船内を見回っていたフランジェスカが歩いてきた。軽く右手を上げて、朗らかに声をかけてくる。
「ケイ殿、ピアス殿、それからおまけ。船内は特に問題は無い」
「ありがとう、フランさん」
「こっちも特に異常無しよ」
啓介とピアスは笑顔で返したが、修太は不機嫌になる。
「何だよ、おまけって! 差別反対!」
修太の抗議を、フランジェスカはにやりと意地悪い笑みを返しただけで無視した。そしてピアスに優しい声で言う。
「ピアス殿、変な輩がいたらすぐに私に言えよ。しばらく立てない程度に痛めつけてやるからな?」
内容のえげつなさに、修太はフードの下で顔を引きつらせた。足元に座っているコウも怖かったのか、修太の足にすり寄った。だが気にしていないピアスは笑い返す。
「フランさんったら、心配症ね。あれ以来、酔っ払いには絡まれてないから大丈夫よ。それに私も冒険者なのよ? 平気だから」
ピアスの微笑みは、まるで天使のようだが、ピアスが自分に抱き着いてきた酔っ払いに、香辛料たっぷりの目潰し粉をお見舞いしたのを知っている修太はゾッとした。まるで鶏を絞め殺したような悲鳴がしばらく船内に響いていたのを思い出す。あれは悪夢だ。
「いいや、フランさんもピアスも、どっちも気を付けること。俺、ああいうのって大嫌いなんだよな。教えてくれたら、ちゃんと“話し合い”するから、いつでも言ってよ」
啓介もにこにこと笑っているが、その笑顔はどこか黒い。
修太は額に手を当ててうつむく。
「お前ら、こえーよ。手ぇ出すなんて猛者は、もう絶対に出てこないから気にすんな」
ひらひらと右手を振ると、三人は揃って「そうかな?」なんて呟いている。互いを心配しあう様子は微笑ましいけれど、心配の仕方が怖いので、どうか他所で話し合って欲しい。
フランジェスカは平常運転だが、普段が穏やかな啓介とピアスは、そのギャップが怖い。
そこでふと、ピアスがはっと申し訳なさそうな顔になった。
「シューター君も気を付けてね。あなたのことを忘れててごめんなさい」
「いや、別にいいけど……」
フランジェスカも真顔で言う。
「菓子をくれるからとついていくんじゃないぞ」
「真面目に言うなよ! 余計に傷付くだろ!」
子どもに向けるような優しい眼差しをやめろと、修太は続けて叫ぶ。その遣り取りに、啓介が腹を抱えて大笑いするものだから、八つ当たりに足を軽く蹴っておいた。
そんなのんきな談笑は、鉄を叩く音で打ち消された。
「気を付けろー! 大波が来るぞー!」
物見台で鉄板を金槌で叩きながら、船員が注意を促して叫ぶ。
すぐに、警鐘を聞きつけたダール船長が部屋から飛び出してきた。
修太達もふざけた空気を改めて、物見台にいる船員が差す方を見た。右舷後方から、確かに波が近づいてくる。ピアスと啓介は船縁から飛び下り、衝撃に耐える為に縁を掴んだ。
波はそれ程高くなかったが、甲板を水浸しにしていった。
「きゃあああ!」
女性の甲高い悲鳴が上がった。
水を被った修太は、重くなったフードを指先で持ち上げ、悲鳴の方を見る。
蛙の手足が生えた青緑色の魚がむくりと床の上で立ち上がるところだった。柱に掴まって衝撃に耐えたらしい女性客は、そのモンスターを見て、狂ったように叫び続けている。それにつられるみたいに、コウがオンオンとけたたましく吠え始めた。
「オーガーだ!」
レステファルテの海で見たモンスターの名を口にして、修太はバッと周囲を見回す。他にも五体のオーガーが船に乗り込んでいた。
悲鳴を上げる女性に気付き、そのうちの一体が飛びかかる。
目の前を白い影が走り抜けた。
一足飛びに駆け付けたフランジェスカの着る白いマントが翻り、彼女は素早く抜いた長剣でオーガーを切り伏せた。オーガーは黒い霧へと変わる。
それでもまだ女性は叫び続けている。
恐怖で混乱しているのかもしれないが、どう考えてもモンスターを呼び寄せる行為でしかない。
「静かに! 死にたいのか?」
フランジェスカが女性の口元に手をやって、無理矢理口を閉じさせる。そして女性の両手を掴んで、口を押さえさせると頷いた。
「それでいい。騒げばお前が的になるだけだ。ここは私が引き受けるから、客室へ逃げろ。そして鍵をかけて部屋から出てくるな」
こくこくと何度も頷く女性の背中を押すフランジェスカ。女性はよろめいて、不安そうに振り返る。
「走れ!」
フランジェスカが怒鳴りつけると、女性は鞭打たれた馬のように駆けだした。追おうとするオーガーをフランジェスカはすぐに切り捨て、返す刃でもう一体を霧へと帰す。残っていた三体は、啓介が魔法で雷を落として倒した。
ひとまず船上のモンスターはいなくなり、一息ついた。
船尾側にいたグレイとトリトラが駆けてきた。
「平気か?」
グレイがそう訊いたところで、船室のほうからシークが出てきた。
「くそ、いてえ」
ひじをさするシークに、トリトラが悪い笑みで問う。
「転んだの?」
「ちげえよっ、混乱してる奴に突き飛ばされたんだって」
シークはすかさず言い返した。トリトラが啓介を振り返る。
「ねえ、君が雷でバチッとやっちゃえばいいんじゃない?」
「……あの量を?」
啓介が顔を引きつらせて指差した先には、海を真っ黒に染めるほどの大量のオーガーがいた。さしものトリトラとシークも、顔から笑みが消えた。
再び物見台から声が上がる。
「次の波が来るぞーっ!」
その声を合図に、今まで銅像のように立ちつくしていた乗客達が、我先にと船内へ逃げ出した。押されて突き飛ばされ、転ぶ客も出て、啓介が慌てて助けに駆けていく。彼らが逃げたのを横目に安堵した修太は、次の波を確認しようと右舷後方に目を向けた。
「うわーお」
修太の口から出たのは、感嘆に似た声だった。
大波を埋め尽くすように、黒々と浮かんだオーガー達が、波とともに向かってくる。
「全速前進! 〈青〉と〈緑〉の船員、魔法の使用を許可する! 全力で逃げろ!」
「イエス、サー!」
怒鳴るように叫ぶダール船長の声に、すでに持ち場についていた船員達が大声で返す。
魔法の力もあり、船は素晴らしい速度で海の上を走り出した。