第三十一話 夜色の双子
黄色に色づいた星の形をした葉が、ひらひらと舞い落ちていく。
その様を眺めながら、彼はホッと小さな息を吐いた。
忙しい公務の合間のささやかな休息時間だ。
(なんて長閑なんだ。このままずっとこうしていたい……)
彼はひどく疲れていた。
ここ最近、ある問題事が常に彼の周りを飛び交って、まとわりついてくるのである。
湿り気を含んだ風が青年の暗い赤色をした髪を揺らして通り過ぎていく。日に当たると、赤銅色に輝くのが彼の密かな自慢だった。
その髪も、今は艶に欠けている。
このところの睡眠不足のせいだろう。
縁側を離れて、池を見下ろした彼は、銀色の目を細めて自嘲気味に笑った。目の下にくっきりと隈が浮かんでいる様子が、水面に映っている。外に出ないせいで白い肌をしているから余計に目立っていた。
やれやれと溜息を吐いていると、侍従が廊下を歩いてきて、縁側に両膝をついて頭を下げた。
「日ノ宮様、ご報告に参りました。今日の午前中、南の海岸部がオーガーの群れにより被害に遭ったそうです」
「――分かった。いつものように対処せよと伝えよ」
「承知しました。では御前失礼します」
「ああ」
侍従が立ち去る音を背中に聞きながら、彼は再び重い溜息を吐く。
「まったく、束の間の休息も与えない気か……」
気が休まらないとはこのことだろう。
(夜宮が亡くなってから、もう三月か。全く、海辺のモンスターによる被害だけで、こうもあたふたせねばならぬとは、情けない話だ)
日ノ宮――他国でいうところの国王の位置にある彼は、頭痛をどうにかしようとこめかみに指先を押し当てて、軽くもみほぐす。
彼の守る国は、セーセレティー精霊国とレステファルテ国のちょうど北にある小さな島国だ。スオウという名のこの国は、古来から、広い海岸部から襲ってくるモンスターの被害に頭を悩ませてきた。
だがそれは、海岸部に建てた神殿に夜御子を住まわせることで、どうにか治めてきたのである。
夜御子というのは、〈黒〉のカラーズのことだ。荒れるモンスターを鎮める魔力の持ち主ということに、スオウ国の人間達は早々に気付き、大切にしてきた。その夜御子の中で最も力が強いとされている者を選び出し、夜宮と呼んでいる。
その夜宮が亡くなった後、後継に相応しい者がおらず、三ヶ月過ぎた今も空位のままだ。
「誰でもいいから、適当に夜宮に据えてしまえと言っているのに、まったく……」
魔力の強さだけで比較すると、他の夜御子で特に優れている者は三人もいるのに、その三人の力量がほぼ互角なのである。ちょっとした勢力争いというものはどこにでもあり、お陰で三竦み状態が続いている。
正直、日ノ宮からすれば誰が夜宮になってもいいのだが、ただでさえ〈黒〉が人手不足で被害が後を絶たないのに、下手なことをして、彼らが仕事を放棄するような抗議の仕方をされてはかなわない。だから慎重に様子見をしている。
モンスター被害と、後継選び、そのどちらも日ノ宮の頭を悩ませていた。
それ以外は、小さな国なので、これといった騒ぎもないというのに。
「どこかに良い人材は転がっていないものかな」
日の宮は希望を呟いて、すぐにそんな虫の良い話はないと頭を振った。
ただでさえ、カラーズの中でも〈白〉と〈黒〉は生まれにくい中、〈黒〉は身の安全の為に世間から隠れてしまうものだ。
希望するなら外国人でも受け入れるのにと思っても、他国に住む〈黒〉にすれば、そんな甘い話は罠だろうと警戒されるだけである。こういう時は、〈黒〉を迫害している白教徒達が煩わしい。彼らがいなければ、いや、勢力がもう少し弱ければ、まだマシなのに。
「日ノ宮様」
物思いに沈む日ノ宮に、いつの間にか戻って来た侍従が恐る恐る声をかける。
「……なんだ」
そう問いながら、日ノ宮は嫌な予感がした。侍従がそれは言いにくそうに目を泳がせているのだ。
「夜宮の後継候補様三名が、宮様への謁見を望んで押しかけてきてございますが……」
「留守だ」
「は?」
「私は留守だ! そう言って追い払え!」
うろたえる侍従を追い立てると、日ノ宮は頭を抱えた。
――彼らは自分を過労に追い込んで殺す気に違いない。きっとそうだ。
いったいどこに隠れれば、ほんの少しでも静かに過ごせるのだろうか。
大きな溜息は、誰にも聞かれることなく風に紛れて消えてしまった。
*
快晴の空に、白い鳥が幾羽も飛んでいる。
キラキラと光を反射させる紺碧の海は長閑だ。漁日和なのだろう、沖合には小型の船が幾つも浮かんでいた。
生ぬるい潮風をめいっぱい吸い込んで、修太は石積みの波止場から海を覗き込んだ。
虹色をした小さな蟹が、岩場の間を移動している。
「うわ、まずそうな色……」
「ワフッ」
思わず呟いた修太の隣では、行儀よく座ったコウが小さく吠えた。もしや肯定したのだろうか。
「いいなあ、海。久しぶりに釣りしてえ」
「駄目だよ、シュウ。お前、釣りし始めると、動かなくなるだろ。これから船に乗るってのに困るよ」
修太の呟きを拾って、啓介が素早く返した。
「え、シューター君ってそうなるの? なんだか意外。静かそうに見えて、だいたいいっつも何かしてるじゃない」
ピアスが会話に加わった。
グレイやフランジェスカが船の交渉をしている間、待っている修太達は暇だった。サーシャリオンは波止場に座って、居眠りしている。その辺でごろ寝しないだけマシだが、ちょっとした拍子に海に落ちそうで見ているこちらは冷や冷やする。
啓介はピアスに大きく頷いてみせた。
「あんまり話しかけると、魚が逃げるって注意されるから、俺みたいなのには向かないな」
「あはは、その怒られてる姿、簡単に想像が付くわ!」
ピアスは手を叩いて笑い転げている。
その音に驚いたのか、修太が眺めていた虹色の蟹が、岩場にピュッと逃げ込んでしまった。
「……暇だ」
修太はとうとう呟いた。
ぼーっとするというのはどうも性に合わない。本でも読もうかと旅人の指輪に意識を向けたところ、ようやくグレイとフランジェスカが戻ってきた。
なにやらフランジェスカが怒っており、グレイが面倒くさそうな空気を漂わせている。
「お帰り、フランさん! 何かあったの?」
啓介が明るく声をかけると、フランジェスカの顔に笑みが浮かんだ。素晴らしい変わり身である。
「ただいま戻った、ケイ殿。船は問題無く手配出来たぞ。まあ、冒険者ギルドからの依頼を受けているんだ、特に問題は無いんだが」
「じゃあ何をそんなに怒ってるんだよ、お前」
修太が問うと、フランジェスカは瞬く間に不機嫌に戻った。啓介の時だけ笑顔って、本当にこの女は性格が悪いと修太はこっそり思った。
フランジェスカはびしっと右手の親指でグレイを示す。
「夫婦と間違われたんだ!」
そう返すと、よっぽど腹立たしいのか、フランジェスカは石畳を何度か踏みつける。
「失礼な話だ。私はもう少しまともな男を選ぶぞ」
「……お前の方が失礼だとは思わんのか」
流石のグレイも、苦言を返している。ピアスは微苦笑を浮かべて問う。
「えっと、でも、誤解は解けたんでしょ?」
フランジェスカは大きく頷いた。
「勿論だ。まったく、どうでもいいと流そうとするから、私が訂正しなくてはならんのだ。その『どうでもいい』をやめろ! 私を巻き込むな!」
「他人の噂話なんざ、いちいちまともに相手にしてたら面倒だろう。何をそんなにムキになるんだ? どうせ奴らの関心なんか、夕方には晩飯のことに切り替わってる」
フランジェスカの苦情に、グレイはそう返すと、懐から紙煙草を取り出してジッポライターで火を点けた。ちょっとばかりイラついているようである。フランジェスカもフランジェスカで苛立ちを隠さず、そっぽを向いた。
「ところで、あの二人はどうした?」
腹を立てていても、状況確認を怠らないフランジェスカの問いに、修太は首を傾げる。
「あの二人って?」
「シークとトリトラだ」
「ああ、あいつらなら、あっちから美味そうなにおいがするから見てくるって」
修太が、彼らが出かけた方向を見ると、両手に紙袋を抱えたシークとトリトラがタイミング良く戻ってきた。
「あ、師匠、戻ってたんですね。お疲れ様です!」
「なんか姐さん、機嫌悪いなあ。腹空いてんのか?」
にこやかに挨拶するトリトラの隣で、シークが呑気に問いかけ、フランジェスカに紙袋を差し出した。
「ほら、食えよ。腹が空いてるとイライラするもんな!」
「……はあ」
毒気が抜かれたように溜息を吐き、フランジェスカは青みがかった黒髪をくしゃりとかき上げる。
修太はうんうんと頷いた。
「あー分かる分かる、フランの今の気持ち。そいつの相手してると馬鹿馬鹿しくなるよな」
「あはは」
啓介はたまらないとばかりに笑い出す。
事情を知らないトリトラとシークはきょとんとし、フランジェスカは説明するのも面倒くさそうに、紙袋に手を突っ込んで串に刺さった小さな芋を取り出した。
「海鮮焼きもあるよ。船に乗る前に腹ごしらえしていこうよ」
トリトラは楽しそうに言ったが、ピアスだけは断った。
「私はやめておくわ。船酔いするかもしれないから」
「そう?」
トリトラは不思議そうにしながら、袋から取り出した小さなエビのフライを口に放り込む。
修太は勿論もらった。
塩味が効いていて美味かった。