18
ようやく長い旅の終点に辿り着いたようだ。
イファは中庭の噴水の台座に腰掛けて月を眺めながら、感慨にふけっていた。
思い返せば、前王が即位したあの日から、イファはどこに出るか分からない霧の中をさまよっていた。
「ようやく一区切りが付いた……」
ミストレイン王国がどんな道を辿るのか、イファにはまだ分からない。けれど、長い上り坂を歩き終え、峠に差し掛かったような心境だ。この二百年、沈んでばかりいた心が、さっと晴れ渡ったように思えた。
「――やあ、良い月夜だね」
ふいに声をかけられ、イファは目を丸くした。
「アーヴィン様……」
月明かりの中でも美貌がかげることのないアーヴィンは、イファにとっては幼い頃から眩しい存在だ。だが、嫌われていることを思い出し、イファは席を立った。きっと機嫌を悪くするだろうからという気遣いだったが、アーヴィンは気にせず座るように手で示した。
「少し私と話でもどうですか、イファ」
「……ええ」
いったいどんな心境の変化だろう。イファは不思議に思ったが、老いた身では慌てることもない。
二人で並んで台座に腰掛ける。イファは思わずふっと微笑んだ。
「こうして並ぶのは、ずいぶん久しぶりですな」
「二百年経った。こうして見ると、君は随分年をとったな」
「あなたはまったくお変わりない」
「変わらないのも退屈なものだよ」
イファは目を細める。こんな穏やかな会話を交わしたのは、本当に久しぶりだ。だが、目を閉じれば、いまだ若く、アーヴィンと友だと言い合っていた頃に戻れる。
しばらくの間、沈黙が落ちた。
風が吹き、さわさわと木々の梢を揺らして通り過ぎていく。空を見上げると、雲が流れていくのが見えた。
やがてアーヴィンが話し始めた。
「私は、幼い頃から兄が、レディオットが大嫌いだった。意地悪で、欲深く、下位のものをいじめる様が醜くて、見るに堪えないと思っていたよ」
イファはゆっくりとアーヴィンの横顔を見た。アーヴィンは眉を寄せた険しい顔をしていた。
「あなたがそんな風に不機嫌になるのは、だいたい兄君のせいでしたな」
「である、が正しいね」
「――正直に言って、私もレディオット王が大嫌いでしたよ。いっそ暗殺した方がマシではないかと思いましたが、失敗した時のことを思うと実行出来ず、ぐだぐだと二百年が過ぎてしまいました」
イファは膝に視線を落とし、自嘲気味に微笑んだ。アーヴィンが唖然とこちらを振り向いたのが分かった。痛い程の視線を感じたが、見返す勇気は無く、足元を見下ろすばかりだ。
「あの王は愚かでしたが、馬鹿ではありませんでした。ずる賢いという意味では、非常に頭が良かった。私の殺意などお見通しでしたでしょう。実行に移せば察知して避けたでしょうね」
「……いったいどういうつもりです。私がほだされるとでも思っているんですか?」
明らかな警戒をこめて問うアーヴィン。
イファは緩やかに首を横に振る。
「まさか。私はあなたに断罪して欲しいと願っているのです。もう老い先短い。こんな風に話せる日はもう来ないかもしれない。話をしておこうと思ったんですよ」
イファは眉を八の字にして、困ったような顔を作る。
「あなたのペースに合わせていると、私の方が先に死んでしまいますからね。私はあなた方をこの国から追放したことを、申し訳ないと思っていますが、悪いことをしたとは思っていません。ですが、その選択が正しかったのかは、いまだに分かりません」
「君が何を言いたいのか分からない! 私は君が悪いと思っていたから、追放という屈辱を耐えられたのに。君はまるで悪くないかのようだ。周りの者達もそうだ。私はレディオットが大嫌いだが、私との友情を裏切った君はもっと嫌いだし、今でも許せない!」
アーヴィンは立ち上がり、頭を激しく振る。
落ち着いて話す心持ちになれたのだろうに、イファが急いだせいで頑なになってしまったようだ。
「それで構いません。ただ、私はあなた方の知らない事情を一つ知っている。――あなた方の父王を殺したのは、レディオット王だ」
「は……?」
アーヴィンは呆然とイファを振り返る。
「いや、そんなはずは。父上は狩りの途中、事故で崖から落ちたと……」
「前後不覚になるような毒を盛られたのですよ。私は王が即位した後、それを知りました。何もかも遅かった。あなた方を逃がすので手一杯でした」
イファは大きな溜息を吐く。
「あの時、私は、あなた方がレディオット王に勝てると思えなかった。あの方は、私が知っていることを知っていた。愚かで、恐ろしい方でした。ですが、もしあなた方を信じられたら、冬の二百年は無かったかもしれない。そう思うと、選択が正しかったのか分からないのです」
アーヴィンは無言だ。
色んなことを一度に聞きすぎて、それを咀嚼するので精いっぱいなのだろう。イファはアーヴィンが何か言う前に、急いで言い切ることにした。
「あの日、信じられなかった私は、確かにあなたとの友情を裏切りました。アーヴィン殿下、どうか私を追放して頂けませんか?」
イファはずっと夢見ていた。こんな風にアーヴィンと再会し、彼の手で断罪されることを。そうして罰して欲しいと願っていた。誰かに褒められたり、お礼を言われたりするたび、そんな善良な者ではないのだと、心のどこかにわだかまりがあった。それからようやく解放されるのだ。
アーヴィンは眉間に皺を寄せ、やがて表情が消えた。美貌ゆえに冷たさに拍車がかかり、怖くすら見えた。
きっと神がいたらこんな顔をしているのだろうとイファは考える。善も悪もなく、表情もなく、ひたすら平坦な目つきでじろりと観察されるのだ。
しばらくの間、辺りを沈黙が支配した。
なにかを無言で考えていたアーヴィンは、鮮やかな笑みを浮かべる。
「お断りします」
「――は?」
今度はイファが唖然とする番だった。
アーヴィンはさも不思議だと言いたげに、首を傾げる。
「何故、裏切った君の願いを私が叶えなくてはいけないんですか。そこまで思惑に乗る程、私は安くありません」
「ですが……」
何をどう言えばいいのか、よく分からぬままに反論しようとするイファの前で、アーヴィンがどこかすねた様子で、長い三つ編みを手で背中へと放る。
「もういいです。私は確かにあなたに二百年怒っていましたが、その間、あなたが苦しんでいたのだと分かったので。ざまあみろ、ですね。良い言葉です。友に相談もせずに決めるから悪いんですよ」
そんなことなら、この国に置いていったりしなかったのにと、残念そうに呟くアーヴィンを前に、イファはどうしていいやらで固まった。こんな事態は随分久しぶりである。
「君は確かに頭が良いけれど、残念ですが私の方がずっと大人なんですよ。事情が分かったのにいつまでも怒るわけないでしょう。でも、やられっぱなしは私の性にあいませんからね、仕返しはしていきます」
そう言って、アーヴィンは心の底から楽しそうに、まるで悪魔のような笑みを浮かべた。彼の出した結論に、イファは度胆を抜かれて青ざめる羽目になった。