第三十話 時の泉 1
朝起きると、客室の寝室に皆の姿が揃っていた。
いったいいつの間に戻ってきたのだろうと考えながら、修太は眠っている彼らを起こさないように気を付けて、そろりと寝室の奥にある洗面所に向かい、身支度を整えた。そして食堂を兼ねたリビングの方に出ると、壊れたベランダの前にある長椅子で煙草をくゆらせているグレイを見つけた。
「おはよう。皆、いつ戻ってきたんだ?」
修太は小さい声でグレイに問いかける。
「深夜を回った頃だ」
グレイの答えは簡単だった。
(深夜過ぎか。もう寝てたな……)
修太は昨晩の行動を思い浮かべる。
昨日、トルファとの話し合いの後、グレイとシークはすぐに宴に戻っていた。だが、彼らともども啓介達もなかなか部屋に戻らないものだから、修太は待つのを諦めて先に寝たのだ。どうやらその後に戻ってきたらしい。
「はよーっす」
「あ、シーク。おはよ」
シークが欠伸をしながら部屋から出てきたので、修太も挨拶を返す。シークの真っ白い髪はあちこち跳ねていた。修太がそれを面白く思って見ていると、シークはグレイにぴしっと頭を下げて丁寧に挨拶をし直した。
「おはようございます、師匠」
「ああ」
対するグレイは頷いただけだったが、シークは満足げに頷く。そこへ、トリトラが頭を手で押さえながら現れた。
「うう、頭痛い……。最悪……」
青ざめた顔で情けなくつぶやいたところで、グレイと目が合ったトリトラから更に血の気が引いた。青を通り越して真っ白だ。
「おはようございます、師匠! そして昨日は申し訳ありませんでしたっ」
トリトラは叫び、その場に両膝を付いて頭を下げる姿勢――いわゆる土下座のポーズを取る。その勢いは、驚いた修太が一歩離れてしまった程だ。
「おはよう、何の騒ぎ?」
次に顔を出したのは啓介だった。寝起きらしく麻の寝間着姿だ。
啓介の目の下に隈がくっきりと出来ているのを見つけて、修太は珍しいと思った。啓介はだいたいどこでもすぐに眠れるタイプだ。エルフの客室にある、ふかふかのベッドなら尚更眠れたはずだ。
修太がそれについて訊く前に、啓介はリビングの様子に目を丸くして固まった。そして困ったように微笑みを浮かべる。
「あ、取り込み中だった? ごめんな。どうぞ説教を続けて」
「いやいや、理由くらい訊けよ!」
修太は慌てて啓介を呼び止める。
修太は事情を知っているのでツッコミを入れづらいが、啓介は知らない。遠慮なく場の緊張感を壊して欲しかった。
「うーん……」
啓介は後ろ頭をかいた後、グレイに問う。
「何でトリトラは土下座してるんだ?」
「酒にのまれて、正体をなくしたからだよ。言わせないでくれよっ」
グレイが答えるより先に、トリトラが心底情けないという態度で答えた。ほぼヤケの状態だ。
「クソーッ、二度と酒には飲まれないと誓ったはずなのに!」
悔しげに床を手で叩くトリトラに、シークが横から呆れ顔で言う。
「お前、甘い酒に手ぇ出すのやめとけよ。相性悪いんだよ。たぶん」
「蛇酒はいける癖に、何で甘い味の酒だと潰れるんだろうな。おかしな奴だ」
グレイがぼそりと呟いた。その声には不思議そうな響きがある。啓介がきょとんとして訊く。
「蛇酒って?」
「蛇を漬けた高価な酒で、レステファルテの名産品だ。通称、“酒飲み潰し”」
「……それが飲めて、甘い酒だと潰れるの? 君って面白いね」
「君にそう言われるってことは相当末期だ……」
啓介の素直な感想を聞き、トリトラは絶望の表情になった。啓介は心外そうに眉を寄せる。
「どういう意味だよ、失礼だなあ」
「まあまあ、弱点が分かったんなら、気を付ければいいだけの話だろ? トリトラ、いい加減に立てよ。そういうの見てるとこっちが落ち着かねえ」
修太はトリトラの左肩を軽く叩いて言い、ちらりとグレイを見る。グレイが何か言わないと、トリトラは動かないだろうから出来れば何か言って欲しかった。
グレイは面倒くさそうに溜息を吐く。煙草の煙がふわりと浮かんだが、すぐに消えた。
「トリトラ、その話は昨夜終わったはずだ。いちいち蒸し返すな」
「は、はいっ、すみません。ありがとうございます、師匠」
トリトラはパッと顔を輝かせて立ち上がる。修太はほっと息を吐き、シークを示す。
「トリトラ、身支度するんならシークも連れてけよ。こいつの頭、みっともねえから」
「ぶっ、本当だ。シーク、髪の毛がすごいことになってるよ。はははは」
「お前なんか尻尾の毛がボサボサじゃねえか、格好悪い」
「はあ? ふざけんな、君の頭の方がひどい」
「みっともなさじゃお前が上だ!」
言い合いを始めた二人の弟子を、グレイはじろりと見やる。
「――うるせえ」
途端にシークとトリトラは黙り、身を翻して洗面所の方へと消えた。
(流石、保護者……)
グレイが聞いたら怒りそうなことを考えつつ、修太は二人を見送る。
「ふーん、尻尾がボサボサだとみっともないのか?」
「当たり前だろうが」
グレイが短く返事をする。
そんなもんなのかと修太が啓介を見ると、啓介も不思議そうな顔をしていて、修太と目が合うと肩をすくめた。啓介にもよく分からない価値観らしい。
「ところで、啓介。お前、すげえ酷い顔してるんだけど、眠れなかったのか?」
見れば見る程、ひどい隈だ。
「何が?」
「目の下、隈がすげえぞ」
「ああ、うん。考え事をしてたらよく眠れなかったんだ。――シュウ、俺さ、昨日、ピアスを怒らせたんだ。その後謝ったら何でか余計に怒っちゃって。どうしたらいいと思う?」
「――は?」
事情がさっぱり読めない。
困り果てて天井を仰ぐ啓介を修太は唖然と見上げる。
(すげえ、啓介をここまで悩ませるなんて、ピアスってやっぱすげえわ)
啓介は悩み事と無縁なタイプなので、修太はこの相談に驚いた。
「よく分からない。何したんだ?」
「ああ。セーセレティーの風習と知らなくてプロポーズしちゃったんだ」
「ぐっ」
修太は驚いた拍子に息を吸い、そのせいで思い切り蒸せた。ゲッホゴッホと咳をし、なんとか治めることに成功する。
「ちゃんと話せばピアスも分かってくれるだろ?」
「俺もそう思ったんだけど」
「うん?」
「女の子の夢を壊したみたいでごめん。まさかこんなことでそこまで怒るとは思わなくてって言ったら怒って……」
「そりゃ怒るだろ。ピアスにとっちゃ重いだろうに、“こんなこと”呼ばわりじゃあ……」
修太は冷静に指摘した。啓介には悪いが、どうしてそれに気付かないのかさっぱり分からない。
「え……」
目を丸くして固まる啓介。
「おい、こんなことくらいで驚くなよ」
「こんなことくらいって……!」
「ほら、お前も怒った」
「…………」
啓介は沈黙した。
「なあ、啓介。お前、なんでピアス相手だと途端に不器用なことになってんだ?」
「何でだろう、俺が知りたい……」
とうとう頭を抱えてしまった啓介に、修太は呆れ果ててつい余計なことを言ってしまう。
「これを機に、お前ら結婚したら?」
「他人事だと思って……!」
啓介はじろっと修太を睨んだ。カチンときたようで、不機嫌さを露わにしている。仕舞いには、啓介はふいっと顔を背け、寝室の方に歩いて行ってしまった。
修太は本気で言ったが、啓介は修太がからかったと思ったのかもしれない。啓介が部屋に消えるのを見送った後、修太はふと大事なことを思い出した。
「――あ。昨日の事、いつ話そう……」
「サーシャが起きてからで構わんだろ。あいつ、今日は昼まで寝るつもりらしいぞ」
グレイが煙草の先を灰皿に押し付けながら言う。修太は首を傾げる。
「サーシャの昼までっていつだよ」
「さてな。夕方よりは早いんじゃないか?」
適当な返事をするグレイ。修太はなんとも返事がしがたく、曖昧な笑みを返した。修太にも判断が付かなかったせいだ。