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底の見えない暗闇が広がっていた。
修太は目の前にある深い谷を見下ろしていた。ミストレイン王国がある大地を囲む溝状の谷だ。冷たい風が吹き抜けて、甲高い音を立てた。この谷がどれだけ深いのか分からないが、落ちたら即死だろうことは修太にも分かった。
この谷のお陰で、ミストレイン王国にはエルフ以外が容易に侵入出来ない。
安全に入国するには、唯一水底森林地帯へとつながる道を通らなければならない。しかしその道の先には分厚い城壁が作られており、門の上に立つエルフの兵士達が常に監視の目を光らせている。無理矢理通ろうとすれば、城壁の上から矢と魔法が飛んでくるという仕組みだ。
修太はちらりと後方を一瞥した。
門へと通じる道までは近付いてこないが、町の出入り口から人間達がこちらの様子を伺っている。
エルフ達の隊列の中に人間や黒狼族が含まれているから、どうなるのかと興味津々なんだろう。
修太は人の目を避けるように、フードを深く引き下ろした。
やがて開門の許可が下り、分厚い石製の門が開いていく。
修太達の隊列はミストレイン王国の土を踏んだ。背後から、エルフ以外が入国したことへのどよめきが聞こえてきたが、修太は知らないふりをすることにした。
関所を抜けた後、一日かけてミストレイン王国の王都へと向かった。雨降らしの聖樹の根元に王都があるそうだ。エルフ達の住む領域はさほど広くはないらしく、点在する村を通りぬけての短い旅となった。
そして、王都に到着するや、修太達の隊列は王城を目指した。
雨降らしの聖樹は、近くで見る方がより圧巻だ。
灰色の幹はまっすぐに伸び、枝を力強く天へと広げている。朝の眩しい陽射しの中、輝く葉は宝石を思わせた。
この木は、まるで人々を見守っているようだ。
慈愛さえ感じられる聖樹の姿に、修太はしばし見入った。
しかしその感慨は、トランペットに似た楽器によるファンファーレに遮られた。
「アーヴィン殿下、ご帰還! ご入場いたします!」
王城の門の向こう、その手前側で六人の兵士がラッパを吹き鳴らし、その前にいる男がアーヴィンの帰還を告げた。彼らの向こうには道を挟むようにしてずらりと並ぶ臣下達がいた。侍女などの女性の姿も見られる。
彼らは手に猛獣脅しの遊び版らしきものを持っている。そこから、クラッカーのような軽い音とともに光や花のエフェクトが飛び出して、宙を煌びやかに飾る。実際に花を手にした女性達もいて、間を通る隊列へ花を投げてきた。
皆、笑顔で歓迎しており、アーヴィンはルマから顔を出して彼らに手を振った。
(王子様がいる……!)
実際、アーヴィンは王子なのだが、修太は絵本や童話そのままのアーヴィンの姿に衝撃を受けた。
腹の立つ男だが、アーヴィンは見た目だけは良い。絵になる光景だ。
臣下達は事情を前もって聞いていたようで、修太達が通過しても表情を変えなかった。人間嫌いの彼らに嫌悪感を丸出しにされると思っていた修太には意外だった。
美しい花壇が広がる前庭を通り抜けると、修太達の隊列は城の玄関口で停車した。アーヴィンがセスと共に城へ入っていくのを、アーヴィンの家臣達とともに頭を下げて見送る。
「あなた方はどうぞこちらへ」
自分達はどうするんだろうと疑問に思っていると、侍従がやって来て、修太達を案内した。
「うわあ、綺麗な部屋だな」
人間と黒狼族向けに宛がわれた客室に入るや、修太は歓声を上げた。
白い石造りで、壁紙は薄い緑色だ。細かい箇所に繊細な飾りがしてあり、派手すぎなくてセンスが良い。
部屋のあちこちには観葉植物や花瓶に生けられた花が置かれ、心地よい空間になっていた。
扉から入ってすぐのこの部屋は、リビングルームを兼ねた食堂のようで、六人掛けのテーブルや長椅子が置かれている。奥にあるガラス戸の向こうにはベランダがあるようだ。
「こっちは寝室だよ、見てみろよ。過ごしやすそうだ」
食堂の右手側にある部屋から、啓介が顔を出した。活き活きとした表情をしている。誘われるままにそちらに向かおうとしたところで、案内役の侍従が咳払いした。焦げ茶色の髪と琥珀色の目をした青年で、緑色の制服を着ている。感情が分かりにくい雰囲気だが、エルフは顔が整いすぎて、冷たく見える人が多いからそう思うだけだろう。
「ええ、皆様。私はラインと申します。長旅でお疲れでしょうから、本日はどうぞこちらでごゆっくりお休み下さい。ああ、くれぐれも部屋から勝手にお出になりませんように。ご存知かと思いますが、我々はエルフの民以外の方々をあまりよく思っておりませんので、何か問題があると困ります。何か御用の際は、そちらのベルを鳴らしてお呼びくださいますよう」
慇懃な口調でそう言うと、ラインは左脇に右手を当てるような仕草をして、一礼した。惚れ惚れする綺麗な所作だ。
「はい、分かりました!」
啓介が気持ちの良い返事をすると、顔を上げたラインはほっとしたように短く息を吐いた。
「ご理解頂きありがとうございます。女性のお客様は向かいの部屋に、アーヴィン様の家臣団の方々はアーヴィン殿下のいらっしゃいます東の塔の辺りにいらっしゃいます。やはり何か御用の際は、まずこちらでお呼び下さい。それから、明日の予定ですが、夜にあなた方へのお礼ということで、宴が開かれることになっています。それについてはまた明日、詳しくお伝えいたしますので」
ラインはそう言うと、退室の礼をして部屋を出て行った。
「ふわあ、すげえ。王宮って感じだなあ」
「そうだな」
心の中で呟いたことを啓介が口にしたので驚きつつ、修太も頷いた。
「思ってたより良い部屋をくれたよな」
「僕も拍子抜けしたよ」
「なんだ、そなたら。ばたばたと」
シークやトリトラが部屋の中をうろついては壁の絵や棚の下を覗きこみ始めたことに、さっそく長椅子にだらっと寝転んだサーシャがうろんげな顔をした。モノクルを手の中でくるくると手すさびに回している。こんなだらけた格好をしていても、見た目が金髪碧眼の貴族の青年なせいか、優雅に見えるのが悔しい。
絵を外して後ろを見ていたトリトラが、のんきな口調で返す。
「何か罠がないかなって」
「泊まるってのに怖いだろ。常識だ」
さも当然とシークも頷いている。
「安定の物騒さだな、お前ら……」
頬をひくつかせる修太だが、コウも一緒になって室内を嗅ぎまわっていることに肩の力が抜けた。
(分かった。好きにやってくれ)
「特に変わった点はなさそうだ」
いつの間に移動したのか、寝室から出てきたグレイがそう言った。
(あんたもかよ!?)
修太は思わず心の中で叫んだ。黒狼族の危機意識は本当に称賛ものだ。どこのスパイだよ、誰に狙われてんだとついつい思ってしまう修太は、もしかすると危機管理が出来ていないのかもしれない。
だが……。
(いったいどこを見てるんだ? どんな罠が仕掛けられてるっていうんだ? 絵とか棚とか。意味わかんねえ)
これが地球の現代で、盗聴器や爆弾が仕掛けられているというなら理解できるが、剣と魔法の世界だとどんな罠になるのだろう。
「師匠、こちらも見当たりません!」
「俺の方も」
トリトラやシークが勢い込んでグレイに報告した。それに対し、グレイは短く頷きを返す。
「よかった。安心してのんびり過ごせるね。シュウ、ここにお茶セットがあるから何か飲まないか?」
啓介は楽しそうに微笑んで、廊下側にあるチェストの上の茶器を示す。
「お茶……! 飲む!」
まったく気にしない啓介に呆れを覚えたものの、修太は茶と聞いてそちらに飛びついた。エルフの王城に置いてある茶だ。どんな味がするんだろう。
・アイテムメモ・
猛獣脅し
ビルクモーレの収穫祭でちらっと出てきた魔具。
クラッカーのようなもので、普通は音とエフェクトでモンスターや猛獣を脅かすのに使う。
遊び版に改良されたものは、軽い音や、星や花などの綺麗なエフェクトで場を盛り上げる。