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黒く巨大な影が空を横切った。
〈石の森〉の奥、通路から外へ出た場所にある畑や水場にいたダークエルフ達は、仕事の手を止めて空を見上げた。
分厚い雨雲がかかったのか。初めはそう思った彼らだが、影の正体を目にして愕然と棒立ちになった。
その影は、巨大な竜だった。黒い鱗を持ち、光の加減で青や緑や銀へと色合いを変える美しい目をした竜は威厳に満ち溢れている。呼吸を忘れてみとれる美しさだが、切れたナイフのような鋭さもあり、ダークエルフ達の身は冷たい恐怖に支配された。
誰か一人が悲鳴とともに逃げ出すや、それにつられたかのように、混乱が伝染していく。彼らは地下都市の入口へと殺到した。
*
あっという間に阿鼻叫喚となった現場を、サーシャリオンの背から見ていた修太は、耐えきれなくなって目を逸らした。申し訳ない気持ちで良心がずきずきと痛む。
(まあ、そりゃ、逃げるよな……)
こんなのが空を飛んでたら、修太だって逃げる。
岩壁に囲まれた空閑地からダークエルフ達が洞窟内へといなくなると、サーシャリオンはそこへとゆっくりと降りた。
翼が大きく動くたび、風が巻き起こって空閑地に生える草木を揺らす。
果たしてサーシャリオンの巨体がこの空閑地におさまるのだろうかと修太は心配だったが、サーシャリオンは器用に翼を上へと持ち上げて幅を減らし、畑を避けて綺麗に着地した。
そして、サーシャリオンは出入り口の方を睥睨し、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「ダークエルフ達よ、そなたらと話がしたい」
サーシャリオンの声が厳かに響いた。しかしダークエルフ達は隠れており、答えがない。サーシャリオンにはそれを気にした様子はなく、語りかけるように続ける。
「長・イルドネ。そなたならばどうか? 無視をすれば、洞窟へと氷のブレスをお見舞いしてやってもよいぞ?」
くくっと楽しげに笑うサーシャリオン。
(お前、神様の竜の癖して、悪役にしか見えねえぞ)
修太ははらはらと洞窟の入り口を見つめる。
グレイもそうだが、どうして悪役にしか見えない態度を取るのだろう。普通にすればいいのに。
修太はそう思いながら、洞窟の入り口を願いをこめて見つめる。
(頼むから出てきてくれ! こいつに魔法を使わせるな)
サーシャリオンが単なる脅しで言っているのは分かっている。だが、実行しないとも限らないので怖かった。
「まったく、サーシャめ。悪ふざけが過ぎる」
修太の左隣にいるフランジェスカが、小さく毒づいた。
真面目な性分の彼女だ、不必要に怖がらせることは好まないのだろう。
そんなフランジェスカに、後方にいるグレイがなだめるように言う。
「そう言うな、ケイの治療の為に必要なことだ。ただあそこからケイを助けだすだけなら、俺一人でも出来るが、治療ともなるとそうはいかない」
「ふん、グレイ殿。大きなことを言うな。あんな暗く狭い場所で、一人でどう立ち回ると?」
フランジェスカは鼻で笑ったが、興味はひかれたようで、ちらりと後方を振り返る。修太も答えが気になってそちらを見た。
「お前は知っているだろう? 催涙玉を投げ込んで、軒並み潰れてる所へ乗り込むだけだ。一度中に入って道は分かるし、俺ならケイとピアスのにおいを追える」
「ああ……あの玉か。あれは最悪だ。貴殿はにおいに弱い癖に、あれには強いのが分からん」
「あれにはにおいはない。あとは体にならしておけばいいだけだ」
「黒狼族の教育はどうなっているのだか。恐ろしい」
グレイの答えを聞いたフランジェスカは、心底嫌そうに眉を寄せ、顔を前へと戻す。修太は話の要領がつかめなかったが、フランジェスカが催涙玉というものを忌避しているのは分かった。
そんな話をしている間も、サーシャリオンはじっと洞窟を見つめている。
やがて、洞窟から灰色の髪をしたダークエルフの老人が出てきた。イルドネだ。
「ははあ、これは見事な竜だな。言葉を操るボス級モンスターが、我らに何の用だ?」
イルドネは落ち着き払った態度でサーシャリオンと向き合った。イルドネを守るように武器を手にしたダークエルフの男二人は、サーシャリオンをにらみつけている。
「我を前にして堂々としたものだな。長を務めるだけはあるということか」
サーシャリオンは感心げに呟いて、ぐっと顔を彼らの方に近付ける。そして、目を細めて笑みの形にする。
「我はそなたらに、大事な仲間の返還を要求する。もちろん、治療を終えた後で、だ」
「――仲間?」
「さよう。ケイとピアス、この二人を知っているだろう?」
サーシャリオンは口からふぅと息を吐く。冷たい吐息がイルドネの髪を瞬時に凍りつかせ、白く染まった。流石にイルドネは一瞬だけビクリと震えたが、態度は変えない。
その様子に、サーシャリオンは楽しそうに笑いを零す。
「くくく、エルフには頑固者が多いが、そなたは中でも石頭そうだ」
「私はダークエルフだ。あのような軟弱者どもと一緒にするな」
イルドネは不愉快そうに顔をしかめ、低い声できっぱりと言った。それから、怪訝な顔になる。
「何故、モンスターがあの人間達の返還を求める?」
「それは簡単だ。我は彼らの仲間だ。昨日、そなたとも対面していたよ」
「昨日? ふざけたことを。君のような竜はいなかったがね」
「そなたがはぐれと呼んでいたダークエルフが我だよ。そういう姿をとっていただけだ」
そこでサーシャリオンは表情を冷たくさせて、イルドネに言い付ける。
「四の五の言わず、ケイらを連れて参れ。約束通り、魔女は追い払い、薬草を集めてきた。シューター、渡してやれ」
「はいはいっと!」
修太はサーシャリオンの背中から下り、サーシャリオンの頭の方に向かう。後ろから剣を手にしたフランジェスカもついてきた。イルドネの前まで来ると、修太は旅人の指輪から薬草の花を取り出す。
イルドネは修太とフランジェスカを目にとめて、金の目を驚きにみはる。
「はい、これ。約束の品。治療薬を作ってくれ」
修太はイルドネの様子に罪悪感じみたものを感じつつも、啓介を守る為だと言い訳することで納得する。そして、腕いっぱいに抱えた花をイルドネに差し出した。イルドネはそれを一瞥したものの受け取らず、代わりに背後の護衛の男が受け取った。
「――フォーンにこれを渡せ。それから、あの人間達を呼んできなさい」
「承知しました、長」
男は恭しく頭を下げ、すぐに洞窟へと姿を消す。
「確かに昨日の者らであるようだ。しかし、人の姿をとるモンスターがいるとはな……」
イルドネは歯噛みして言った。彼の後ろにいるダークエルフは、不安げな顔付きになっている。
ただでさえモンスターは脅威なのだ。それが人の姿をとるという事実は不安要素のなにものでもないだろう。
『ああ、安心するがよい。ここまで姿を変えられるモンスターは我くらいのものだ』
「……そうか」
眉を寄せたまま、短く答えるイルドネ。
修太は、近くで見て初めて、イルドネの杖を持つ手が震えていることに気付いた。長であるという手前強がっているだけで、本当は竜の巨体を前にして怖いのだろう。
(怖がらない方がおかしいか……)
世の中、啓介みたいな変人ばかりではないのだ。
修太はそのことに安心して、うんうんと一人頷いた。
そこへ、ラフィオラに連れられた啓介とピアスが現れた。
「長! 二人を連れてきま……ぎゃあああ! 竜!」
事態がよく分かっていなかったのだろう。洞窟から出てきたラフィオラは、そこで初めて竜体をとるサーシャリオンを見つけて悲鳴を上げた。へなっとその場に座りこんでしまう。
「あー、やっぱりそうくると思った。サーシャのその姿を見るのは久しぶりだなあ。相変わらず格好いいよ!」
啓介が楽しげにへらへらと笑う横で、ピアスは青い顔をして、啓介の背中に隠れた。
「さ、サーシャなの? なんというか……すごく……怖いわ。ごめんなさい」
若干涙目のピアスを、啓介が振り返る。
「大丈夫だよ、ピアス。な、サーシャ」
「その通りだ。そう怯えるな、ピアス。ケイ、褒め言葉ありがとう。そなたは本当に良い奴だ。面白くて変わっているから尚のこと良い。シューターもだ」
「サーシャ! 俺も含めるんじゃねえ! その評価は断固拒否する!」
黙っていられず、修太はサーシャリオンを振り返って怒った。だが、それをイルドネに肩を掴まれて止められた。
「やめないか! 刺激するでない!」
「あ、ああ……。悪かった。大人しくするから」
修太はサーシャリオンに慣れているが、彼らには竜は恐怖の対象でしかない。修太の態度は、竜を怒らせる起爆剤になりえるように映るんだろう。すぐに理解した修太は謝って、イルドネから三歩離れる。
「――少年、治療薬は今作らせている。それを飲んだら、ただちにこの地を去ると誓ってくれないか」
イルドネは啓介と向き直り、冷静に言う。サーシャリオンが目の前にいるせいか、言葉遣いが昨日よりも少し丁寧なものになっている。
「ほう。あのバサンドラをけしかけてきたりはせぬのか? つまらぬなあ」
「私はこの集落の命を預かる身。そんなバカな真似などせん。そんなことをしても、氷漬けにされるか一飲みされて終わるだけだ」
イルドネはサーシャリオンにそう返すと、再び啓介を見た。無言の問いかけに、啓介は答えを返す。
「もちろん、すぐにここを立ち去りますよ。ですが、薬が出来るまで時間があることですし、その間、バサンドラで実験をしている理由を話してくれませんか?」
啓介は真面目な顔で頷いた後、提案をした。イルドネは目を細める。
「それは脅しかね?」
「まさか、ただの提案です。それに無事に戻ってきたら、褒美に教えるって言ってたじゃないですか」
あくまで啓介は穏やかな態度を崩さない。にこにこした笑みを浮かべる様子は場の緊張感を削ぐのに充分で、イルドネは毒気を抜かれた様子だった。
やがて、一つ溜息を吐く。
「――よかろう。まったく、お前を相手にしていると調子が狂うな。ラフィオラ、いつまでもそこに座っていないで、ロノと椅子を運んできてくれぬか? 彼らの分もだ」
「ひゃ、ひゃいっ!」
へたりこんでいたラフィオラは慌てて返事をして噛み、真っ赤になって口を押さえ、素早く立ち上がると洞窟内へと駆けていった。