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――地下集落〈石の森〉、洞窟住居の一画。
「はあ、本当に夜の間だけ苦しいんだな……」
だるい体を起こした啓介は呟いた。
朝になると、昨日の夜の間ずっと続いていた症状がピタリと消えていたのだ。
煮えたぎる泥水に放り込まれたような体の火照りや、頭痛と胸やけが何も無かったかのように。まるで夢のようだが、上半身を起こした時に膝に落ちた布で現実だったと分かった。
(ピアスが来てくれたの、夢じゃなかったんだな……)
湿った布を右手でつまみ上げ、やはり濡れた感覚のある額に左手を触れる。寝る前にはこんな布はしていなかった。
うなされていたのを聞きつけたのか、気休めだが少しはマシになるようにと言って、〈青〉の治癒魔法を使ってくれたことを思い出した。ピアスは〈青〉と〈赤〉のハーフで、効果の弱い魔法しか使えないが、それでも随分体調が良くなった。気分が悪くてなかなか寝付けなかった啓介が、朝まで眠る程度には効果があった。
曖昧な記憶を引っ張り出したところで、ふいに恥ずかしくなった。ベッドの上でうなだれる。
(ピアスの前では、あんまり格好悪いところを見せたくないんだけどな)
啓介が溜息を吐いていると、控えめなノックの音がした。返事をすると、ピアスが扉を開けた。
「おはよう、ケイ。調子はどう?」
「おはよう。うん、夜の間が嘘みたいに元気だよ」
「そう、良かった。ここに手桶と布を置いておくから、身体を拭いた方が良いわ。随分汗をかいてたみたいだし」
「ありがとう。……それと、夜中も看病してくれてありがとう」
「いいのよ、私、看病する為にいるんだから。気にしないで」
ピアスは全く啓介を気負わせない気軽な態度でそう言って笑うと、ひらりと手を振って扉を閉めた。
ピアスの優しさが身に沁みて、啓介は感動のあまり呆けてしまった。
(優しいなあ。この世界に来たことより、ピアスに会えたことの方が奇跡に思えるよ)
運命の数奇さを面白く思う反面、感謝の気持ちが胸に膨れ上がる。
啓介はしみじみとありがたさを噛みしめながら、手桶を拾う為にベッドを下りた。
「どう? 夕飯を抜いておいて正解だったでしょう?」
ラフィオラは登場するなり自慢げにそう言った。
昨晩、啓介はラフィオラの忠告に従って、食事を抜いてベッドに入ったのだ。夕飯を食べていたら悲惨だっただろう。
花紋病が進行すれば、この苦痛の時間が増えていくのだと思うと、この病気で亡くなったダークエルフ達の心痛もよく分かる。病気をしている本人はもちろんのこと、看病する者も辛いだろう。
「うん、ありがとう。本当に助かったよ」
啓介が心の底から礼を言うと、ラフィオラは笑みを返す。
「どういたしまして。お前はあのチビガキと違って素直で良いわね」
「あはは、シュウだって世話になればお礼くらい言うよ」
昨日の修太とラフィオラの会話を思い出し、啓介は苦笑した。
「どうかしらね」
ラフィオラに信じた様子はなく、部屋へと入ってくると、持っていた盆をテーブルに載せた。
「こっちは朝食よ。それとこれも」
ラフィオラは運んできたポットとコップ、果物の入った籠とスープ入りの器が二つ示した後、白い糸が入った瓶を指先で持ち上げた。
「何これ?」
啓介が問う横で、ピアスが眉を吊り上げる。
「ちょっとラフィオラさん、どういうこと! 彼は病人よ!」
「え? ピアス?」
ピアスが怒り始めたので、啓介は意味が分からずきょとんとする。ラフィオラはピアスをじろりと見た。
「ただで泊めるわけがないでしょう? 対価にこの少年の血を少し分けてもらうだけよ」
「私達は魔女の討伐を交換条件に、命の安全を買ったはずよ。シューター君達が戻るまで、そちらに私達を傷つける権利はないわ」
「甘えたこと言わないで。我々は人間なんか嫌いなの。お前達を殺すことはいつでも出来るわ。確かに私達はお金を手に入れないといけないけど、それだけが理由じゃないわ。仲間に変な手出しをさせない為には、この少年に付加価値を付ける必要がある」
「三日経つまでは譲らないわ!」
「頭固いわね!」
ラフィオラとピアスが睨みあう横で、啓介は意味も無く二人を見比べている。完全に置いてきぼりをくらっている。
「あのー」
右手を挙げて口を挟むと、二人が同時に振り返った。
「なに!」
「なによ!」
あまりの剣幕に、啓介は「ひっ」と喉の奥で短い悲鳴を上げた。二人とも顔が整っているので、怒りをあらわにしていると迫力がある。
「糸を入れた瓶だけで、何をそんなに言い合ってるのか教えて欲しいんだけど……」
冷や汗をかいてしまったが、疑問を解消しないことにはなだめようがない。
ピアスは眉を寄せ、明らかな不機嫌顔で説明する。
「血染めの糸よ」
「え?」
「だから、ケイの血を使って糸を染めて、それで魔法陣を縫うってこと! ケイは昨晩あんなに寝込んで体力を消耗してるのに、血を奪おうなんてどうかしてるわ!」
「身の安全の為だと言ってるでしょ、石頭ね」
ラフィオラが一言皮肉を付け足したせいで、ピアスはかちんときたようだ。言い返さないで無言のままラフィオラを睨む。
啓介は二人の言い分を飲み込むと、まずピアスの方を向いた。
「ピアス、ありがとう」
「えっ?」
虚を突かれた様子で、ピアスが啓介へと視線を向けた。
「心配してくれてるから怒ってるんだろ? でも今回はラフィオラさんの提案に乗ろうと思うよ」
「……何で?」
むすっとした顔で、けれど声のトーンは冷静にして問うピアス。啓介は落ち着いた態度で説明する。
「俺に付加価値を付けて身を守るっていう案は賢いと思うよ。何かあった時に俺に価値がある証拠が必要だから、それを作る分には協力しようと思う。――ただし、ラフィオラさん、今回だけだ」
啓介はラフィオラにきっぱりと言った。今度はラフィオラが怪訝そうにする。そして視線で続きを話すように催促するので、啓介は何でもないことのようにあっさり返す。
「証拠は一つあれば十分だろ? 修太達が戻るまではそれで足りるはずだ」
「戻らなかったらどうする?」
流れを啓介のペースに持ち込んだのが不満なのか、ラフィオラは僅かに目を逸らして問う。
「そんなことは起きないから大丈夫だよ」
啓介はにっこりと笑い、能天気な返事をした。
「だって君達がはぐれと呼んでるサーシャは、モンスターの王様だから」
「――は?」
ラフィオラが間抜け顔になる。頭は大丈夫かというように、啓介をじろじろと見てきた。
「ちょっと、ケイ」
ピアスが安易な暴露を咎め、啓介の左腕を掴んだ。啓介は悪戯が成功したような気分で、豆鉄砲をくらった鳩のような顔をしているラフィオラに、人差し指を口元に当てて、内緒だという仕草を向ける。
「サーシャを怒らせるとこっわいよー。パクッと一飲みしちゃうかもね」
黒い竜の姿をしたサーシャリオンを思い浮かべる啓介。サーシャリオンの真の姿は綺麗で格好良いが、研ぎ澄まされた氷のような威圧感は見る者に少なからず恐怖を与える。
(また見たいな)
ピアスが聞いたらとんでもないと怒りそうなことを内心で呟き、啓介は瓶を盆から取り上げる。
「ラフィオラさん、ナイフ持ってないかな? 痛いことは早めに終わらせておきたいんだけど」
「貸すのは構わないが、それで私に危害を加えるなら……」
「そんな真似しないから貸して」
啓介はラフィオラの言葉を途中で遮りナイフを借りると、左腕を軽く切って血をにじませ、そこに糸を押し当てた。絹のような細い糸が、瞬く間に血を吸って赤く染まり、斑模様をえがいている。それを瓶に仕舞うと、ラフィオラに手渡した。
「自分の血だと思っても不気味だね。引き取りよろしく」
「……ああ」
相変わらずの怪訝顔のまま、ラフィオラは頷く。そして、神妙な顔つきになり、ピアスに言う。
「人間の娘、こいつは昨晩の熱でだいぶ頭をやられたみたいだね。後でデザートを追加してあげるよ」
あからさまに憐れんだ目をしたラフィオラは、瓶を手に家を出て行った。
「――ケイ、笑ってる場合じゃないわ。あなた頭がおかしいと思われたみたいよ?」
「くく、あはは! それ、シュウにもよく言われる」
「シューター君に同情するわよ、あたし」
腹を抱えて笑っている啓介を一瞥し、ピアスが呆れたように言った。そして、ピアスは鞄から取り出した道具で啓介の腕の手当てをした。
「あ。ありがとう、ピアス」
礼は言ったものの、啓介はまだ笑っている。流石にピアスは理解しがたいという表情をした。
「何がそんなにおかしいの?」
「だってラフィオラさんのあの顔、見た? 不意を打たれた鳩みたいだったよ」
「ハト? 馬鹿なこと言わないで、ハトはもっと醜悪で恐ろしいモンスターでしょ? あんなに可愛らしくないわ」
「え?」
「?」
啓介はきょとんとして笑い止む。
何か話に齟齬があったようだが、よく分からなかったので流すことにした。ピアスの関心はすでに朝食へと移っており、問いただす暇がなかったのもある。
「朝ご飯にしましょ。――でも食べる前に訊くわ。何でラフィオラさんにサーシャのことを言ったの?」
促されるまま食卓に着いた啓介は、首を傾げる。
「え? だって、サーシャだから」
「……はい?」
啓介の中では、きちんと理論立ててあの言葉を口にするという結論に至ったのだ。それを一言で表したが、ピアスには伝わらなかったようで、ますます怪訝な顔になった。
「サーシャはイルドネさんと言い合う程度には苛立ってた。イルドネさん達は修太達が死ぬと思ってる。それとここは狭い。俺達は人質みたいにここにいる。その上、敵の本拠地ど真ん中。――だからだよ」
「ごめん、ケイが何を言ってるのかさっぱり分からない」
まだ説明が足りないようだ。
「そうだなあ。簡単に言うと、サーシャが、この面白くない状況で、面白くて満足することをしないわけがないってこと。パスリルの王都を出た日のことを思い出してみなよ」
「分かったような分からないような」
「まあ、ただの予想なんだけどね。――敵地ど真ん中で、人の姿をしていると狭くて暴れにくいけど、ぎゃふんと言わせて俺らを安全に連れ戻すっていうこと考えると……」
「だから竜の話を出したの? 嘘でしょ!?」
やっとピアスにも伝わったようだ。
「力にはそれを上回る力でねじ伏せた方が効率良いよ。心を折れば抵抗する気が失せるだろ? ――お、この果物おいしいよ」
桃に似た果物にかぶりついた啓介は笑顔になる。
そんな啓介をまじまじと見たピアスは、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「私、ケイと親友やってるシューター君を本気で尊敬するわ。ケイって敵に回したら面倒くさそうだけど、仲が良くても厄介そう」
「そう? そんなこと言われたの初めてだ、新鮮で嬉しいよ」
啓介が素直に礼を言うと、また溜息が返る。
「そういうとこよ、そういうとこ」
「……?」