第二十七話 深淵より愛をこめて 1
乳白色の霧が立ち込め、じっとりと湿った空気が漂うその場所に、白い花が咲き乱れる花畑はあった。
そんな中、霧に隠れるようにして、蝶が二匹、白い羽を休めていた。大きさは小さな家程はある。羽から雪のような鱗粉が時折舞い飛び、霧に差し込む僅かな光に触れて、キラキラと輝いた。
現と夢のあわいのようなその場所に、魔女の甲高い笑い声が響く。
「あはは、素晴らしいね、君達」
彼女は蝶の傍らに座りこんでいた。足元に置いたトランクを机代わりに、羊皮紙にペンを走らせながら、調子の外れた鼻歌を歌う。
「君達の鱗粉は毒になるのに、死骸からは特効薬になる花が咲くのだね。面白いなあ」
眼鏡の奥の青い目を爛々と輝かせ、彼女はペンを手放して、花畑にごろりと寝転がった。まるで真っ白な紙に落ちた黒いインクのように、艶やかな黒髪が広がった。
「ああ、楽しい。それにここは居心地が良い。最高だ」
彼女は目を細め、霧にかすんだ青空を眺める。
「もっと、もっとだ。もっと知りたい。次はどこに行こう? なあ、君達。探究心とは泉のようだと思わないかね? 知れば知る程、もっと知りたくなる。まるでこんこんと湧きつづける泉のようだ」
くすくすと微笑む彼女の周囲には、たくさんの羊皮紙が散乱していた。彼女が書き散らした研究成果の一部だ。
彼女はふと視線を横に向け、目にとまった花を手すさびに摘み取った。そして、指先でくるくると花頭を回す。
「薬効があるのなら、毒にもなるということだよ。毒を薄めれば薬になることと同じでね。君らはこれが何かの毒になると思うかい?」
蝶に話しかけたが、蝶たちはゆっくりと羽を動かすだけで答えない。
「分からないかい? ううん、いいんだよ。分からなくても。いいかい、分からないことが多い方が、世の中は面白いものなんだ」
彼女は楽しげにつぶやいた。そしてふいに顔を上げる。
「おや?」
半身を起こし、きょろりと周りを見る。不思議そうにした後、再び楽しげな笑みを唇に乗せた。
「おやおや、この気配は……。面白い客が来たようだ。姉様達に会うのはいつぶりだろう?」
彼女は少し考えて、結局思い出せず首を傾げた。
「十年? 二十年? いや、五十年ぶりだったかな。まったく、悠久を生きる身には時間の感覚はよく分からないね。研究するには都合が良いが」
そう結論づけるや、彼女はのそのそと動きだし、周囲に散らばる羊皮紙を集め始める。
「片付けて、見栄えを良くして迎えないとねえ。姉様は身なりにうるさいから」
*
まだ薄暗い早朝。
修太達は双子山脈の間を流れる川沿いに、上流へと歩いていた。昨夜は目的地に着く前に日が沈んだ為、山中で野宿したのだ。
やがて辺りが完全に明るくなった頃、問題の魔女がいるという岩場に辿り着いた。ロノが崖の上を指差す。
「ここを越えた先に魔女がいる」
崖より上だけ、不自然に霧が漂っている。川の上流にある小さな滝のせいとはとても言いきれない濃さだ。
(まるで雲が下りてきて、あそこで留まっているみたいだ)
修太は心の中で呟いた。あれが〈奇跡の霧〉だと初めに聞かされていなければ、奇妙な場所という感想だけで終わったかもしれない。
「ここから先はお前達だけで行け」
ロノは冷たく言った。
「この辺りはすでに雪花蝶の生息域だ。大きな白い蝶を見つけたら鱗粉を吸い込まないよう、物陰に隠れるんだな。――それから、お前達が三日経っても戻らなかった時は、死んだと判断する」
そこまでを一方的に言うと、ロノは右手をひらりと上げた。
「じゃあな。武運を祈る」
そして、仲間とともに来た道を戻っていった。
二人の背中が遠ざかるのを眺めながら、修太は皮肉を呟く。
「死亡判定までしてくれるなんて、本当に親切だな」
「ふん、余計なお世話というんだ、ああいうのは」
フランジェスカがそう返し、腰に下げた長剣の確認をする。そしてグレイとともに、戦闘の邪魔になる荷物を崖のすぐ下にある岩場に隠した。もし上ではぐれても荷物を回収出来るよう、修太には預けないらしい。
彼らの用心深さに感心を覚えながら、修太は足元に座るコウを見る。
「コウ、元の大きさに戻れ」
「オン!」
コウは返事をして、その場でぐぐっと前足を突っ張って伸びをした。すると、中型犬から大型の狼へと姿が変わった。
(何回見ても、変な光景)
凡人である修太の頭だと、コウの肉体の変化は、回数を重ねたところで見慣れず、奇妙な気分になる。
それはさておき、修太はコウに言い含める。
「危なかったら逃げるんだぞ? いいな」
「そうだ。シューターを連れて逃げるのだぞ?」
すると修太の言葉尻に乗せて、サーシャリオンが付け足した。コウは修太とサーシャリオンを見て、一声吠えて返事をした。任せろと言いたげに、黄橙色の目を輝かせる。
「うん、まあ、それでいいけど……」
コウは自分だけ逃げる真似はしないように思えるから、修太は言い聞かせるのを諦めた。そっちの方が面倒くさい。
「よし、とりあえずこちらは準備が出来た。他の皆はいいか?」
修太が仲間を振り返った時、突然襲った浮遊感に、修太は目を剥いた。
「うおわ!?」
サーシャリオンが断りなく、修太を右肩へと担ぎ上げたのだ。事態を飲み込むや、修太は当然のように抗議の声を上げる。
「何すんだよ、サーシャ!」
「何とは? こっちの方が速いだろう。ほら、フランジェスカも」
「は? 待て! わあ!?」
フランジェスカの悲鳴も増えた。サーシャリオンの左肩から下ろせと騒ぐフランジェスカを無視し、サーシャリオンはグレイを一瞥する。視線の意味に気付いたグレイは、即座に首を横に振った。
「俺は遠慮する」
「そうか。そちらはどうだ? 後で運んでやろうか」
サーシャリオンの問いかけに、トリトラとシークも続いて首を横に振った。
「僕も必要ないよ」
「俺もだ」
「オン!」
コウもまた、いらないよと言わんばかりに吠えた。
サーシャリオンは「遠慮しなくていいのに」と不思議そうにしたが、すぐに考えを切り替えて、岩場へと向き直る。
「では、一足先に上に行く」
「おう」
グレイが右手を軽く挙げて答えると、サーシャリオンは勢いよく地面を蹴った。五メートルはあるだろう崖を、ジャンプだけで一気に登った。その肩から、フランジェスカが怒りをこめて叫ぶ。
「うわああ、お前達、この裏切り者ーっ!」
「何言ってんだ。俺達がそいつに担がれるのは、絵面的にきついだろうが」
グレイの心底気持ち悪そうな声が、修太の耳にかすかに届いた。確かに彼の言う通りだ。
一足先に崖上に着いた修太は、ようやく地面へ下ろしてもらうと、渋々サーシャリオンに礼を言った。そして遅れて合流したグレイ達と、霧の中へと足を踏み出す。
「霧が深すぎて、何にも見えねえな」
修太は周囲を見回し、一人ごちた。地面はところどころ苔が生えた岩で覆われており、滑りやすい。足元に気を配りながら慎重に先へ進む。五分程歩くと、足に伝わる感触が変わった。かかとが踏んでさくっと音を立てたそれは、白い花と濃い緑の葉っぱの群生だった。
(これ、もしかして例の薬草か?)
修太はサーシャリオンに聞こうと顔を上げる。
「なあ、サーシャ……」
その時、まるでカーテンが引かれるように、風も無いのに霧がさぁっと晴れた。
そして姿を現したのは、視界一面に広がる白い花畑だった。荘厳な景色に修太は息をのむ。だが、感慨にふける暇は無かった。
「おやおや? これは意外なお客様だねえ。ガーネット姉様の気配がするのに、来たのは人間かい? どうなっているんだろう」
地に伏せる二匹の巨大な蝶の間に立った女性が、不思議そうに首を傾げながらそう言った。
彼女は二十代ほどに見えた。胸元まで伸びる癖のついた黒い髪と、白い肌をした小さな顔は整っており魅力的な女性に見えたが、丸眼鏡の向こうの大きな青い目は、警戒心でギラギラと光っていて近寄りがたい雰囲気をしていた。彼女は銀糸で刺繍が施された青と紺色の地のワンピースを着て、肩に白衣に似たコートを引っ掛けている。それが更に研究者か学者のように見え、独特の空気を作り出していた。
すらりと抜いた長剣を構え、フランジェスカが女性へ鋭く問う。
「お前が薬草のある花畑を独占しているという魔女か?」
「ん~? 確かに私は魔女だよ。正確には探究者かな? 研究者でもいいね。時には賢者と呼ばれることもある」
顎に手を当て、のんきに考えこみながら、女性はそう返した。そして、ふとサーシャリオンを見て、「おや!」と声を上げた。
「これはこれは、クロイツェフ様ではないですか。あなたにあいまみえる日が来るとは意外だな。私はあちこち転々としているのに対して、あなたは氷のダンジョンに引きこもってましたから」
そこで女性は、舞台に上がった役者のように、大袈裟な動作でお辞儀をした。
「お初にお目にかかります、私は〈宝石姉妹〉が一人、三女の青石の魔女ことサフィと申します」
女性の名乗りに驚いた修太は目を瞠った。
(青石の魔女だって? 深い所にいるんじゃなかったのか?)
以前、ガーネットが言っていたことを思い出して疑問を覚えたが、すぐに「深い所にいる」という言葉の意味に気付く。
(“地中の深い所”じゃなくて、“霧深い所”にいたってことかよ)
予想の斜め上をつく答えだ。
「確かに初めまして、だな」
サーシャリオンはサフィを見据え、気安い態度で右手を挙げて挨拶したが、すぐに腕を体の前で組んだ。その目には、サーシャリオンが敬愛してやまないオルファーレンの断片への親愛はなく、不審の色がにじんでいる。
「そなた、ダークエルフへ危害を加えているらしいな。〈宝石姉妹〉は、教え導く存在。その特性上、相手が罪を犯したのではない限り、直接的な危害を加えることは、オルファーレン様より禁じられているはずだ。いったいどうやった?」
「ああ、簡単ですよ。私自身は手を下していませんから。手を出したのはこの子らで、他はちょっと足場が崩れたせいだ。罠に引っかかった彼らのミスに要因がある」
サフィは雑談でもするような態度で、平然と答えた。眉を寄せたサーシャリオンは、冷静な態度で更に問う。
「何故、手を下した?」
「え? 私の研究の邪魔をするから、静かにしてもらっただけですよ? 言葉で言っても分からないようだったので」
あっけらかんと答えるサフィには、悪意がまるでなかった。そのことが修太には不気味に思える。
(なんだこいつ、おかしい)
普通に話しているはずなのに、まるで話が通じていない。
頭痛を覚えたのは修太だけではなかったようだ。前触れもなく空気からにじみ出るようにして姿を現したガーネットが、柔らかい口調ながら眉を吊り上げて怒った。
「もう、サフィちゃん! あなたいったいどうしちゃったの?」
〈宝石姉妹〉の長女であり、サフィの姉でもあるガーネットは、この遣り取りを聞いて、封印の本の中でじっとしていられなかったようだ。
「おや、姉様。どちらにいらっしゃったので?」
サフィは不思議そうに首を傾げる。
「使徒様の封印の本の中よ。あなたのことも探していたの」
「封印の本? ああ、道理で気配はあるのに姿は見えないと思った」
合点がいったと頷くサフィ。自分のペースさを崩さないサフィの方へ、ガーネットは詰め寄る。
「どういうことなの? 人や妖精達を意味も無く殺すことは、道義に反するわ。わたくし達には理がある。それを崩せば、あなたもしっぺ返しをくらうはず。あなたは彼らを殺すことで、何を失ったの?」
「何をそんなに怒ってるんだい、姉様。大丈夫だよ。ここで私が数人殺したくらいで、妖精が絶滅なんてするものか」
「今はそんな話をしているのではないわ、サフィ!」
ガーネットの剣幕がすごい。普段は穏やかなので怖さが引き立っている。突如始まった姉妹の遣り取りを、修太達は口を挟めず傍観していた。
その一方で、修太は若干の混乱とともにサーシャリオンを見上げる。ダークエルフ達をおびやかす魔女が〈宝石姉妹〉の一人で、その女性はどこか思考がおかしい。だが元からこうでなかったようなのは、ガーネットの態度から分かる。
「サーシャ、どういう状況だよ、これ……」
「彼女達の力は大きい。だからその分、ある程度の禁止事項を持っている。守らなければその身に手痛いしっぺ返しが来る決まりだ。例えば、彼女達は人を呪うことは禁じられている。それがどんな結果を及ぼすか、そなたらは知っているはずだ」
サーシャリオンの説明を聞いて、修太達は無意識にフランジェスカを見た。フランジェスカを呪った緑柱石の魔女エメラルディアは、顔だけが老いるという代償を背負うことになったのだ。
「私は直接殺していないんだよ、姉様。間接でも多少の意思は持つから、ちょっと火傷をする程度だ。それもすぐに治る」
サフィはやんわりとガーネットの手を握り、微笑んだ。
「だから心配しなくて大丈夫だよ」
「そういう話ではないのよ、サフィ!」
ガーネットの顔が悲壮に歪む。
「あなたも心が病んでいるのね。……トルファだけね、何もなく無事なのは。あの子は属性が大地だから、森の中にいるだけで存在が安定するもの」
ガーネットはサフィの左手を掴んだ。
「あなたもいらっしゃい、サフィ! トルファちゃんが戻るまで、一緒に本の中で眠るのよ」
「嫌だよ」
サフィはその手を勢いよく振り払う。眼鏡の奥で、青い目が異様な輝きを帯びて光りだした。
「私はね、まだまだこの世界から知りたいことがたくさんあるんだ。眠るなんてとんでもない。封印なんてもっと嫌だよ。知り尽くすには時間は幾らあっても足りないんだ!」
そして、サフィは敵意をこめてぎろりとガーネットを睨む。
「何で邪魔するんだい、姉様。私はただ知りたいだけだよ」
そして大きく溜息を吐き、不満を口にする。
「何でそう、人間といい妖精といい、彼らは身勝手なんだろう。知りたいことがあれば私達を頼りにするくせに、私が知りたいことの邪魔はするのだから」
サフィが怒りを蓄えているらしいのは、傍観者にすぎない修太にも見て取れた。噴火寸前の緊迫感がある。
そんなサフィの怒りに呼応して、薄れていた霧が深みを増した。視界が濃い乳白色の霧に覆われて何も見えなくなる。
「サフィちゃん!」
霧の向こうで、ガーネットの叫び声がした。
次にドンッと何かの爆発音がして、地面がわずかに揺れる。
「そこで大人しくしててよ、姉様」
更にサフィの困ったような声がした。
このままだとサフィに逃げられる。そう思った修太が霧の向こうに怒鳴った。
「おい、待て!」
だが、意外にもすぐ右隣から返事があった。
「うん、なあに?」
「へ?」
唖然と右を見た修太は、それを理解するより先に腰を引き寄せられて体勢を崩した。同時に、ぶんっと風を切る音が頭上で聞こえた。
「うわっとぉ! あはは、危ないですよ、クロイツェフ様。彼に当たったらどうするんですか?」
「失礼な。きちんとそなただけ狙った」
修太には何が起きたか分からないうちに、再び霧が晴れ、隣にいるのがサーシャリオンからサフィへと変わっていた。修太は目と口をあんぐりと開き驚きを露わにする。
(え!? なんだ、今、何が起きた!?)
まるで飲み込めないが、顔の前にナイフが突きつけられていることに気付き、無駄に動くのはやめた。そのまま視線をさまよわせると、今にもぶち切れそうなサーシャリオンと目が合った。
そんなサーシャリオンをなだめるように、サフィは言う。
「はいはい、この子に怪我をして欲しくなかったら動かないで下さいね」
「青石の魔女、そなた、我に喧嘩を売ってただで済むと思っているのか?」
「あなたには売っていません。姉様に大人しくして欲しくて……」
弱ったような声でサフィは言い、ちらりと左を見た。修太もそちらを見ると、氷に閉じ込められたガーネットが、体の周囲に炎を纏って氷を溶かして脱出したところだった。
「サフィちゃん! もうっ、喧嘩になると相手を氷漬けにする癖は治しなさいって言ったのにっ」
ガーネットは腰に手を当て、いかにも怒ってますという口調で言った。
彼女の長い赤茶色の髪は、髪の半ばから先だけが今は炎の姿をとっていた。パチパチとはぜる音とともに、炎は次第に元の髪へと戻っていく。
迫力がある見た目だが、ガーネットの態度があくまで穏やかなので、いまいち緊張感に欠ける光景だ。
(それでいいのか……?)
氷漬けにするなの一言だけでいいのか、修太には激しく理解不能だった。
「あいたっ!」
ふいに修太の首元でバチッと音がして、サフィが舌打ちするのが聞こえた。彼女は痛そうに左手を振っている。
「なんだ、この本って誰でも触れるわけじゃないのか。まあ、そうだよね」
その言葉から察するに、封印の豆本を掴もうとしたようだが、本の持つ未知の力で防がれたようだ。
「ちぇー、これが無ければ私はずっと自由でいられると思ったのに。残念。――おお!」
「いてっ」
がっかりとうなだれた姿勢から一転。サフィは何かに感動したように、修太の額をぐっと後ろに押した。修太はのけぞって目を瞬く。それを上からサフィが覗き込んだので、深く澄んだ青い目を視線がかちあった。
(首痛えし、近い!)
眉をひそめる修太にはお構いなしに、サフィはまじまじとこちらを観察する。
「君、〈黒〉か。今回の使徒様は異世界人だとは聞いてたけど、普通の人間と変わりないんだね。黒曜石のようで綺麗な目だね」
サフィは純粋な知的好奇心で目を輝かせ、修太を褒めた。その目には何の悪意も潜んでおらず、修太はどうにもサフィに敵対心を抱きにくくて困った。
「あのさ、ナイフが怖いんだけど」
ただ、これだけは主張しておきたかったので、両手を上げた格好で申告する。サフィは苦笑を返したものの、ナイフをどけようとはしない。
「あー、ごめんねー。ほら、怖いお姉さんとかお兄さんが周りにいるからさぁ。大丈夫大丈夫、命をとる真似はしないから! 私、まだ自由でいたいんだ。だから逃げる手助けしてよ」
サフィの言う通りだ。ガーネットは自身の周囲に炎を浮かべているし、サーシャリオンは冷気をまとった笑みを浮かべて今にも実力行使に出そうだし、他の者は武器を構えている。人質の修太でさえ身震いする光景だ。
(確かに怖いお姉さんとお兄さんだけどさ……!)
だからといって、何故そこで修太を選ぶのだろう。修太の不満を読み取ったのか、サフィがなだめるように言い訳する。
「君が断片の使徒なのが悪いんだよ。それに、子どもを人質にした方が効果的だもんねえ、あははは」
「うわあ、快活に極悪人の台詞を言ったよ……」
ここまで突き抜けられるといっそ清々しい。
修太は遠い目をして、この後の状況がどうなるのかと静観することにした。実際はそれ以外に選択肢がないだけだが。
「殺しはしないんだけど、せっかく〈黒〉と会えたんだ、君、私にちょっと血をくれないかな?」
「は?」
サフィの問いかけに、顎を押さえつけられたまま、修太は瞬きをする。
「常に気を張っていないと闇堕ちしそうでねえ。疲れるんだよ」
「何、天気の話みたいに言って……。それと俺の血が何の関係が? いってえええ!」
左手の平に走った鋭い痛みに、修太は思わず声を上げた。サフィがなんとも気軽な態度で修太の左手の平にナイフの刃を滑らせたのだ。
痛みで手の平が熱を帯び、顔をしかめた修太は、それ以上に驚くことが起きて硬直した。
サフィがその左手の平を、べろりとなめたのである。
「な、な、な、なめ……!?」
相手が綺麗な女性でも、衝撃的な出来事だ。
「んー? おいしくはないね!」
サフィは可愛らしく小首を傾げ、きっぱりと言い放った。
(いや、不味いに決まってるだろ!)
修太は心の中で激しく突っ込んだが、驚きすぎて声が出て来ない。鯉みたいに口をパクパクさせ、血がしたたり落ちる手の平を呆然と眺める。
更に、サフィが再び傷口をなめた。
言葉が出ない代わりに、修太は暴れた。気持ち悪さに腕に鳥肌が立っている。
「ちょっと暴れないでよ」
迷惑そうにサフィが言い、それにぶち切れ、ようやく声が出た。修太は思い切り怒鳴る。
「気持ち悪い! 離れろよ、このクソ女!」
「うっわ、失礼なガキンチョだねえ。こんな美人になめられるなんて経験、そうないよ? 君の平凡顔じゃあ一生ないんじゃない?」
「うるせえ、余計なお世話だ!」
聞き捨てならない台詞だ。修太は憤慨して悪態を返す。するとサフィも腹が立ったようで、息巻いて言い返してきた。
「私だってねえ、他人の血なんか摂取したくないんだよ! 気持ち悪い! 仕方ないだろ、闇堕ちを防ごうと思ったら、〈黒〉の血を飲むのが一番効率が良いんだからっ。それとも何? 君がずっと私の傍にいて鎮静の魔法を使ってくれるわけ!?」
「するわけないだろ! 闇堕ちが嫌なら、〈白〉に頼んで毒素を浄化してもらえばいいだろうが! というか、俺の方が気持ち悪い!」
修太はナイフを遠ざける為に、ナイフを持つサフィの右手首を外側へ向けて押しながら、サフィから血まみれの左手を取り返そうともがく。完全に揉みあいの様相になってきたところに、ガーネットが頬を赤くして呟く。
「あらあら、もう、サフィちゃんたら。はしたない……っ」
「そういう問題か?」
おろおろする彼女に、フランジェスカが冷静に切り返す。やがて押し合いに疲れたサフィがぶち切れて、おもむろに修太を肩に担いだ。
「うわ!」
急な浮遊感に修太は驚き、どういう状況にあるか気付くと、幾ら子どもだからとはいえ、女性に軽々と担がれて情けない気分になった。しかしそんなことはサフィは知らないので、やけになったように大声を出す。
「もう、面倒くさい! これだから子どもって好きじゃないんだよ。暴れるし、汚すし、薬品零すし! ――薬品零すし!」
前に何かあったのだろうか? 主に薬品を零されることが。
疑問を覚えたものの、修太だって大人しくはしていない。じたばたと足をばたつかせて暴れる。
「ちょっと待て、こら! 下ろせ!」
「うるさいよ、君。ちょっと黙ってて! ――姉様! とにかく私はまだ封印されるつもりなんてないからっ、じゃあね!」
サフィはガーネットをにらみつけて、一方的な別れの挨拶を口にする。
「あっ、待ちなさい! サフィ!」
ガーネットが引きとめようと一歩踏み出した瞬間、サフィは修太の腰をがしっと両手で掴んだ。
「……!?」
修太がぎょっと動きを止めた頃合いを見計らったように、サフィはそのまま勢いをつけて修太を放り投げた。
(だああ!?)
宙を舞いながら、修太はあまりのことに声も出ない。代わりにガーネットが悲鳴を上げた。
「きゃーっ、使徒様!」
あいにくと悲鳴を上げたいのはこっちの方だ。いきなり人質になったかと思えば、血をなめられ、必要なくなると放り投げられる。散々だ。荷物の方がまだマシな扱いだろう。修太は泣きたいような気分になりながら、無意識に身を丸めて受け身を取ろうとした。
「おっと!」
しかし地面への激突はまぬがれ、サーシャリオンにキャッチされた。サーシャリオンは、まるで飛んできたボールを受け止めるような動作から、流れる動きで修太を抱えたままその場にしゃがみこむ。そんな体勢をとりながらも、視線は鋭くサフィを捉えている。
「逃がさぬぞ!」
サフィが操ったのか、一気に深みを増す霧の向こうへとサーシャリオンは怒鳴り、ヒュッと短く息を吐いた。
サーシャリオンの周囲で冷たい風が巻き起こり、逃げるサフィの背中へと殺到する。
(うわ!)
霧が風で渦を巻く光景を目の当たりにした修太は、未知への恐怖から身を固くした。巻き込まれてはかなわない。
風はサフィに届いたかに見えたが、霧が濃いヴェールを落とした為に、結果が分からない。修太が手に汗を握っていると、霧の向こうから、サフィの声が反響して届いた。
「怒らないで下さい、クロイツェフ様」
サフィのしおらしい声は、すぐにかすかな笑い声にとってかわる。
「――しかし、あなたも物好きですね。旅を全て終えた時、あなたがどうなるかご存知でしょうに!」
「え?」
どういう意味だ。修太は気になったが、ボールのように抱え込まれているので、サーシャリオンの表情はそもそも見えない。何か言い返すかと思えば、サーシャリオンは無言だ。だが、それが何か触れてはいけないことのようなのは、ピリピリする空気で勘付く。
サフィは恭しく言葉を口にする。
「私などに構うより、封印すべき断片は他にもありますよ。祝福が歪んで呪いに変わっているものを先に手に入れてしまうことだ。でなければ、どんどんほころびは広がって、オルファーレン様へと牙をむくでしょう」
賢者に相応しい忠告をすると、サフィはくすりと笑った。
「――それでは深淵より愛をこめて。しばしのお別れを!」
ふざけた挨拶を最後に、辺りは静まり返った。
不愉快そうに眉を寄せたサーシャリオンは、無言で右手をかざす。魔法を使ったのか、濃い霧が薄れていく。やがて現れた花畑の中で、サフィの姿をした氷像がぽつんと立っていた。
サーシャリオンは溜息を吐く。
「まったく、厄介な断片だ。あれは回収に手こずるぞ……」
うんざりしたように呟くと、抱えたままだった修太を地面へと下ろした。
「逃げられちまったなあ。ものの見事に」
ようやく地面に膝をつけた修太はぐったりと肩を落とし、サフィが消えた方向を眺める。
「シューター、大丈夫? あれ、怪我は?」
すぐに駆け寄ってきたトリトラが問う。コウもまた傍にやって来て、修太の血まみれの左手に鼻先を近づけてくんくんと嗅いだ。
「霧のお陰で治ったようだな」
サーシャリオンの言葉で、修太は初めて手の痛みが消えていることに気付いた。
「本当だ。すげえな、〈奇跡の霧〉」
感心しきりに左手を開いたり閉めたりしていると、さくさくと草を踏んでフランジェスカがこちらへ歩み寄ってきた。
「霧は良いが、あの蝶はどうする? ロノ殿の話では、すぐに物陰に隠れろとのことだったが」
大人しく地に伏せている巨大な蝶から視線を逸らさず、フランジェスカは問うてきた。フランジェスカの向こうでは、グレイも蝶を警戒している。
「うーむ」
一言うなったサーシャリオンは、右の指先をパチンと鳴らす。一瞬後、巨大な蝶の氷像が出来上がった。
「これで良いだろう。サフィがここに戻ることはあるまい。ひとまず我らはダークエルフ達の条件は達成したわけだ」
サーシャリオンはそう言ったが、あまり嬉しそうではない。それどころか不機嫌そうだ。
そんなサーシャリオンの前に出て、ガーネットは申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ありません、クロイツェフ様。次に会ったら、妹を必ずや説得してみせます!」
「そなたが謝る必要はない、ガーネット。そなたらにとて意思はある。それは尊重したいから、望みは出来るだけ叶える。サフィがまだしばらく自由でいたいというなら、後回しで回収すればいいだけのこと。なあ、シューター。そなたもそう思うだろう?」
「まあ、あそこまで全力で嫌だっていうのを無理に連れていくのもな。それで構わねえけど、だったら何でお前はそんなに怒ってんだ?」
花畑に座りこんだまま、立ち上がって裾汚れを払っているサーシャリオンを見上げる修太。サーシャリオンは、修太ですら近寄りにくく感じる冷ややかな気配を纏っていた。
「それはもちろん、そなたに怪我をさせたからだ。オルファーレン様をお救いする為の、大事な要だ。失うわけにはゆかぬ」
修太の頭をポンポンと叩くサーシャリオン。口調は軽いが、目は真剣そのもので、修太は気まずくなって身じろぎした。
「そんな大層なもんじゃねえよ、俺は。だいたい、役目を引き受けたのは啓介で、俺はただの補佐な。俺がいなくたって、あいつが上手いことやるさ」
「それはない」
「え?」
「それはない、シューター」
サーシャリオンの口調も固いものに変わった。
「そなたにケイが必要なことと同じように、ケイもそなたを必要とする。そなたらは対だ。どちらかが欠けてもならぬ」
修太は眉を寄せる。
「それは予言かなにかか?」
「まさか。物事の本質を口にしたまでのこと。それに、我はそなたらの絆を隣で見ているのが好きだ。そなたらを見ていると、人は美しいと信じられる。だからそなたらには健在でいてもらわねば」
サーシャリオンはにやりと笑う。
「そして、我の暇潰しの糧になっておくれ」
「……おい、真面目に返して損しただろうが」
痛い程の真剣さがあっという間に霧散した。真面目に相手をしていた修太は疲労を覚える。修太はげんなりとうつむき、ふと、サフィが言っていた台詞を思い出す。
「なあ、さっきのサフィの言葉。旅が終わったらサーシャがどうこうって言ってたけど、あれってどういう意味?」
「オルファーレン様の元に帰れるというだけの話だ。気にすることはない」
「ふーん……?」
なんとなく釈然としない返事だったが、サーシャリオンがそう言うのだから、大したことではないのだろう。
「それよりもほら、断片を封印してしまうがよい。薬草も摘んで、ケイを迎えに行かなくてはな」
サーシャリオンが差し出した手に掴まって修太は立ち上がり、隠せない疲労を声に混ぜて言う。
「ピアスのことも忘れるなよ」
いつまで経っても啓介と修太のこと以外はどうでもよさそうなサーシャリオンに、修太は溜息を吐く。修太は仲間だと思っている彼らが不憫になる。
とりあえずサフィのことで頭を悩ませるのは後回しにすることにして、サーシャリオンの言う通りにすることに決めた。