第二十三話 迷宮の化け物 1
※流血表現、注意。
その化け物が現れたのは、突然のことだった。
天井から緑色の長い蔦が落ちてきたかと思えば、ずるりと本体が床に落ちた。赤い花弁に黒の斑点という毒々しい花の花弁の部分には、口のようなものがあり、淵に沿ってびっしりと並んだ歯が見えた。
化け物は二階建ての家には相当する、床から天井までの高さがあり、今までどうやって隠れていたのか、トリトラにも分からなかった。ふいに今まで嗅いだことのない甘い香りがしたと思えば、そこにいたからだ。
「何だ、こいつ。こんなモンスター、この階にいたか?」
バスタードソードを構えながら、シークが怪訝な顔をして言った。
「さあ、見たことないし、情報も聞いてない」
トリトラはそう返しながら、背筋を這い上がる悪寒に眉を潜めていた。じんわりと汗をかいている。そのことに驚いた。己の身は、あの化け物に緊張を強いられているのだ。感覚で分かる。あの化け物は危険だ、と。
情報があるならまだいい、だが、見た事もない化け物だ。
「シーク、あいつはまずい。撤退するよ!」
トリトラはシークに小声で退却を告げる。
今はまだ距離が遠い。それに、幸運なことに、ダンジョンからの脱出ポートはトリトラ達の背後側で、あの化け物に近付く必要はない。
トリトラとシークは一度地上に戻る。それだけで話が片付く。そこでシークが動きさえしなければ、そうなっていた。
「大丈夫だって、トリトラ。あいつ、動きのろいしよ! 新手のモンスターなら、俺がたたっ切ってやる!」
「あっ、こら!」
トリトラの言葉を笑って流し、シークはバスタードソードを手にして地を駆け出す。そして、あっという間に化け物に肉薄すると、地を蹴って飛び上がった。頭部と思しき花めがけ、バスタードソードを一閃する。
しかし、化け物の蔦が驚くべき速さで一つに纏まり、盾を築き、刃は弾かれた。その意外さにシークが目を丸くした瞬間、集まっていた蔦は槍となってシークを襲った。
「ぐあっ!」
バスタードソードでガードしたにも関わらず、蔦は器用に剣を避け、シークの腹に突き刺さる。そして、その勢いで、シークは宙を舞い、地面に叩きつけられた。その拍子に、手から離れたバスタードソードが転がり、石床にぶつかって硬質な音を立てた。
「シーク!」
トリトラは叫び、化け物の蔦による第二撃を、左手にしたサーベルで切り払うことで止める。それで化け物の勢いが下がった隙に、トリトラはシークを右肩に担ぎ、その場を離脱する。
「この馬鹿! だから撤退だって言ったんだ!」
「がふっ、げぇっ」
対するシークの返事は、口から吐いた血だった。
その錆のような濃い血臭に、トリトラは焦りを覚える。すぐにでも応急処置をした方が良い。だが、化け物の追撃が来た。
鋭い蔦は、先がナイフのようになっているらしい。走りながらそれを捉えたトリトラは、二本の蔦が追いすがるのに対し、瞬時の判断でサーベルの刃を地面に突き立てた。
「ぐぅっ」
直撃は避けられたが、流れた蔦が脇腹と右足をかすめた。防具屋で買った質の良い戦闘用の衣服であるに関わらず、布が裂けて身に傷が出来た。
(こいつ、本気で化け物だ)
普通ならば、防具屋で買った衣服はその辺のちょっとした鎧並みに頑丈なので、裂傷にならずに打撲で済む怪我だ。だが、あの蔦はシークにも刺し傷を負わせていた。切れ味が良いのに加え、〈黄〉の魔法ばりの速度が上乗せされたせいだろう。
折り返して戻ってきた蔦をサーベルで叩き落とし、トリトラは再び走り出す。そして、脱出ポートのある部屋に転がり込んだ。
人が乗ったことで地上へのテレポートが作動し、魔法陣が青く光る。そして、二人の姿が揺らいだその一瞬、蔦が一本、矢のように飛び込んできた。トリトラは死を覚悟して目を閉じた。
這う這うの体で地上に戻ってきたものの、化け物の最後の一撃で、トリトラも左腕に大怪我をした。蔦は貫通こそしなかったが、骨ぎりぎりまでの肉をえぐっていったのだ。
自身の怪我には見ないふりをして、冒険者ギルドの治療室に飛び込んだトリトラは、シークともども応急処置をしてもらった。シークは奇跡的に一命を取り留め、トリトラもまた、運良く腕を切り落とす事態にならずに済み、治療師の魔法でほぼ元通りに傷を塞いで貰えた。
治療室には、トリトラ達と似たような境遇の冒険者達がごろごろいて、治療室の床は、彼らの怪我による血で赤く染まっていった。
治療師の魔力が足りなくなっては困るので、重症患者は最低限の処置を施されて軽症患者に繰り上がり、軽傷患者は薬師によって包帯と薬による治療を施され、帰るように指示された。
あいにく、シークは内臓まで痛めていたらしく、魔法で傷を治療された後も、しばらく様子見で入院することになった。
その日、シークが目覚める前にトリトラは宿に帰った。
翌日、治療室に顔を出したトリトラは、シークににっこりと微笑みかけた。
「この馬鹿。僕は撤退するって言ったよね?」
簡易ベッドに上半身を起こして座っていたシークは、顔を引きつらせる。
「いや、大丈夫だと思ったんだ」
「ほーお? 君は、ガキの頃から、危機察知能力が低いよね? ああいう時は、僕の判断に任せるって、二人でタッグする場合のルールを決めてたよね? ねえ、そこんところはどうなの?」
「ふ、ふひはへんへひは!」
シークの右頬をつまみ、ぐいぐい引っ張って畳み掛けると、シークはほがほが言いながら謝った。
そして、トリトラの左腕の包帯を見て、シークは衝撃を受けたように固まった。うなだれて謝り始める。
「悪い、トリトラ……。俺のせいで。お前、そっちの腕、利き腕なのに」
「治療して貰ったから、平気だ」
「でもよぅ……」
しょげるシークが、見ていてイラッとしたトリトラは、その頭を掴み、思い切り頭突きをした。
「ぐわっ」
シークは勢いでのけぞり、トリトラは予想を超えた痛みにしばし沈黙する。そして顔を上げると、シークに怒鳴る。
「痛いんだよ、この石頭!」
「それはこっちの台詞だ!」
理不尽な言葉に、シークもくわっと怒鳴り返す。
「うるさい! そうやってしょげるの、やめてくれる!? 女々しくてイライラする」
トリトラの言葉に、シークも言い返す。
「女顔野郎に言われたくねえよ!」
シークが禁句を叫んだ瞬間、トリトラは口を閉ざした。その優しげな顔に浮かぶ氷の笑みを見て、シークは失言を悟って己の口を手で塞ぐが、すでに遅い。トリトラはもう一度シークの頭を掴むと、
「誰が女顔だ! 大馬鹿野郎!」
「ぐはあっ」
もう一撃、頭突きをお見舞いした。そこで、騒ぎを聞きつけた治療師が顔を出し、悲鳴を上げた。
「きゃーっ! ちょっと、そこのあなた! 重症患者に何とどめ刺してるの!?」
そして、治療師にきっちり叱られたトリトラは、邪魔だと言われて外に追い出された。無論、トリトラとて、そこにいる気はなかったが。
幼馴染へのイライラを降り積もらせながら、次々に運び込まれるダンジョン帰りの冒険者達を眺める。
「……あの化け物、一体何なんだ?」
ダンジョンで、ここまでの被害を出すモンスターが出たことがあっただろうか? いや、階層によっては重症を負ったり、命を落としたりする者は勿論いるが、これ程の数がやられるということは無い。それぞれ、己の身に合った場所までしか潜らないからだ。
不穏な気配に眉を潜めながら、解決策は見当たらず。気分転換でもしようと、トリトラは通りを行き交う人の流れに身を任せた。