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「………つっ」
身じろぎした瞬間に腹部に痛みが走り、短くうめきながらフランジェスカは素早く身を起こした。
現状確認の為に壁を背にして周囲を見回す。フランジェスカが背にしている壁の右側に窓が一つあり、扉が正面に一つ、右手に一つある。
まず出入り口の位置を確認すると、気持ちが落ち着いた。小さく深呼吸をして、再度見回す。クリームイエローを基調とした、シンプルだが品の良い部屋だ。
フランジェスカは拍子抜けした。
てっきり神殿にでも売り渡されるのかと思ったが、屋敷の中らしい。ユーサレトの屋敷だろうか。
足音を立てないようにそろりと寝台を下り、右手の壁に背をつけたまま、窓から外を見る。
(二階か。窓を割ったとしても、とっかかりがないから下りるのは難しい、か。しかし、この日の傾き具合、朝か? 何時間経った)
無意識に武器を探して腰に手を当て、服装が変わっているのに気付く。いつも着ている赤茶色の短衣と黒いズボンという団服ではない。
「げ。ネグリジェとかいうやつか、これ……」
寝巻きはいつも木綿か麻のシャツとズボンだから、薄地のワンピース状の寝巻きであることに顔を引きつらせる。
(最悪だ。動きにくいではないか)
フランジェスカが服を選ぶ時は、動きやすいや動きにくいかで決めるから、気にくわなかった。
しかし、右手の扉向こうに人の気配を感じ、寝台に戻り、今起きたという顔で出迎える。青みがかった茶色の髪と茶色の目をした侍女は、フランジェスカに気付いて、軽く目を瞠る。
「お目覚めになられていたのですね、お早うございます。お加減はいかがですか?」
「……あまり良くはないな。質問をしたい。ここはどこだ?」
「ユーサレト・クロンゼック男爵様の私邸ですよ。客間です。旦那様からはお客様を部屋から出すなと仰せつかっておりますし、お話も伺っております」
侍女は三十代くらいの、落ち着いた空気をしていた。顔立ちは地味だが、人が良さそうに見える。爪先まで隠す丈の長い黒のワンピースに白いエプロンをつけ、頭にホワイトブリムをつけるという、典型的なメイド姿をしていた。
「私はファニアと申します。お客様の御世話を申しつかっておりますので、お見知りおき下さい」
裾を持ち上げて一礼するファニア。
「何が世話だ。私はここを出る。団長はどこだ?」
「旦那様は出仕なされました。夕方にまたお戻りになられます」
フランジェスカは眉を寄せる。
(あの方はいったい何を考えておられるのだ?)
自分のような者に結婚を申し込んできたり、断ったら気絶させ、何の説明もしないまま仕事に行くなど。
イライラする。殴られた腹も痛い。
(くそ。私は治療の魔法だけは苦手なのだ……!)
〈青〉の全てが治療魔法が得意なわけではない。あれには勿論、修練が必要になる。フランジェスカは魔法を攻撃目的に特化させて修練していたから、かすり傷を治したり血止めする程度の応急処置しか出来ないのだ。気休めにはなるだろうから、後で魔法を使うことにしよう。
「出仕されたということは、今は朝か?」
「そうでございます。しかしお客様、何がそんなに不満なのですか? 悪魔憑きであるからと、旦那様が保護されたのでしょう?」
ファニアの目には不愉快そうな光が浮かんでいる。汚いものを見るような目だ。恐らく熱心な白教徒なのだろう。
「……そう聞いているのか?」
口端で笑う。
よりによって、悪魔憑き。物は言いようだ。
「夜の間、お客様は紛うことなきモンスターの姿をしておりました。悪魔に憑かれているから、あのような姿になるのでしょう?」
「もういい。それでいいから、私に服と剣を返せ。汚らわしい魔物憑きだ、早速出ていってやる」
溜息混じりに要求すると、ファニアは感情に薄い表情のまま、頑なに首を振る。
「なりませぬ。部屋から出すなと仰せです」
「――そうか」
仕方がない。それならこのまま出ていくか。
寝台から下り、つかつかと出口に向かう。ファニアの横を通り抜けようとしたところで、首筋に無言でナイフの先を突き付けられた。フランジェスカは溜息を吐く。
「なるほど。団長の屋敷にいる侍女が、ただの侍女なわけがない、か」
「この程度は嗜みでございます」
「それは末恐ろしい」
嗜みと返すか。まったく、あの方はどんな手駒を持っているのだか。私兵を有しているのは知っていたが、使用人もそうだったとは。
「分かった。今回は大人しく戻ることにする」
「それはようございました。では、朝食をご用意いたします」
フランジェスカが後ろにゆっくり下がり、ファニアから間合いを取ると、ファニアはにこりともしないで一礼する。右手にしていたナイフはいつの間にか消えていた。
ファニアが退室し、カチリと鍵の鳴る音が部屋に響くと、フランジェスカはどうしたものかなと息を吐く。
とにかく着替えだと箪笥やクローゼットを勝手に漁る。
「……くっ、何だこの乙女仕様は! というか、どうしてこんな物がある?」
ドレスやワンピースばかりが出てきて、フランジェスカは頭を抱える。
ユーサレトには家族はいないし妻も恋人もいないのに、女物の衣服があるのが不思議でたまらない。
後でファニアに訊くと、潜入を生業にしている手駒の為の、変装用の衣装部屋から集めたのだとのことだった。変な趣味でないことに安堵すべきか、そんな手駒を飼っていることに恐れおののくべきか、フランジェスカには判断がつきかねた。
「……団長、これはいったいどういうことなんです?」
夕方になってようやく顔を出したユーサレトにフランジェスカが不機嫌顔で詰め寄ると、ユーサレトは求めるものと違う答えを寄越した。
「よく似合っているな」
ぴくり。こめかみに青筋が浮かぶ。
一番シンプルな紺色のワンピースを選んで着ているのだが、こんな服は似合うとは思わない。
「ふざけないで頂きたい! 私は貴族でも何でもない、ただの一般庶民です。こんな服が似合うわけがないでしょう! だいたい、こんな監禁紛いのことをするなどと、騎士としての面目はないのですか!?」
びしっと叱り飛ばす。
「私は国を出ます! そして呪いを解くのです! 邪魔をしないで下さい!」
上司として敬っていた癖でつい敬語になりながら、怒り心頭で怒鳴る。
帰ってきたばかりなのか、ユーサレトは〈白〉を示す白い騎士服と、団長格を示す短い丈の青のマント姿という仕事着のままである。
そして怒っているフランジェスカを凪いだ水色の目で見下ろして、ぽつりと言う。
「本当に、モンスターになるのだな。ポイズンキャットだった」
しみじみとした言葉に、フランジェスカは押し黙る。
「何ですか、疑っていたのですか?」
「――いや。しかし、それでも、人がモンスターに変わるのは不思議だった」
「団長、私はこのままではいつか気が狂って、ただの魔物になってしまうのです。悪ふざけをせずに剣を返して下さい」
ユーサレトの纏う空気がぴりりと鋭くなる。
「ふざけてなどいない。私は真剣だ。真剣に、君を愛している。だから、悪魔どもの下になど返さない」
異様な空気に気圧されるように、フランジェスカは一歩下がる。
「神殿からの報告では、君がこの国に突然現れた時、ハルミヤが一緒にいたはずだ。奴らの下に戻るのだろう?」
「――ええ。それが私の交わした約束です」
「あのダークエルフや〈黒〉の子どもも、そこにいるのだな?」
「…………」
肯定も否定もせず、フランジェスカはじっとユーサレトを見返す。
「今日、東部から伝令が届いた。昨日の朝、〈氷雪の樹海〉のふもとにあるホワイトスノウ神殿が、氷竜により壊滅したのだそうだ。神官兵の報告によれば、その氷竜が来る前日、黒狼族が三人と人間の男が一人、それから子どもが一人、氷竜の眠る祭壇にやって来たらしい」
それは修太達だ。間違いない。影を使った話は聞いている。
(さっそく何をしでかした、あのクソガキ)
正確には修太は止めた側だが、フランジェスカには修太を取り巻く厄介事の一つにしか見えない。
「やはりな。ハルミヤは幼馴染と言って、あの〈黒〉に執着を見せていた。傍にいるだろうと思ったのだ」
黙っているフランジェスカに、ユーサレトは続ける。
「呪いを解くならそうすべきだが、それであんな悪魔の使いの下に行くのなら、私は止める。こんな卑怯な手を使ってもな」
フランジェスカは寒気を覚えた。
まさか、ここまでの執着を持たれているとは少しも気付いていなかったのだ。微かに狂気の気配すら感じる。
この国で〈黒〉やモンスターは絶対的な悪だ。その悪への憎悪もごっちゃになっているかのような、そんな歪みだ。
(……私も、こんな目をしていたのか)
過去の自分自身へも寒気がする。修太と会ったあの日まで、フランジェスカは〈黒〉をモンスターと見ていた。人間とすら見ていなかったのだ。今は違う。世界の広さを知ったから、もう前みたいには戻れない。
(そうか、もう、違うのだ。決定的に)
だからエレノイカは国を出ろと言ったのだと気付く。いつか綻びが出る前に。それで身を滅ぼす前に。
何も言えずに硬直するフランジェスカに、ユーサレトはふっと笑いかける。
「ここにいろ、フラン。頼むから私に君を殺めさせないでくれ」
髪をそっとすくい上げ、毛先に口づけを落とすと、ユーサレトは部屋を出ていった。
閉まった扉を呆然と見つめる。
フランジェスカがここを出て行くなら命を奪うのも辞さない気らしい。
(無関心の方がよっぽどマシだったな……)
もう見たくもないと追い払われた方がよっぽどマシな結末だっただろう。
しかし、ユーサレトはあんなに歪んでいただろうか。
(違う。私が見えていなかっただけだ)
外に出て視点が増えたから、見えなかったものが見えるようになった。そういうことなのか。
故国での居場所の無さを痛感し、帰る場所はもうないのだと再確認したフランジェスカは、初めて心に風が吹き抜けるような寂しさを覚えた。
(このまま私がここにいては、ますますあの方を駄目にしてしまう。どうにかして出て行かなくては)
フランジェスカは沈みゆく夕日を見つめながら、そっと考えを巡らせる。もう夜が近い。不安に胸が押しつぶされそうになる。
自己を失くしたくないし、狂いたくない。死ぬ時は、人間のままで死にたいのだ。
この不安にさいなまれると、黒い瞳がふっと目に浮かぶ。
モンスター達が〈黒〉を灯だと言うのがようやく理解出来た。
彼らは確かに灯だ。
その傍にいれば、自身は照らしだされ、闇に消えることはない。
幾ら邪魔扱いしていても、ポイズンキャットの姿になったフランジェスカが傍に寄れば、仕方なさそうに許容していた子どもの姿を思い出す。
あいつの傍にいれば、安穏としていられるのに。
「というか、こういう時こそあいつの出番だろう。サーシャめ……」
サーシャリオンのことを思い浮かべ、フランジェスカは憎々しげに舌打ちする。あの輩のことだから、どこかからか見ていそうなものなのに。
啓介や修太以外はどうでもいいのだろうか。
名前を呟いてみても何の返事もないことに、フランジェスカは嘆息し、投げやりに寝台に腰かけた。