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クロンゼック家の屋敷は、王都の外れにある。
白い煉瓦と青い屋根瓦で造られた瀟洒な屋敷は、赤や黄に染まる木々の中にひっそりと建つ。
お帰りなさいませとお辞儀をする執事や侍女達の間を通り抜け、客間に案内される中、相変わらず使用人が少ない屋敷だとフランジェスカは内心で一人ごちた。ユーサレトは家の中に他人が大勢いるのは気が散るからという理由で、使用人を最低限しか雇っていない。だから屋敷は貴族にしては小さめだし、手入れも最低限が出来れば良いというシンプルさだ。芸術品でごちゃごちゃした成金風情よりはマシだがいささか殺風景ではないかと、仕事の報告で屋敷を訪れる度に思っていた。
青を基調とした客間の長椅子に座り、侍女が用意した茶が入った陶器製のカップを見つめ、フランジェスカは内心て溜息をつく。
意外にも馬車の中では問いつめられる真似はされず、ひたすら重い沈黙だけだったが、それでも随分精神を消耗した気がする。
茶に手をつけないフランジェスカを見て、ユーサレトは遠慮するなと促した。茶を出されて飲まないのは礼儀知らずだ。フランジェスカは薔薇の絵が描かれたカップに手を伸ばした。
(……ぐぬぬ、ものすごく美味い)
どうしてここのお茶はこんなにおいしいのだろう。
紅茶なんて高級茶は庶民であるフランジェスカには飲めない物だから、ここで初めて茶をご馳走になった時は、おいしさのあまり感動しすぎて無言で固まっていたものだ。
(常々不思議に思っていたが、どうしてこの方は結婚されていないのだろうな?)
〈白〉で社会的地位もあり、怜悧とした美貌の持ち主であるユーサレトには両親がいない。元は平民であり、剣と魔法の腕と〈白〉という立場を利用してのし上がった実力者だ。だというのに、妻も婚約者もいないのだ。普通、社会的地位があって両親がいないなら、良い嫁ぎ先だと思われそうなものなのに、不思議なものだ。
ふと視線を上げると、向かいの長椅子に腰かけたユーサレトの水色の双眸と目が合った。
「……フラン、そろそろ話してもらえるか。お前から話すのを待っていたが、話す気がないようだからな」
よくお分かりですね、団長。
フランジェスカは口端を引きつらせる。その苦々しい顔を見て、ユーサレトは柳眉を潜める。
「そんなに俺は信用ならぬか?」
「……いや、あの」
怒りにも似た冷気を感じて、フランジェスカは椅子の上でやや身を引く。
「あの悪魔の使いや奇術師に何をそそのかされた? 怒らないから言ってみろ」
すでに怒ってるではないですか、団長殿! ユーサレトから発せられる威圧感にじりじりしながら、フランジェスカは胸中で言い返す。
フランジェスカは一つ息を吐く。
この後、国を出るのだ。最後にユーサレトに真実を置き土産にするくらいは構わないだろう。副団長として取り立ててもらい、世話になったのだ。それくらいしても罰は当たるまい。
「団長、私が一年前に命じられた任務を覚えていらっしゃいますか?」
背筋を正し、膝に手を置いて居住まいを正したフランジェスカは、静かな声で問うた。
空気が変わったことに気付いたユーサレトもまた、姿勢を正す。そして、しっかりと頷いた。
「当たり前だ、私が命じたことだ。パスリル王国東部、ヒョルケ山のモンスター討伐だ。そういえばまだ報告を聞いていなかったな」
フランジェスカは一つ頷く。
「そうですね。救援依頼のあったヒョルケ山のふもとの村、タニテ村では、山から降りてきたモンスターに夜な夜な人が食われておりました。わざわざ家に押し入り、必ず一人だけさらうという手口で、モンスターは獅子に似た姿をしていました」
あれは陰惨な事件だった。
夜毎現れる簒奪者に、村人達は怯えていた。扉を閉めて立て籠っても、扉や窓のどこかを壊され、必ず一人だけさらっていくのだ、怯えないわけがない。村から逃げる者もいたが、逃げたところで生活するあてのない者や足腰が弱い為に逃げられない者は残り、ただ救援の使者が来るのを待つばかりだった。村で腕に覚えがある者の中には、モンスターに戦いを挑んだ者もいたが、力及ばず命を落としていったらしい。
思い出しながら話すフランジェスカに、ユーサレトは首肯して続けるように言う。
「はい。私は村人をさらった直後の油断したところを突き、そのモンスターを退治しました。それまでは良かったのです」
「…………」
不穏な流れを勘付いたのか、眉を潜めるユーサレト。
フランジェスカは大きく息を吸う。
告げたが最後、悪ければその場で悪魔として処断されるかもしれない。いつでも逃げられるように、腰の長剣に意識を向け、足に力を入れる。
戦いを仕掛けるように、フランジェスカはキッとユーサレトを真っ向から見た。
「そのモンスターは、緑柱石の魔女の子飼いでした。それで怒った魔女に、私は月光の呪いをかけられたのです」
対峙するユーサレトの眉間に皺が寄る。
「どういう、意味だ」
らしくもなく緊張しているのだろうか。ユーサレトの声はかすれていた。
フランジェスカはちらりと室内を見る。執事や侍女はいない。扉の向こうにも気配はない。ユーサレトが呼ばない限り、出てくる真似はしないだろう。
「昼間はこのように人の姿ですが、夜になるとこの身はポイズンキャットに変わってしまうのです」
「………なっ」
「その呪いを解く方法を探しておりました。私の友に占いの得意な者がいて、彼女が魔女に関わる鍵を得られると言うのであの森に。その先で会ったのは、ご存知の通り、〈黒〉の子どもです」
フランジェスカは一気に言い切るつもりで、ユーサレトを見ずに更に続ける。
「夜の間、私はただのモンスターです。モンスターは、空気中に漂う黒い靄を食べているようです。それを見ると食べずにはいられず、食べると意識が消えていく。それを半年耐えました」
あの時の恐怖を思い出し、フランジェスカの膝の上で握りしめた両手がぶるぶると震えだした。
「ですが、〈黒〉はモンスターを鎮静化する魔法を持つ者なのだと知りました。あの子どもの傍にいれば、私は私でいられた。そして、私はクラ森のボスモンスターに魔女の手掛かりを貰う対価に、彼らの護衛をすることを誓いました」
拳を膝にぐっと押しつけ、再び顔を上げる。ユーサレトの顔からは表情が消えていて、怖い程の無表情でフランジェスカを見ていた。
「……その、呪いは?」
かすれ気味の声が問う。
「かの魔女の妹魔女に、祝福を貰いました。お陰で満月の日だけは夜も人間でいられますが、呪いは解けていません。あと一歩というところで、この国に転移されてしまったので」
「そ、うか……」
ユーサレトは右手を顔に押し当てて、息を細く吐いた。怒りではなく、失望でもなく、やるせなさそうな溜息だった。
「団長、友は私にもう二度とこの国に戻るなという予言をくれました。私はこの真実を置き土産に、この国を出ます。今迄、お引き立て下さってありがとうございました」
フランジェスカは背筋を正し、座ったままでぐっと頭を下げる。
「解雇して下さって結構です。本当に、ありがとうございました。あなたの副官でいられたことは、私の誇りです」
騎士団に入り、団長とともに仕事をこなしてきた日々の記憶が蘇り、フランジェスカは藍に近い青の目に薄らと涙を浮かべる。
そうして長椅子を立ち上がるフランジェスカをユーサレトは呆然と見上げ、顔を歪める。
「……私は、私が許せない。私が不甲斐ないから、お前にそんな思いをさせた。モンスターになるなど、そんな屈辱をお前に……」
「いいえ、団長。あなたのせいではありません。私が行かなければ、他の者が行っていた。私の運が無かった、それだけです。私は剣の腕はありますから、冒険者として生活していきます。それだけは本当に幸運でした」
フランジェスカはさっぱりと微笑んだ。
剣を手に取ったきっかけは、母を殺したモンスターに復讐する為だった。それがいつしか身近な者を守る為、国を守る為へと意義を変えていった。騎士として、人を守る術も学び、お陰で誰かを守れる者になった。例え国を追われようと、自分の在り方には誇りを持っている。この剣は誰にも折れない。
その何の未練も見当たらない清々しい笑みを見て、ユーサレトは打ちのめされたように身を揺らす。そして少しの沈黙の後、ふらりと立ち上がった。
「フラン。いや、フランジェスカ・セディン。君が真実を置き土産にするというなら、私もそうしよう」
ユーサレトがフランジェスカの前に静かに立つのを、フランジェスカは疑問をこめて見る。
「君を副団長にしたのは君の能力を買ってのことだ。それは疑わないでくれ。しかし君と共に過ごすうちに、私は君のことを好きになっていた」
思いもよらない発言に、フランジェスカはぴしりと固まる。
(ん? え? 好き? 今、好きと言ったのか、この方は。いやいや、まさか)
とうとう自分は耳までおかしくなったのかと混乱した頭で考えていると、動揺が分かったらしいユーサレトはにやりと笑みを浮かべた。氷のような怜悧な顔をしていることが多いから、滅多と見ない笑みだ。しかし心温まるどころか罠にかかったウサギのような気分で焦りしか覚えない。
「現実逃避をするな。俺は君が好きだと言った。空耳でも、俺がどうかしたわけでもない。動揺してくれるとは意外だな。少しは脈があったのか?」
フランジェスカの右手をすいとすくい上げ、その指に軽く口づけする。それをあんぐりと見たフランジェスカは、慌てて手を取り返し、後ろへ下がる。
「ちょ!? ちょっと待って下さい、団長! いやいやいやいや、ありえませんから!」
意外にも意外すぎてどうしていいか分からない。
ぐるんぐるんと目を回していると、前に啓介に言われたことを、啓介の良い笑顔とともに思い出した。
――いやあ、団長さん、フランさんのことすっごい大事にしてるんだなと思って。愛されてますね。
(何故、今、これを思い出した、私!)
顔を赤くし、恥ずかしさを振りきるように叫ぶ。少し腹立たしくもあった。
「わ、私のような傷だらけの醜い女、誰も好きになどならぬでしょう! 喧嘩を売っているのですか!?」
「君は確かに怪我の痕はあるが、少しも醜くない。君は心が真っ直ぐで、その姿勢も考え方も纏う空気も美しい」
飾らない言葉での告白に、ますますうろたえる。
「君の言うように、副団長の任は解こう。その代わりと言ってはなんだが、俺と結婚してくれないか。――フランジェスカ、俺では君を引き止める理由にはならないだろうか?」
真剣な空気を纏い、真摯に問い掛けるユーサレト。
結婚にはもちろん憧れていた。フランジェスカは騎士である前に一人の女性だ。でも、それは無理なのだととっくに諦めていた。
「団長、ずるいです。私は今、平常心ではありません」
「何を言う、敵は混乱させてから叩けと兵法にも書いてある」
あっさり言い負かされ、うぐぐと口ごもる。
泣きたくなるくらい、甘美な誘惑だ。女としての部分が、このまま受けてしまえと囁く。これを逃したら嫁の貰い手はないだろう。
――だが。
フランジェスカは深呼吸を一つして身を落ち着けると、口を開く。
「……ありがとうございます、ユーサ団長。私はその言葉を頂けただけで充分です」
フランジェスカが苦笑を浮かべたのを見て、ユーサレトの表情が凍る。
「申し訳ありませんが、結婚は出来ません。私はあなたを敬愛していますが、恋愛としての愛は持ち合わせておりません。どうか、尊敬する上司として、このまま退去させて頂きたい」
胸に手を当て、慇懃に礼をする。
「……どうしても、駄目か」
「……はい」
「……分かった」
ユーサレトは短く頷き、悲しげに目を細める。そのことにフランジェスカは胸が痛んだが、先程口にしたことが真実である為、いらぬ同情は出来なかった。同情からの結婚など、どちらも虚しくなるだけだ。
そうして立っていると、すっと距離を詰めたユーサレトにぐっと抱きしめられた。
「団長!?」
「……フランジェスカ」
驚いて突き飛ばしかけるが、悲しげな声が耳朶を打ち、抵抗をやめる。どうやら別れの抱擁らしい。
「……残念だ」
「――え?」
不可解な言葉に目を丸くした瞬間、鳩尾に強い衝撃を感じた。視界が真っ暗になる。
「……な……何故……」
信じられずにうめいて、フランジェスカは膝から崩れ落ちる。床に倒れる前に、ユーサレトがやんわりと抱きとめた。
「……フラン。お前を悪魔どもの手になど渡すものか」
黒に濁っていく意識の遠くで、そんな言葉が聞こえた気がした。