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フランジェスカは大きく息を吸った。
目の前には、小さいがどっしりした趣の家があり、カンカンと絶えず鉄を打つ音が響いている。
白い石材の煉瓦積みの家で、屋根瓦は青い。表玄関の、青で塗られた木製の扉の脇には、父の手製の看板がかかっている。金属板に『セディン鍛冶店』と彫られ、更にその左横に、小さく『武具だけでなく、日用品の修繕も可』と彫られている。懐かしい構えに、ほっと息を吐く。
セディン家は元々は王都から二つ西に行った所にある町で鍛冶屋を営んでいたが、母が死に、フランジェスカが重傷を負う事件が起きてから、王都に居を移した。だから、生まれ育った町へは一年に一度、墓参りに戻る程度だった。
王都に移り住んだのは、父の行商先が王都だったから。行商の行き帰りでモンスターに襲われる危険を避ける為に、思い切って引っ越したのである。
フランジェスカが覚悟を決めて扉を押そうとした瞬間、横合いから声をかけられた。
「フラン嬢ちゃんか!?」
懐かしい声に振り返ると、自分の腰より上辺りに、馴染みの顔が見えた。ドワーフの、イーリルディという名の男だ。厳つい顔をした、丸太のような腕をした小人だ。髪色は茶色く、目も茶色い。ノン・カラーではあるものの、その鍛冶の腕前は神がかっている。父の友人であり、同時にライバルでもある人だ。フランジェスカも親しくしていて、名前が発音しにくいので、フランジェスカはディーと呼んでいた。
「ディーおじさん、久しぶり」
「お前さん、一年もどこさ行ってたんだ! ラグがどんだけ心配したと……! 今、戻ってきたのか?」
「ああ」
「だったら俺なんかと話してる場合じゃねえ! おい、ラグ! フランの嬢ちゃんが戻ったぞ!」
イーリルディは叩きつけるようにして店の扉を開け、店の奥に怒鳴った。
相変わらずだと懐かしく思うフランジェスカの後ろで、啓介やピアスは目を丸くしている。サーシャリオンは神殿を出る時にはどこかに消えてしまったが、ときどき通りの端に青い外套が見えたから、どうやら遠巻きについてきているようだ。
神官がついてきたがったが、啓介が遠回しに迷惑だと仄めかしたので、ここまで馬車で送ると神殿に帰っていった。
「フランだと!」
店の奥で父の声がするや、ガシャンとかドスンとかいった音や、いてえといったうめき声やらが聞こえ、よろけ気味に父――ラゴニスが姿を現した。青みがかった黒い髪はボサボサで、無精髭が目立つ。一年前より痩せた気がする。ラゴニスは娘を認めるなり紫色の目を歪めた。
「お前、やっと帰ってきやがって……!」
そして、フランジェスカより背があり、がっしりした体格でフランジェスカをぐっと抱きしめた。
「無事みてえだな? 怪我はねえか? あ?」
「いや……。父さんの方が痩せたな。急にいなくなって悪かったよ」
しおらしく謝るのはそこまでにして、フランジェスカは眉を寄せ、ぐっと胸板を押して自身から父親を引きはがした。
「くさい! なんだこれは! また洗濯してないのか!」
そして店から家の方にずかずか入っていき、惨状を目にしてキッとラゴニスを怒鳴りつける。
「掃除くらいしろと何度言ったら分かるんだ、このクソ親父!」
「おま……っ、久しぶりに帰ってきたと思ったら、クソ親父とはなんだ、クソ親父とは!」
ラゴニスは肩をいからせて言い返す。しかしフランジェスカのどぎつい睨みに、うっと身をすくめる。
「母さんや私がいないと、ほんとに駄目駄目だな! そのシャツも、いったい何日洗ってないんだ?」
ラゴニスは、よれよれのシャツを見下ろす。
「……十日?」
フランジェスカの口の端がひくりと引きつる。そして、低い声で詰問する。
「正直に言え」
「二週間です、すみません!」
「……やっぱりか」
はあああ。深い溜息を吐く。
「詳しいことを話すのは後だ。先にここを片付ける。落ち着いて話も出来ぬわ!」
カッカと怒りながら、部屋を片付け始めるのを見て、イーリルディはやれやれと肩を落とす。
「相変わらずだな、こいつら……」
その後ろで啓介やピアスは顔を見合わせて苦笑し、手伝うべく、家に遠慮なく上がりこんだ。
埃や泥汚れはそのまま、あちこちに脱いだままの服が散らばり、炊事場にはたまった食器や鍋が積み重なる惨状を片付け、ひとまず服の山を水を張ったたらいに放り込んでから、セディン父娘と啓介とピアスの四人はテーブルを囲んだ。イーリルディは呆れて帰ってしまった。
「――それでフランジェスカ、いったいどこに行ってたんだ? 任務でモンスター討伐に行くと言っていたから、俺はてっきりモンスターにやられちまったのかと冷や冷やしてたのに、お前んとこの団長さんが来て、お前に会ったって言うからほっとしてたが、一向に戻らねえからよ」
豆茶を片手に、ラゴニスは息を吐いた。髪を一つに結び、無精髭を剃り、身なりを整えたラゴニスは四十代という年齢にしてもなかなかの美丈夫である。精悍な顔立ちはフランジェスカにも面影がある。
「ユーサ団長がここに来たのか?」
フランジェスカが所属している、パスリル王国王立騎士団第三師団の師団長であるユーサレト・クロンゼックの名が出たことに、フランジェスカは驚いた。
「それで、他に何か言っていたか? 私は解雇になったのだろうか……」
「いや? 何も聞いてねえ。ただ、クラ森で会ったのだが、何故あそこにいたのか知っているかと問われてな。お前、何だって魔の森なんぞにいたんだ?」
「それは……」
フランジェスカは顔をうつむけ、言葉を濁す。
正直に答えて、ラゴニスがフランジェスカを糾弾したらどうしようかと不安がよぎった。
部外者であるが事情を知る啓介とピアスは、同席はしていたものの口を挟めず、はらはらと二人を見比べる。
「父さん、私は正直に話すが、これで縁を切ると言われたらすぐにここを出て行くつもりだ。だから安心して欲しい」
「あ? 何言ってんだ、お前は。縁を切るなんて、軽々しく言うんじゃない」
柄の悪い言葉で返すラゴニスの空気が、ぴりっと辛みを帯びる。切れ長の目を細め、睨むようにフランジェスカを見た。
怒った時のフランジェスカと空気がそっくりだ。
ラゴニスは鍛冶屋をしているが、剣の腕も立つ。フランジェスカに剣を教えたのがラゴニスなのだから、その腕前も推して測るべしというものである。
ラゴニスが怒ったことに安堵を覚え、フランジェスカは恐々と事情を話した。
話を聞き終えたラゴニスは、怒るでも嘆くでもなく、静かにフランジェスカを見据えた。そして、やおら席を立つ。
フランジェスカの肩がびくりと揺れる。
もしかして見放されたのだろうかと椅子の上で身を固くしていると、そんなフランジェスカの頭に、ラゴニスは軽く拳を落とした。
「……この馬鹿娘が。エレノイカには相談して、実の親には相談せんとは何事だ」
眉を吊り上げて説教するラゴニスを、フランジェスカは呆然と見上げる。ますますむすっとするラゴニス。
「なんだ、俺がお前を見捨てると思ったのか? 軽く見るんじゃねえ。たった一人の家族を見放すほど、俺は腐っちゃいないんだ」
拳がそのまま広げられ、フランジェスカの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ始める。
フランジェスカは口を引き結んだ。
「父さん……」
唇がわなないて、言葉を紡いだ。
――怖かった。
もう居場所はないのではないかと考える度、胸の奥をぞっとするような寒い風が通り過ぎて行く。
家族に話して、厄介者扱いされたらと不安にさいなまれる日もあった。
自制心はあったから、それを表に出したのは、収穫祭で修太に愚痴を言ったあの時だけだったが、常に不安は傍にあったのだ。
もし騎士団に戻れなくても、父親が許容してくれたから、フランジェスカにはそれで充分だった。
――ポタリ
樫の木のテーブルの天板に、雫が落ちる。
フランジェスカは驚いて、目に手を当てる。
「……え?」
どうやら泣いているらしい。そう気付いても、涙が次々溢れて止まらない。
「――頑張ったな」
頭の上から温かい声が降って来て、胸の奥がぎゅっと掴まれたみたいな切なさに襲われる。
それで、フランジェスカはラゴニスに勢いよく抱きついて、今まで我慢していたこと全てを投げだして泣くことが出来た。
声を上げて子どもみたいに泣くフランジェスカの背を、ラゴニスはポンポンと叩いてやりながら、自身も鼻をぐずつかせる。
同席していた啓介は良かったなと笑顔を浮かべ、隣のピアスはもらい泣きして、ハンカチを顔に押し付けて一緒に泣いていた。
「しっかし、驚いたな。〈黒〉ってぇのが、実は鎮静の作用を持つだけの存在だってのは。エレノイカの占いの腕もすげえ」
場が落ち着いた頃、すっかり冷めた豆茶を淹れ直し、一口すすってからラゴニスは感心気味に言った。
「信じるんですか?」
ピアスが驚いた様子でラゴニスに問う。
ラゴニスの左隣の席では、フランジェスカが濡らしたタオルを目元に当ててうつむいている。啓介やピアスの前で大泣きしたのが恥ずかしいらしいが、フランジェスカの事情を考えればあれくらい普通だと思うので、啓介もピアスも気にしていない。
「お嬢ちゃんはセーセレティーの民か?」
「ええ」
「だったら良い事を教えてやろう。うん。うちの国の国教は白教だが、だからと言って、全員が熱心な信徒ってわけじゃあねえ。俺は元々信仰心が薄くてな。ま、かみさんが熱心な信徒だったんで、よく神殿には参ってたが……。フランも、ちとかみさんに洗脳されちまってたとこがあったしな」
ラゴニスを、フランジェスカはタオルをずらして、じろっと睨む。
「洗脳などと人聞きの悪いことを言うな」
「かーっ、分かってねえな。お前は頭が固いから、信じ込みやすいんだ。いいか? 教育ってぇのは少なからず洗脳するようなもんだ。周りがそれが普通な環境で育てば、それが普通だと思いこみ、違うことがあれば排除する。ま、そんなもんだな。俺はかみさんに一目惚れしてこの国に居着くまでは、冒険者しながらあちこち旅してたから、この国の異常さもちゃんと弁えてる。それでもまぁ、〈白〉至上主義や〈黒〉差別さえ目を瞑れば、治安も良いし住むには良い国だよ。ルールさえ外れなきゃいいんだからな」
周囲を見回し、潜めた声でそう言うラゴニス。どこに耳があるか分からないから警戒するものらしい。
意外そうに目を丸くする啓介やピアスを見て、ラゴニスは苦笑する。
「疑ってんだろ? だが、ほんとだぞ? ちっと問題はあるが、道徳観がしっかりしてるからな。治安は良いから、老人や女子どもにも住みやすい国だ。そういう所は少ねえからな」
「そうなんですか……」
啓介がぽかんと呟く。
「そうだ。それぞれの町に巡回する騎士がいて、モンスターや盗賊が出ればすぐに出動要請が行く。しかも、町民同士のもめ事も神官が出向いて仲裁するし、女子どもや老人に暴力を振るうのは、宗教的に非道徳として重い罰が下される。更には十五歳未満の子どもは孤児院で育てられるから浮浪児はほとんどいないし、孤児の行き先すら厳密に審査されるっていうんだから、すげえだろ?」
「それはすごいわ」
ピアスは目をまん丸にして頷く。
「水商売の連中も、この国じゃ一つの仕事として認められてるから、差別されたりもしねえしな。そういう店も、犯罪に走らないように法整備されてんだぜ?」
「……待て、クソ親父。何でそんなに詳しいんだ?」
ポンとラゴニスの左肩に手を乗せ、フランジェスカは冷やかに笑う。ラゴニスは顔を引きつらせる。
「い、いや、ほら、そういうのは男のたしなみっていうか……」
「行ったことあるのか?」
「まさか。母さんと結婚してからは行ってないぞ!」
「ということは、行ったことがあるんだな! 不潔だ!」
がたっと椅子を蹴立てて立ちあがり、フランジェスカは虫けらを見るみたいな目でラゴニスを見た。
「不潔じゃない! いいか、男はそういう生き物なんだ!」
「うるさい、寄るな!」
「フラン、お前、娘に不潔呼ばわりされるのがどれだけ胸をえぐると……っ」
「うるさいうるさいうるさい」
目の前で始まった親子喧嘩の横で、ピアスが啓介に問う。
「ねえ、おじさんはあんなこと言ってるけど、ケイはどうなの?」
「ええっ、俺!?」
とんだとばっちりに、啓介は右往左往する。顔を赤くして、ぶんぶん首を振る。
「行かないよ! 行きません!」
「ほら見ろ、親父。ケイ殿は素晴らしいな」
「んなこと言って、小僧、お前も数年したら行くようになるんだ」
「行きません!」
すっかり場が滅茶苦茶になってしまった。
家の裏でこっそり話を聞いていたサーシャリオンが、阿鼻叫喚の事態に「ぶふっ」と吹き出し、腹を抱えて笑っていたのは、もちろん誰も知らない。