悪女、覚醒する
――わたしはどうして生まれてきたんだろう。
物置き同然の薄汚れた狭苦しい部屋の片隅。布切れをかき集めて作ったようなお粗末な服に赤いシミをいくつも拵えた少女は、今にも息絶えようとしていた。
彼女の名前はアルストロメリア・フィガート。数多の優秀な召喚士を輩出してきたフィガート家の長女だ。……その存在は隠されてきたが。
アルストロメリアには召喚できる契約獣がいなかった。一般的には召喚士となる人間は十五歳になるまでに少なくとも一体の契約獣を使役する。しかしどういうわけか、アルストロメリアは選ばれなかった――どんな契約獣も、彼女との契約を拒んだ。
これにフィガート家現当主でありアルストロメリアの実父カイロス・フィガートは激怒し、十五歳の誕生日を迎え結局誰とも契約を交わせなかったアルストロメリアを殺す気で暴行をくわえた。普段からまともな食事も与えられてこなかったアルストロメリアは抵抗することもできず。なすがままに虫の息だ――これがアルストロメリアが息絶えようとしている今に至るまでの経緯である。
――わたし、死んじゃうんだなぁ。
霞む視界の中、死神が着々と忍び寄ってきているのを実感する。
――……わたしに、生きる価値なんてなかったんだなぁ。
「本当にそう思う?」
――え?
突如聞こえてきた自分以外の声に、アルストロメリアは思わず目だけ動かして周囲を確認した。
「あぁ、ごめんなさい。貴女、今死にかけてるものね。私が動くわ」
声の主は床に倒れたまま動けないアルストロメリアの視界に入れるようにしゃがみ込んだ。アルストロメリアにはぼんやりとしか姿が見えなかったが、きっと美しい女の姿をしているのだろう、と察せてしまうほど立ち振る舞いが清廉としていた。
――だれ……?
「そうねぇ……貴女のことをずっと見ていた、ただのしがない亡霊みたいなものよ」
――わたしを……?
「えぇ。貴女の前に出てくるつもりはなかったのだけど、貴女が死にかけてるものだから居ても立っても居られなくなったのよ」
――……あなたは、優しいひとなんですね。わたしみたいな無能を気にかけてくれるなんて。
「ふふ、優しいと言われて悪い気はしないわね。じゃあ、そんな優しい私から提案よ」
アルストロメリアの視界は変わらず霞んだままで、女の表情は読み取れない。しかし今は笑っているのだろうな、と楽しそうな声音で判断できた。
「貴女の体、私にくれないかしら?」
――え……?
「私、訳あって肉体が無いのよ。貴女の肉体の主導権を譲ってくれるならもっと私のしたいように動けるし……貴女の無能令嬢、なんて汚名も払拭してあげるわ」
――!
「どう? 悪い提案ではないでしょう?」
――……。
アルストロメリアはしばしの間押し黙った。女はアルストロメリアの返事を律儀に待っているようで、何も喋らない。しばらくの間続いた沈黙は、アルストロメリアによって破られた。
――……亡霊さんに体を譲ったら、わたしも何かを残せますか?
「たとえ魂が違っていたとしても貴女の体でやったことだもの。私の行いが貴女の行動として周囲には映るのよ。それが倫理に反することでもね」
――……。
「……さ、どうするの?」
アルストロメリアの答えは決まっていた。
――わたしを、終わらせてください。
アルストロメリアは疲れ切っていた。やっと終われる、そう考えただけで心がどれほど楽になったことかわからない。その上何一つ持たない自分が人様の願いを叶えられるのだ。こんなにも幸せなことはないだろう。
「そう」
女は短く答えると、アルストロメリアの手をとった。すると先ほどまで感じていた体の痛みがすぅっと消え、嘘のように体が軽くなった。
「もう嫌だ、転生したくもないと考えるのならこの穴の中に入りなさい。もちろん、無理強いはしないけれど」
「……入ります。わたしは、もう苦しみたくない」
「……そう。ねぇ、アルストロメリア。貴女は何もないと言っていたけれど」
女は微笑んだ。その顔はアルストロメリアが生まれてこの方見てきた何よりも美しかった。
「貴女の苦しみ、悲しみは貴女だけのものよ。たとえ貴女をずっと見てきた私でも、それを共有できたりはしないわ。覚えておいて」
「! ……はい。ありがとうございます」
アルストロメリアは穴に足を踏み入れる。彼女の体がすっぽりと穴の中に入り、目を閉じた瞬間――穴は閉じられた。
「……ふぅ。ようやく外に出られたわね」
ボロ切れ同然の服を纏った体を起こし、アルストロメリア――いや、アルバローズ・メルクリアは背伸びをした。いつの間に治したのか、アルストロメリアの体にあったはずの怪我はすでに塞がっている。
「それにしても派手にやってくれたものね。実の娘にここまで手をあげられるなんて……ひどい男もいるものだこと」
ぐっぱぐっぱと右手を何度も開いては閉じ、動きを確認する。問題なく治癒は完了しているようだ。
「さすがね、レクイエス」
「当然だ、アル」
アルバローズが自身の影に視線をやりながら呼び掛ければ、影から青年が現れた。新雪を思わせる真っ白な髪を軽くまとめた、死神を彷彿とさせる黒い外套姿の青年――レクイエスは、アルバローズの影から抜け出すと彼女の前に跪いた。
「俺の力の全てを用いてお前の体は万全にしたつもりだが……何か違和感を感じたらすぐに言え。お前の憂いを取り払うのが俺の役目だ」
「今のところは何もないから大丈夫よ。強いて言うならお腹が空いたくらいかしら」
「空腹か……。それは俺でもどうにもできないな」
「良いのよ、貴方に頼りきりになるつもりはないわ。それよりほら、行きましょ? お別れの挨拶をしてこないと」
「お別れの挨拶?」
「えぇ。――こんなみすぼらしい檻に閉じ込められ続けるのは性に合わないもの」
笑みを浮かべたアルバローズは、さっさと立ち上がると先ほどまで死にかけていたとは思えない軽い足取りでまっすぐに屋敷の中を進んでいく。
「!? アルストロメリア様!?」
道中出くわした使用人たちは皆一様に驚愕の表情を浮かべていたが、アルバローズは一切気にせず突き進む。目当ての人物は家族団欒の時間を楽しんでいたようで、アルバローズが部屋に乗り込むと妻のエルン、次女のイルミナと共に目を見開いていた。
「なっ、アルストロメリア!? なぜ生きている!?」
「ご機嫌いかがかしら、お父様? 正直貴方のような小物を父と呼びたくはないけれど……まぁこっちの方がややこしくないし特別にそう呼んであげるわ」
「お前、旦那さまに向かってなんてことを言うのですか! この恥知らず!」
「そうよ! 何の力もないお姉さまが今の今まで生きてこられたのは全部お父さまのおかげなのよ!? ほんっとこれだから無能は……!」
「あら、実の娘を殺す気で手をあげた恥知らずを庇うなんて……あなたたちも相当な恥知らずよねぇ。どうでもいいけれど。それより、お父様。私たち、縁切りましょ?」
アルバローズが笑みを浮かべると、カイロスは言葉を失っていた。
「お前、正気か?」
「えぇ、正気も正気よ。私のことを殺したいくらい憎んでいるのでしょう? ならあなたにとっても良い提案のはずよ。違う?」
「……ふっ、あはははは! お姉さまってばとうとうおかしくなっちゃったの? お姉さまみたいな無能が一人で生きていける訳ないじゃない! これ以上恥を晒さないためにもお父さまはお姉さまを殺そうとしたのよ? そんなこともわかんないなんて、ほんっとおかしい!」
「いっそまた殺しにかかった方が良いのではないですか? 旦那さま」
「お母さまにさんせー! ね、また殺しちゃおうよお父さま。わたしも手伝うよ?」
イルミナはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、自身の契約獣ケルカを召喚した。とぐろを巻いた大蛇は、アルバローズに威嚇するようにシャー、と一鳴きした。
しかしアルバローズは動じない。微笑みを浮かべたまま、ケルカをじっと見ている。精神的に優位に立たれているのだと悟ったイルミナは、苛立ちを隠そうともせずケルカに命ずる。
「ケルカ、あいつ殺しちゃって!」
「シャー!!」
アルバローズ目掛けて飛びかかるケルカ。大蛇の毒牙がアルバローズにかけられる――そのすんでのところで、ケルカの喉を握る手が宙から現れた。
『!?』
「……死にたいらしいな?」
手は迷わずケルカの喉を握り潰した。大蛇は断末魔の悲鳴をあげることなく、その場に毒液を撒き散らし体を霧散させた。
「アル、大事はないな?」
「えぇ、もちろん」
外套を翻して現れたレクイエスは、素早くアルバローズの体を抱え込んだためケルカの毒液は一滴たりともアルバローズにかかっていない。
「な……なんだ、そいつは……」
「この子? 私の相棒よ。健気で可愛いでしょう? それより縁を切る話だけれど」
「お前、いつの間に契約していた!? なぜ隠していた、おまけに見たこともない契約獣だと!? 詳しく言え! そうすれば殺さないでおいてや――」
カイロスの言葉は最後まで紡がれなかった。レクイエスが大鎌の刃先をカイロスの喉に突きつけたからだ。
「ふふ、学習しないわね。わからないの? あなたたちの命は私の掌の上にあるのよ。私が一言殺せと命じれば、レクイエスは一瞬であなたたちの命を刈り取るわ」
「そ、そんな……ことが……」
「できるわよ? 聞き分けのない人たちだこと。……あぁ、それとも。実際に体験しないとわからないかしら?」
「ひっ!?」
エルン、イルミナの喉元にも黒い刃先が突きつけられる。死が目前に迫った感覚に、三人とも言葉を失ってしまった。
「あぁやっと静かになった。もう良いわよね? 私とは縁を切るってことで」
「構いません構いません!! 好きにしてください!! なので、い、命だけは……!!」
「あら、案外簡単に壊れるのね。つまらない男。レクイエス、行きましょ。貴方のその鎌を振るうのに相応しい相手はもっといるわ」
「あぁ」
レクイエスが構えを解くと、途端に鎌も黒い刃も霧散した。アルバローズは泡を吹きそうなほど震える三人に背中を向けると、一度だけ手を振ってその場を後にした。
「これからどうする」
身なりをある程度整えてからフィガート邸を後にしたアルバローズは、隣を歩くレクイエスに視線をやった。
「そうね、まずは冒険者ギルドに登録して身銭を稼ぎましょ。話はそこからだわ」
「そうか」
「遠慮なく頼らせてもらうわよ、レクイエス」
「あぁ、遠慮なく俺を使え。俺はどんなことがあろうとお前と共にいる」
「頼もしい限りだわ」
笑みを深めたアルバローズは依然として歩みを止めない。心なしかその歩みは軽やかなものに見えた。




