↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

どうせ生まれ変わるなら

作者: 木嶋うめ香
掲載日:2026/09/26

 どうせ生まれ変わるなら、人間じゃなく鳥とかが良かった。

 野外での生活は夏は暑くて冬は寒いだろうし、それはとても辛いかもしれないけれど、どこにでも自分の翼で自由に行けるし、なにより自力で自分の腹を満たせるもの。

 虫や木の実を喰んで生きていける、どうせなら鳥に生まれたら良かったのに。


「はあ、お腹が空いたわ」


 朝日が昇り部屋の中が明るくなるとすぐ、身支度もそこそこに刺繍を始めた私は井戸水を飲んだだけじゃごまかせない空腹をお腹を両手でさすりなだめながら、考えても仕方がないことを考えていた。

 生まれ変わるなら……なんて、私は人に生まれたのだから考えてもどうしようもない。

 だけど、どうせ生まれ変わるならせめて自力で食料調達出来る動物に生まれたかったと、わりと切実に思う。


「生まれ変わるって漫画みたいだわ。なんて感動は一瞬だったわねえ」


 なにせ生まれ変わったのを後悔するくらいに、貧乏なのだ。

 この世界は前世で読んでいたファンタジー漫画によくあった魔法があって魔物がいたりする世界で、私が生まれたこの国は王政で、その下に貴族がいてさらに下に平民がいる。

 魔物がいるとは言っても、私が暮らしている王都内に魔物はほぼ出ることがないからその点では問題はない。

 私の目下の問題はお金がないことだ、冗談にならないほどお金がない。

 以前日本人だった記憶を思い出してもそれで稼ぎが増えるわけではなく、人である限り虫や草だけを食べて生きることは出来ないのだから、歯を食いしばって生きるほかない。


「刺繍を今日中に仕上げてこれをお店に納品したら、帰りにパンを買おう。それを楽しみに頑張るしかないわ」


 安い食材を買ってスープでも作りたいところだけど、薪代を考えたら値下げされている前日の売れ残りのパンを買って、井戸水でふやかしながら食べたほうがいい。

 味はともかく、お腹が膨れるからそれで十分だ。

 真冬ならともかく、それ以外の季節にお湯なんて沸かせない。

 弟にはそんなこと強制できないけれど今この家に暮らしているのは私一人なんだから、節約できるところは全部切り詰めている。


「水浴びできる季節になって良かったわ、冬は本当に辛かったもの」


 弟は学校の寮で暮らしているし、お母様はお祖父様の暮らす田舎の領地で療養中、使用人は誰もいなくて私だけだからできることだ。

 馬車代は出せないから卒業まで家に帰ってこないで欲しいと弟にお願いしたのは、寮にいるかぎり食事は三食出るしお湯も自由に使えるからだ。

 可愛い弟に真冬に冷たい水で顔を洗わせるとか水浴びとかさせられないし、水でお腹を膨らませるなんてもっとさせられないし、させたくない。


「あの子が頭が良くて良かった。授業料免除は大きいもの」


 弟が入学試験で上位の成績を取ったお陰で、弟の授業料と入学金が免除になった。そうでなければとても通わせるのは無理だっただろう。

 それでも寮費と食費はかかるから、そのお陰で今の私はダイエットなんて必要ないほど質素倹約の生活をしている。まあ、この世界にダイエットなんて言葉はそもそもないけど。


「もう少しで二年分の寮費と食費が貯まるわ。それまで何とか仕事と節約を頑張らなくちゃ。半年でよく頑張ったわ私」


 自分を励まし針を手に取る。

 お母様が病に倒れるまで刺繍の仕事を受けていた仕立て屋の店主さんが、我が家の懐事情を知って私に仕事を回してくれるようになったのは一年前のこと。

 お父様が亡くなった後お母様は刺繍の仕事を、私は元乳母がやっているまじない屋の弟子として守り袋を作る仕事をして生計を立てていたけれど、ある日お母様が病に倒れ状況が一変した。

 店主さんがお母様がしていた仕事を私に回してくれなければ、三人は露頭に迷っていたかもしれない。

 店主さんのお陰で生活できた上、半年後に迫った弟の一年分の寮費と食費を貯められた。そして弟が頑張って勉強し授業料と入学金免除を勝ち取ったから、彼を入学させてあげられたのだ。

 店主さんにはとても感謝している、どうみても浮世離れしたお母様だけでなく私にまで仕事を回してくれたお陰で私は今も生きていられるのだから。


「はあ、お母様少しはお元気になったのかしらね」


 こんな貧乏人がお母さんではなくお母様と呼んでいるのは、男爵家の令嬢だったお母様の話し方を私達もお受け継いだというか、お母様から話し方を習ったせいだ。

 お父様は平民なのに、お母様は自分が元貴族だということにこだわっていたのだと思う。

 両親は恋愛結婚だったと、以前乳母から教えてもらった。

 どうやって出会ったのか分からないけれど、お母様は親が決めた相手との婚約を嫌がって家を出て、平民ながら下級文官をしていたお父様のところに押しかけたのだそうだ。

 当然母の両親は怒って二人の結婚を認めなかったし、私や弟が生まれても没交渉だったけれど、数年前にお父様が馬車の事故で亡くなり、そこからお母様が仕立て物や刺繍の仕事で私と弟を育て始めたと風の噂で知るなり戻ってこいと言い始めたらしい。

 お父様が亡くなった後、何度か平民が使うには上等そうに見える紙が使われている手紙が届いていたのは気が付いていたけれど、お母様がそれを読まずに捨てようとしているのを見て、それをこっそりと持ち出し、元乳母に手紙を見せて私は初めて両親の事情を知った。

 手紙には王都の家を売り、家に戻ってくるようにと書いてあった。何度も手紙を書いたのに返事が無いので心配しているとも。

 それでも意地を張って王都で暮らすのを止めようとしなかったお母様は、ある日無理がたたって病に倒れてしまった。

 栄養のあるものを食べてゆっくり休めば時間はかかっても良くなるものだったけれど、お母様を支えるのが成人前の私と入学試験準備中の弟の二人では、とてもお母様を休ませるなんて出来なかった。

 だから元乳母に相談してお母様の両親、私は顔も見たこともない祖父母に連絡を取り何度かのやり取りの後で、お母様をお祖父様が治めているという小さな村に送った。

 私が王都に残った理由は、お母様が家を手放す決心をつけられなかったからだった。

 小さいけれど私が今暮らしているこの家はお父様が建てた家で、家族の思い出が詰まっている。

 井戸があるだけの小さな庭と両親の寝室に私と弟の共同の部屋、それに台所と居間だけの小さな家だけれど、お母様はどうしても他人の手に渡したくないと言って誰かに貸すのも嫌がったのだ。

 この家を売るか貸すかすれば、私と弟の生活はもっと楽になっただろうけれど、どうしてもそれは嫌だというお母様の気持ちを無視することは出来なかった。

 だから、私は一人で暮らしている。

 基本井戸水と掌よりも小さなパン一つが私の一日の食事で、たまに仕立て物屋の店主さんが果物や野菜をくれたり、まじない屋の元乳母が作った日持ちする焼き菓子を持ってきてくれたりする。

 周囲の優しさに支えられながら私は、刺繍を仕上げお守り袋を作ってなんとか暮らしているのだ。


「弟が卒業するまでの我慢よ。卒業したら、自分のためだけにお金を使えるようになる」


 空腹が辛くなると、何年も先のことを考え現実逃避する癖がついた。

 弟は王都にある学校に通っている。

 学校は三年通う必要があり弟は半年前に入学したばかりだけれど、今の私の楽しみは弟の卒業だ。

 弟は優秀だから、きっと文官になれると思う。

 平民だったお父様は下級文官までしかなれなかったけれど、貴族籍があれば上級文官の試験を受けられるから、きっと弟は上級文官を目指しているのだと思う。

 あの子は頭がいいし努力家なのだ。

 父が平民だったからお母様が男爵家の出でも私も弟も平民だった。でも、お母様をおじい様のところに送る時におじい様が私たちのことを男爵家の籍に入れてくれたから、今は私も弟も一応は貴族になれた。

 平民と貴族の差は、どんなところでも大きいのだと私は手続きをしてから知った。

 文官の試験ひとつでもその差は歴然だ、どんなに頭が良くても平民は上級文官の試験は受けられない。

 下級文官と上級文官は、仕事の内容が勿論違うのだろうが給料が全然違う。

 下級文官と上級文官では、入ったばかりでも三倍以上給料が違うのだ。

 お母様の実家は村二つだけの小さな領地しかもっていないからあまり裕福とは言えないし、お母様を送った後でおじい様からお母様の兄に代替わりしている。

 お祖父様はもう自由になるお金が無いから私と弟に支援は出来ないと謝ってくれたけれど、お母様が村に行けるだけのお金を送ってくれただけでなく、私たちを男爵家の籍に入れてくれて、今お母様を見てくれているだけで十分だ。

 なにせ私たち姉弟に希望を与えてくれたのだから。

 

「貴族になったといっても、私は学校を出てないから読み書き出来ても難しい本は読めないし女官の試験も受けられない。なにせこの国の歴史どころか、地理も分からないのだもの。前世日本人の記憶があっても本当に役に立たない」


 私が前世の記憶を思い出したのは、弟が学校に入ってすぐのことだ。私は疲労と栄養不足から倒れて一度死にかけ、その時に思い出したのだ。

 倒れた理由は簡単だ、収入の殆どを弟の寮費と食費用に貯めていて、極限まで切り詰めた生活をしていたのが原因だった。

 あの時元乳母が家を訪ねてくれなければ、多分死んでいたと思う。

 元乳母は彼女の夫の死後、一人で五人の子供を育てている。

 一番下はまだ七歳になったかならないかくらいの幼さだから生活の大変さは私以上だというのに、あの時は私の世話までさせてしまって申し訳なかったけれど、お陰で私は今も生きている。

 そんなわけで死にかけた時前世の記憶を思い出したのだけど、そんなものを思い出しても何の役にも立たなかった。

 何か生活が楽になるような知識があれば良かったけれどそんなものないし、前世で食べ慣れた料理をしたくても材料を買うお金はないし、誰かに腕を振るう機会もない。

 

「前世の記憶なんて何の役にも立たないと思っていたけれど、刺繍作家だった頃の記憶と技術は、一応役に立っているのかしらねえ」


 前世日本に生きていた私はネットで作品を売る手芸作家で、その中でも刺繍が得意だった。

 リボン刺繍もフランス刺繍も日本刺繍も出来たし、誰よりも手早く美しい作品を仕上げられるのが密かな自慢だった。

 動物を刺繍したブローチや、トートバッグにリボン刺繍したものは大人気で作っても作ってもすぐに売れたほどだった。

 ジャンル関係なく様々な技法で刺繍作品を作る私を節操がないと言う人もいたけれど、私はそんなこと気にしなかった。どんな技法でも思いついたデザインを形にできるなら私はそれで良かったし、刺繍をすることが楽しくて仕方がなかったのだ。

 この世界に生まれてお母様に刺繍を習いだしてすぐに売り物を作れるくらいの腕になったけれど、それは単純に前世でやり慣れたことだったからなのかもしれない。

 体は違うのに、技術は前世のままだというのは不思議だが、困っていないのだからいいのだ。

 刺繍の技術が今の私の生命を支えてくれているのだから、ありがたいことだと思う。


「あぁ、もう一つあったわ」


 ぐぅっとお腹が鳴って、それが合図のように前世の記憶が戻って良かったことをもう一つ見つけた。


「親子の情なんて期待しても無駄、親だからといってずっと子供を大切に思うなんてことはないんだって諦められた」


 両親は愛し合っていた。

 亡くなったお父様は優しく穏やかな人で、お母様のことは勿論私と弟のことも大切にしてくれた。

 お母様はお父様が亡くなるまでは、私と弟を同じく愛してくれていたと思う。

 でもお父様が亡くなった後は、弟だけしか視界に入れなくなった。

 亡くなったお父様に弟はよく似ていて、だからなのかお母様は稼いだお金の殆どを弟に使おうとした。

 自分の食事を減らして弟に食べさせ、私のことは頭の隅にもなくなったのか、ひと欠片のパンさえ渡してくれないこともあったし、勉強もそうだった。

 私には最低限の読み書きを乳母に教えさせただけで後は働かされたけれど、弟は何もさせずに勉強だけさせていた。

 幼い弟はそのおかしさに気がついて、自分の食事からこっそりと私の分を残し後で私に譲ってくれたり、洗濯や掃除を手伝ってくれたけれど、それがお母様に見つかると私だけ酷く叱られた。

 私にはお母様の気持ちが理解できなかった。

 弟に比べたら少しだけ年が上だったけれど、私だってまだ子供だった。

 元乳母の店で小遣い程度稼ぐのがせいぜい、後は家事をするのが精一杯の子供だったのだ。

 お父様が亡くなる前は両親から愛情を向けられていたから、お母様が私を見なくなったのが辛くてたまらなかった。

 自分が何かしてしまったのか、それとも努力が足りなくてお母様は私を嫌いになったのか。

 お父様が亡くなり、お母様が必死にお金を稼ぐのに疲れて倒れるまで、ずっと私は混乱していたのだと思う。

 お母様が私を見なくなった、その事実を受け入れられなかったのだ。


「お母様にとって、お父様がすべてだった。弟はお父様の代わりでしかなかった」


 そんな割り切りができる様になったのは、前世の大人だった自分の記憶を思い出したお陰だ。

 前世の私は平凡な人間だったけれど、それなりに人生経験は積んでいた。

 だから、お母様を自分の母というフィルターをかけた状態ではなく、一人の女性として考えられたのだと思う。

 お母様は、家に迷惑をかけることも気にせずお父様のところに押しかけ結婚し、お父様亡き後は家を売ってお祖父様のところに戻れば生活は今よりマシになったのに、自分が家から離れることになっても家を売るな貸すなと私に約束させた。

 私の生活よりも、お父様との思い出の方がお母様には大切なんだと言ったも同じだと、彼女は気が付いていただろうか。

 いいや、私のことなんて思い出しもしないだろう、なにせ彼女がお祖父様のところに行ってから一度も手紙すら来ていない。

 お母様の様子を知らせるお祖父さまと伯父様の手紙が、私がお母様のことを知るすべてだ。

 私が何度お母様に手紙を送っても、その返事が来たことは一度もないのだから。


「そういえば、あの人悪い人じゃないのよ。と、あの人いい人なんだけどねって言われる人は、どっちの方が酷い人なのかなんて話、前世でしたことがあったわね」


 お母様は悪い人じゃないのよ。とは思うけれど、いい人だとは思えない。

 悪い人じゃないけれど、お父様が好きすぎてお父様がもうこの世にいないことに耐えられなくて、弟をお父様の代わりにして、私を視界に入れようとしなかっただけなのよ。と悲しく思う。

 お母様にとって、お父様がすべてだった。お父様がいなくなった後は、お父様によく似た弟だけがすべてになった。

 簡単に言えばそれだけなのだ、私という娘は大切ではなくなっただけ。

 そう割り切ることは、前世の記憶を思い出した後で何とか出来るようになった。

 愛されなくなったのを仕方がないと割り切ることはできても、お母様は最愛のお父様を亡くして辛いのだから私を見なくなっても私がお母様を気遣ってあげなくてはいけない。とは、今の私の頭でも思ってあげられないし、前世を思い出す前はもっと無理だった。

 なぜ自分は視界にいれるのも嫌だとばかりに拒否されてしまうのか、お祖父様のところに向かう馬車に乗せた時もあの人は弟の名前しか呼ばなかったし、弟と離れるのが嫌だ、家を絶対に売らないでくれとそれしか言わなかったのはどうしてなのか。

 私だってお母様の子供なのに、それなのに私を見てくれないのはなぜ? と悲しくて仕方なかった。


「お母様は悪い人じゃないのよ。お父様を愛しすぎていただけなの」


 弟は、お母様がなぜ自分だけに声をかけるのか全く理解できていなかった。

 私だって、お母様を見送った時は記憶を思い出す前だから、同じく理解できなくて悲しかった。

 それでも、なぜ名前を呼んでくれないの、私だってあなたの子供なのにと。悲しむ私に弟が「僕が一日でも早く、姉様を守れる大人になりますから。僕たちは互いが唯一の家族ですから、早く大人になって僕が絶対に姉様を守ります」と、去っていく馬車を見つめながら誓ってくれたことに救われた。

 だから私は弟の為に出来ることを精一杯しようと決めたのだ。

 

「あの子があの時誓ってくれたから、多分私は死なずに耐えられたんだわ」


 お母様がお祖父様のところに行って、弟は学校の寮で暮らし始め、私はこの家に一人残った。

 私をまじない屋の弟子にしてくれた元乳母や、仕事をくれる仕立て屋の店主さんのお陰で得た僅かな稼ぎはあっても生活は苦しくて倒れてしまった。

 あの時は体よりも、心が疲れ果てていた。

 このまま目覚めなければ辛い生活なんて送らなくて済むと、その考えが一瞬頭を過ったけれどその時弟の言葉を思い出したのだ。

 お母様だけでなく顔を合わせた事のない祖父母も存命だとしても、弟は私だけが唯一の家族だと言った。

 私を守れるように、早く大人になると誓ってくれたのだ。

 それなのに、私がここで死んでしまったら弟がどれだけ悲しむか分からない。

 この先に幸せなんてあるか分からないけれど、それでも生きなければ。

 私は生きて、せめて弟の卒業を見届けなければいけないのだと気力を振り絞った。

 その途中で私は以前の記憶を思い出し、偶然尋ねてきた元乳母に助けられ死なずに済んだのだ。


「考えても仕方ないわね、お母様のことなんて考えてもお腹はくちくならないわ」


 不毛なことを考えても仕方ないと、刺繍をする手を止めて伸びをする。

 ずっと同じ格好で刺繍していたから、肩がこり固まっている。


「魔法がある世界に生まれたのに、私なんてまじないが出来る程度しか魔力の使い道がないなんてねえ」


 チートもなにもない生まれ変わりなんて、何の意味があるのか分からない。

 魔力があっても僅かだし、前世の知識なんて役に立たないし。


「駄目ね、今日は考えても仕方のないことばかり頭に浮かぶわ」


 また刺繍に戻ろうとしても、注意力が散漫になっていて上手く進められない。

 今やっているのは、裕福な商人の娘が着る晴れ着だから、刺繍も複雑な模様を望まれているから気を抜いて出来るようなものではないというのに空腹が酷すぎて集中できない。


「……痛っ。あ、ど、どうしよう布に血がついちゃった」


 ぼんやりしていたせいで指先に針を刺してしまい、一滴の血が布についてしまった。


「ど、どうしよう」


 洗って血を落としたとしても、血の染みは残るだろう。

 しかも一番目立つ襟元の部分に血がついてしまったのだ。

 晴れ着用の高価な布地を弁償なんて出来ないし、今洗っていたら乾くまで刺繍は出来ないから納期にも間に合わなくなる。


「ちょっとでも薄くしないと」


 水差しに残っている水で使い古したハンカチを濡らし、慎重に布を叩く。

 繰り返しそれをすることで薄くはなったものの、ほんの一滴でも血は布ににじんで薄いシミになってしまった。


「幸い裏は大丈夫、見返しのところで布が二重になっているから助かったのね。でも誰が見てもこれはシミだと分かってしまうわ」


 途方に暮れてどうしたらいいのかと必死に考えて、まじないのお守りの口を絞る用として元乳母から預かっている細いリボンの存在を思い出し慌てて戸棚を探し始める。


「淡い桃色と濃い緑色がある、これを組み合わせたらなんとなるかもしれないわ」


 この世界の刺繍は、前世のフランス刺繍でいえばアウトラインステッチやフレンチノットステッチの様なステッチを使ったシンプルなラインのデザインが多い。

  ロングアンドショートステッチの様な刺繍糸を沢山使うものは、平民ではなかなかしたくても出来ないからなのかもしれない。

 勿論世界が違うから、フランス刺繍なんて言わないしステッチにいちいち名前なんてついていない。私が前世を思い出してからそう呼んでいるだけだ。


「この二色なら少し豪華なお花になる、これを納品してお金が入ったらリボンのお金を返そう」


 念のため手を洗ってから、慎重に桃色の細いリボンで薔薇の花を刺し始める。幸いリボンは薄い布が使われている細いものだから刺繍針にも通せるしリボン刺繍できるだけの長さもある。

 リボン刺繍は立体的で見栄えがするけれど刺繍の難易度は高い。リボンを引きすぎると薔薇の形が小さく固くなってしまうから、慎重で丁寧な作業が大切になる。

 この世界に生まれてからリボン刺繍をするのは初めてだけれど、失敗したら後がないという危機感から集中できたお陰で半時もかけずにドレスの襟元には何輪もの美しい薔薇が咲いた。


「上手くシミは隠れたし、リボンと刺繍糸のバランスもいい感じ。欲を言えばビーズが欲しいところだったけれど。十分な晴れ着だわ」


 ドレスの裾の部分の刺繍を仕上げ、こちらにもところどころリボンの薔薇を刺繍すると、品が良いとても華やかなドレスに仕上がった。


「あとは気に入ってもらえるかだけど。どうかしら」


 気に入らないと言われたらどうしようもうないけれど、リボン刺繍なんてこの世界にはないから、新しいものが好きな仕立て屋の店主さんはきっと気に入ってくれると思う。

 なにせ、刺繍に関しては最近は私の良いように仕上げてと言うだけなのだ。


「店主さん、頼まれていた刺繍ができましたのでお持ちしました」


 急いでドレスを大きな布に包み、仕立て屋に向かう。

 

「ああ、ありがとう。急いでもらって悪かったね」

「ちょっと思いついたことがあって、手持ちの材料でやってみたところがあるんで確認してもらっていいでしょうか」


 思いついたんじゃなく、苦し紛れなんだけどそんなことは言えないから嘘をつくことを申し訳なく思いながら、ドレスを広げリボン刺繍部分を店主さんに見せる。


「晴れ着だというお話だったので、少しでも華やかになるんじゃないかと思ったんです。私が持っていたリボンなので安いものですけれど、襟元が綺麗に見えませんか?」

「これは……」

「おかしいでしょうか」


 店主さんがドレスを両手で掴み、じぃっと穴が開きそうなほどの目で見つめるから、私の心臓が飛び出しそうに激しくドキドキし始める。

 気に入らないとかおかしいと言われても、もう直せない。

 刺繍をほどいたら、ドレスの布がよれよれになってしまう。


「凄い、こんな華やかな物は始めて見たよ。お前さんが考えたのかい?」

「はい、仕上がったものが晴れ着というには少し地味で。ご兄弟のご結婚のお祝いの時に着るドレスなんですよね。派手という程ではありませんが、この薔薇の花なら品が良く華やかだと評判になるんじゃないかなって」

「うんうん、いいよ。凄くいい、早速届けてくるからこのまま店にいてくれないか。そうだ、材料を用意するからこの薔薇を見本にいくつか刺してもらえないか。手間賃ははずむよ。おい、誰かいないか、新しい刺繍の見本を作ってもらうから。この子に聞いて材料を用意してくれ」


 店主さんの勢いに驚いて何も言えなくなる、まさかここまで気に入ってもらえると思わなかった。

 これなら、まじない用のリボンも譲ってもらえるかもしれないと考えるのは虫が良すぎるだろうか。


「店主さん、あの勝手して申し訳ありませんが、このドレスに使ったリボンなんですけど」

「ああ、リボンは新しいものを渡すよ。その代わりもし注文が入ったら頼むよ」

「はい、それはもう喜んで」

「これはうちの店の売りに出来る。あんたの刺繍は元々出来がいいと評判だったんだ。これから沢山注文するからそのつもりでいてくれ。うちの連中は刺繍より縫いたいって者ばかりだからね、あんたが引き受けてくれるなら助かるよ。これを見たら注文が増えそうだしね」


 早口でそれだけ言うと、店主さんは慌ただしく出て行ってしまった。


「店主さん、一体何を準備したら。あら、もう出ちゃったの? じゃああんたに聞いたらいいのかな」

「あの、はい。ええと、細いリボンをお願いします。花になりそうな色と葉っぱの色のものをそれぞれ何本かと、それに合う刺繍糸と、見本にしてお客様に見せられそうな布も何枚かお願いします」


 店の奥から出てきた人の顔を見て、私の顔が引きつってしまう。

 店主さんの呼びかけに店の奥から出てきたのは、お針子の中でも一番年上の人だった。

 この人はこの店のお針子をまとめる立場の人だったと思う。つまり、この店のお針子の中でも仕事に厳しい人が出てきてしまったのだ。


「リボン? 刺繍に使うのかい? 聞いたことないけどねえ」

「あの、ちょっと思いついてやってみたら、店主さんが気に入ってくださって」

「へええ、それはそれはあんたが刺しているところを見てもいいかな。私刺繍を刺すのはそんなに好きじゃないけど見るのは好きなのよ」


 手早く材料を用意するとお針子さんは私を商談用のソファーセットに座らせ、自分はその向かいに腰を下ろしてしまう。

 物凄くやりにくいけれど、お客さんの前で刺繍するのは前世で慣れている。

 ネットでも作品を売っていたけれど、ハンドメイドマーケットにもよく出店していて店番しながら刺繍をしていたし、バッグなんかだとその場でイニシャルを刺繍したりもしていたのだ。

 腕に自信があっただけでなく、刺繍するのが早いからこそできたことだと思う。


「見本なので、ここにいくつか刺して、布を板かなにかに貼るといいかと思うんです」


 この人に気に入ってもらえたら、きっと今後の仕事につながる。

 私の仕事が増えたら、それだけ弟に渡してあげられるお金が増えるんだから、今が頑張り時だと用意してもらった材料をテーブルに広げながら提案する。


「なるほど、それは見やすくていいね」

「では試しに一枚刺してみますね」


 用意してくれたのリボンは、さすが仕立て屋だけあって私が使ったものより上等なもので、薄い生地なのに艶があって色も綺麗だし、とっても刺しやすくて嬉しくなる。


「こうやって、花をまず刺して……どうでしょう」


 好きなだけ材料を使って刺せる幸せに、頬が緩みそうになりながら小さな薔薇の花をいくつか刺して、その周囲に緑のリボンで葉っぱを刺して、刺繍糸で花と葉っぱをつなぐ。

 ちょっとの時間でなかなかのものが刺せたと思う、自画自賛だけど額装したら壁飾りにも出来そうだ。


「本物の花みたいじゃないの、こんなのどうやって思いついたんだい」

「何か華やかな飾りが作れないかなって考えながらこうやって布の端を折っていて、これを上手く布に固定したらどうかなって最初に思いついたんですけれど」


 少し幅があるリボンをくるくると折っていき、前世得意だった巻き薔薇を作る。

 これをバレッタの金具に三つつなげた髪飾りとか、レース地の両端にリボンと巻き薔薇を付けたロリータさん向けの頭飾りとかも良く作ったものだ。

 この世界なら、平民でも裕福な家ならフリルとレースたっぷりなドレスを着ているから、ああいう頭飾りを作ってもいいかもしれない。

 ああ、アイデアが湧き出てきちゃうわ。


「ほんとうはこのくらいの幅のリボンがあれば、もっと華やかになったと思いますが私は細いものしか持っていなかったので、それなら刺繍みたいにできないかって」

「この薔薇いいじゃないか、これなら髪飾りが作れるよ」


 店主さんの勢いも怖かったけれど、この人の薔薇を見る目も怖い。

 でも、もしかしたらリボン刺繍だけでなくこっちもお金になるかもしれないから、引きつった笑顔のまま巻き薔薇の後ろを糸で何か所か縫い止めた後、薔薇の後ろの部分に緑色のリボンで作った葉っぱを取り付けてから、小さく丸く縫い絞ったリボンで葉っぱの付け根を縫い隠す。


「髪飾りならこれを飾り櫛に縫い付けるのはどうでしょうか」

「なるよ、いいよ。可愛くて見栄えがするしリボンなら材料費がかからずにできる」

「ですよね、それから見本の方ですが、こんな感じで」


 すいすいと薔薇を刺繍した後、立体の花がいいのであればと巻き薔薇だけでなく、リボンを丸い花びら形に縫い縮めてたものを五枚まとめたものとか、簡単にリボンの端を縫いぎゅっと縫い縮めた花なんかをいくつも作ってそれぞれ布の上に見本として縫い留める。

 リボン刺繍ってやっぱり可愛い、リボン刺繍とステッチを組み合わせて、花束みたいに布の上に飾るだけで心がウキウキして来てしまう。


「いいよ、すごくいい。これとかこっちはリボンじゃなくドレスの共布で作ればいい飾りに出来る」

「はい、そう思います。はあ、いいですね、材料が沢山使えるのって楽しいです」


 ああ、私こういうことするのがやっぱり大好きなんだ。

 この世界に生まれて刺繍を習ってから、材料をなるべく使わないように注意して作っていたけれど、本当はこういう風に思いつくまま材料の残りなんて気にせずに刺繍したかったんだなと実感してしまう。

 楽しすぎて頬が緩んできてしまうわ。


「なんだいあんた笑えるんじゃないか」

「え、あの」

「いつも困ったような顔して、暗い子だなって思ってたんだがねえ」

「それは……愛想がなくて申し訳ありま……あ」


 笑うにも気力がいるのよ、いつもお腹が空いてたから笑う元気もなかったとは言えず謝って誤魔化そうとして、ぐううっとお腹が鳴ってしまう。


「なんだいお腹すいてるのかい」

「早く新しい刺繍を見て欲しくて、食べずに出てきたもので」


 本当は家に食べ物が何もないなんて言えずに誤魔化すと、お針子さんは急に立ち上がり店の奥に消えて行ってしまった。

 まずい、怒らせてしまっただろうか。


「気を悪くさせちゃったかしら。それにしても思いつくまま作れるってやっぱり楽しいなあ」


 一度なり始めたお腹は遠慮を忘れたかのように、ぐうぐうと鳴り続ける。

 それでも好き放題に材料が使える刺繍の楽しさに、私はまた新しい見本を作ってしまう。


「ちょっとそこ片付けて……あんたまた作ったのかい。手早いねえ」

「あ、すみません。ついつい作ってしまいました」


 片付けてと言われて、テーブルの上のものをすべて持ち上げて他の机の上に運ぶと、いい匂いが私の鼻を刺激した。


「あの?」

「店の利益になるものを持ってきてくれたからね、お礼だよ遠慮せずに食べな。私たちの朝のあまりだけどね」


 ことんことんとテーブルに置かれたのは、具沢山のスープが盛られた器と大きなパンがいくつも盛られた籠だった。

 湯気が立っているスープの中には、お肉と人参とお芋が沢山入っている。こんな贅沢なスープはお父様が生きていたころに食べたきりだ。


「いいんですか」

「ああ、おかわりもあるよ。子供が遠慮するもんじゃないよ」

「ありがとうございます」


 恐る恐るスプーンでスープをすくって口をつける。

 お肉の味がする、ちゃんとしたスープだ。


「おいしい、おいしいです」


 まずいと思った時には、涙がこぼれていた。

 時々店主さんに野菜や果物を貰ったり、元乳母からも差し入れを貰ったりしていたけれど、基本的にパン一個と水が一日の食事のすべてだったから、こんなスープが世の中にあるってことも忘れていた。


「あんた立派な家に住んでるし、刺繍の仕事も結構してるのにこんなスープで泣くほどひもじかったのかい?」

「あの家は亡くなった父が建てたもので、母は父が亡くなってから体を壊して今は祖父のところで」

「その話は聞いているけれどね」

「今弟が学校の寮に住んでいて、学費は大丈夫なんですけど、寮費と食費が掛かるので」


 それが無ければ、私一人なら食べていける程度は稼ぎがある。

 でも、弟がいるから私は生きていけるんだから、食費を削ってでも弟の寮費と食費を貯めないなんて選択肢は私にはない。


「それをあんたが一人で賄おうとしてるのかい? あんたのじいさんとやらは」

「母の世話をお願いしているので、それ以上は」

「そうかい、苦労してたんだねえ。どうりでそんなに痩せてると思ったよ」


 もしかして、私はそこまでお金に苦労していると思われていなかったのだろうか。

 まあ、弟の事を知らない人なら、私は一人で暮らしていける程度は稼いでいると思われていたのかもしれない。

 店主さんは知っている話でも、不用意に他の人には話さないでいてくれたのかもしれない。


「あんたが沢山仕事できるっていうなら、これから刺繍の仕事はあんたに任せるよ。かなり頑張ってもらわないといけないけどね」

「あの……いいんでしょうか。お仕事貰えるなら私はいくらでも頑張れますけれど」


 仕事がちょっと大変なくらい、空腹で死にかけるより余程マシだ。

 薪代を気にして真冬に水浴びなんてしなくてよくなるかもしれないなら、何日徹夜したっていい。


「いいなんてもんじゃないよ、私たちは縫うのはいくらでも苦にならずできるんだけどね、刺繍はちょっとねえぇ。なにせうちではあんたの母親が刺繍の仕事を受けるようになって、客の注文に取り入れるようになったから、皆苦手なんだよ」

「そうなんですか?」

「平民には刺繍が沢山入った服なんて贅沢品だからね」


 贅沢品だと言われて、その割に襟元に少しとか裾にシンプルな刺繍とかの注文は結構あったと思うんだけどと首を傾げる。


「仕立て屋に頼むのは懐に余裕がある人間だからね、そういう人は貴族との付き合いもあるから刺繍のドレスとか欲しがるんだよ。あんたが刺繍した晴れ着みたいにね。うちにも昔からそういう注文はあったんだけど売りものになるほどの腕のあるものがいなくてね」

「なるほど」

「小さな刺繍がちょっと襟に入ってるだけで立派に見えるけど、仕立てたドレスに自分で刺繍できるお客もそんなにいるわけじゃないから、縫い賃は上がっても注文したがるのさ」


 なるほど、私はお母様から習ったから刺繍できるけれど、普通の平民はそんな機会がないのか。

 知らなかったな。


「なるほど、そうなると小さな刺繍え見栄えがするものとかも考えたらいいですか? たとえばこういう太いリボンの端に刺繍したり、布製の手提げに刺繍したものなら店先で売れたりしますか?」


 腰に太いリボンを締めてお腹の部分にだけ刺繍するとか、髪飾りのリボンにとか、ドレス全体にするのはお金も時間もかかるけど、そういう刺繍なら皆欲しいと思うかもしれない。

 ああ、刺繍作家だった以前の私の血が騒ぐ。

 資金に余裕があるなら、私がそういうお店を開きたいよ。

 可愛い布の鞄に刺繍とか、スカートの下につけるポケットに刺繍するとかもいいよね。


「なるほど、あんたはそういうのが得意なわけだ」

「多分得意だと思います。なんか色々思いつくけれど、材料が無くてできないだけなので」


 もう私の貧乏っぷりは分かっているだろうから素直に材料が無いのだと言えば、そんなの幾らでも使っていいから人気が出そうなものを考えろと言われてしまった。

 スープを食べて、パンを食べて満足した私は、新しい注文をもらって機嫌よく帰って来た店主さんに見本を見せて、まずは色んな髪飾りや小物を作るよう依頼を受けた。

 材料費は店主さん持ちで、好きなだけ色々と作っていいと言われたら張り切らないわけがない。

 その日から私は狂ったように色々な物を作り続けて、気が付くと仕立て屋さんのお店の一角は私の刺繍した小物が占めるようになり、その売り上げで私は毎日パンとスープを二食食べられるまでになった。

 前世の記憶なんて役に立たないと思っていたけれど、十分私の助けになってくれたのだ。


※※※※※※


「姉様、無事上級文官の試験に受かりました。飛び級で学校も一年早く卒業したんです」


 私が毎日毎日刺繍と小物作りをしていたら、弟がある日意気揚々と帰って来た。

 あと一年学校に通うはずの弟は、なんと飛び級して一年早く卒業したのだという。

 私の弟はどれだけ優秀なのだろうか、それにしても手紙で教えてくれなかったなんて酷い。知っていたらご馳走を作って帰りを待っていたのに。


「そんなに頑張ったのね、偉いわ。一年も早く卒業して、上級文官になったなんて」

「今までありがとうございました、姉様のお陰で卒業できました。これからは姉様に苦労はさせません」


 お金の節約のため二年間弟には帰ってこないようにお願いしていたけれど、会えなかった間にすっかり立派成長した弟はにこにこと笑いながら私の前に立っている。

 学校は王都の貴族街の端にあり、学校とは反対の王都の端にある平民街の我が家に帰るには辻馬車に乗らないと帰れなかったから仕方が無かったとはいえ弟にずっと会えなかったのは寂しかったから、思いがけない帰宅に嬉しさがこみあげてくる。


「一生懸命働いて、姉様に綺麗なドレスを買って美味しいものを食べてもらえる様にします。出して頂いた寮費と食費も必ずお返しします」


 なんとも頼もしいことを言ってくれるけれど、これから働き始める弟にそんな無理はさせられない。


「気持ちは嬉しいけれど、あなたのお給金はあなたのために使っていいのよ。文官になったら同僚とのお付き合いもあるでしょうし、服だって沢山作らなくてはいけないでしょう」


 上級文官ということは、同僚は皆貴族だ。

 私と弟みたいな、一応とつく貴族ではなく本物の貴族だからそんな方々とのお付き合いにどれだけお金がかかるか分からない。


「制服は支給されますし、僕の服なんて気にしなくて大丈夫です。姉様に今まで沢山苦労を掛けたのですから、今度は僕に尽くさせてください。本当に僕は苦労ばかり姉様にかけて、情けないです」


 可愛い弟のその気持ちだけで、私は生きていてよかったと思える。

 本当に、あの時死ななくて良かったと。


「私の唯一の家族だもの、苦労なんかじゃないわ」

「姉様、僕の家族も姉様だけです」


 健気に微笑む弟に私の心がほんわりと温かくなるけれど、続いて聞かされた言葉にその温もりはすぐに冷えてしまう。

  

「上級文官の試験に受かったと知らせただけで、王都に戻るとふざけたことを言い出した女がいましたが伯父上に頼んで領地に閉じ込めてもらっています。姉様は心配いりませんよ」

「え」

「何度か手紙が来ていたんです。会えなくて寂しいとか、僕が夢に出てきたとか、それ以外にも気分が悪くなるようなことを書いて来たので、届いた手紙をすべてまとめて伯父上に送ったら、常識外れの手紙を書くほど病気が酷くなったようだから長くはないだろうと」


 あまりにも怒っている弟の様子に、お母様はとんでもない内容の手紙を弟に送っていたのだと想像がついてしまった。

 ここにいる間も、弟をお父様の代わりにしようとしていた人だ。

 離れている間に、もっと心が壊れてもおかしくないけれど、伯父様がそんな決断をするほどの手紙を書くほどとは思わなかった。


「そう、おじい様にも伯父様にも迷惑をかけるわね」

「あちらは血がつながっているのです、そのくらいの面倒は見るそうです。僕が文官として活躍するなら結婚後も僕たちの籍は残してもらえることになりました」

「そう、それはありがたいわ。伯父様も随分よくしてくれるのね」


 この国では、籍を抜かない限り貴族でいられる。家に紐づいているというだけだけれど、平民と貴族ではできることが違うから、私はともかく弟が貴族でいられるのは大きい。

 でも上級文官になった弟はともかく、私の籍は成人してしばらく経ったら抜かれても仕方がないというのに、そのままにしてもらえるなんて思わなかった。


「私たち、おじい様と伯父様の恩に報いるようにしないとね。お母様の最期まで面倒見てもらうのですからね」


 病で長くないということは、つまりそういうことだ。

 今まで生かしてもらえただけでも、ありがたい。始末をつけてもらうのは申し訳ない。

 でも、もうお母様への未練は何も残っていない。

 弟には何度も手紙を書いていたのに、手紙を出すお金をおじい様に出してもらえていたのに、私にはただの一度もそれが無かったのだから。


「はい、籍に入れて良かったと言ってもらえる様に頑張ります」

「私も頑張るわ。おじい様達へのお礼と、それからあなたに幸せな結婚をさせてあげられるようにね」


 弟の幸せのためなら、私はいくらでも頑張れる。

 弟にはお腹いっぱい食べてもらうけど、私は水だけで生きていけるから大丈夫。


「その前に姉様の結婚です。僕の先輩に良い人がいるんです。一緒の卒業になりましたからもう先輩ではありませんしこれからは同僚です」

「私のことはいいのよ、あなたが幸せになってくれるのが私の幸せなんだから」


 弟の先輩で一緒に卒業なら、私より年下になるではないか、一つだけでも年下は年下だし同僚なら相手は貴族になる。

 きっとその人は、私みたいに一応がつく貴族じゃなくてちゃんとした貴族だろう。そんな人と結婚なんてできるわけがない。


「僕の幸せだって、姉様が幸せになってくれてこそです。絶対にそこは譲りませんよ」


 そういえば、この子は妙に頑固なところがあったなと、急に思い出す。


「大丈夫ですよ、姉様を任せられる人かどうかはしっかり時間をかけて見極めていますから。安心してください姉様」

「あなたね、勉強だけでも大変だったでしょうに。何をしていたの」

「勉強は勿論やっていました。寝る時間どころかまたたきする僅かな時間も惜しんで、必死に勉強していました。でも勉強しながらずっと姉様の幸せを探していました。僕こう見えて器用なんですよ」


 むんっと胸を張り、それから笑う。


「これから二人で幸せになるんです。その次はそれぞれ伴侶を見つけて、それぞれに子供が生まれて幸せに楽しく生きるんです。姉様が幸せじゃないと僕は幸せにはなれないですから。どうか姉様、今はまだ頼りない僕ですがこれから姉様に沢山頼ってもらえる様な大人になりますから。だからどうか姉様、自分が幸せになる道を諦めないでください」


 笑った後で真面目な顔になる、こういう顔は昔からしていたとまた思い出す。

 ああ、もう涙で弟の可愛い顔が歪んでしまう。


「私があなたを頼るの? 私は姉なのよ」

「弟でも、今は頼りなくても、僕は姉様に頼られる人になりたい。姉様を守るのが夫の役目になっても、それでも何か困った時には僕に話してもらえるくらいになりたい。いいえ、なります」


 まだ子供なのに、無理やり大人になろうとしている。

 飛び級で学校を卒業してまで、私を守るために大人になろうとしてるのね。


「馬鹿ね、私はずっとあなたを頼りにしていたわ」

 

 まだ幼い顔をしているのに、それでも私を守ろうと大人になろうとしている。

 お母様には守っていただけなかった、私なんてお母様の意識の隅にももう残っていないだろう。


「……あなたが学校で頑張っているのを知っていたから、私は一人でもこの家にいられたのよ」


 弟がいなければ、私はあっけなく命を落としていただろう。

 食べられなくて、病になって、一人寂しく何の未練も残さずに命を終わらせていただろう。


「私、人に生まれて良かったわ。あなたの姉に生まれて良かった。だってあなたと一緒に生きて幸せな未来を目指せるもの」

「姉様?」


 鳥なら自由に空を飛べる、好きな時に餌を探して空腹に嘆くこともない。以前はそう思ったけれど、それでは私は駄目だったんだと、今思う。


「約束します、姉様。一緒に幸せになりましょう、僕一生懸命働きますから」

「私こそ、あなたが太って服を仕立て直さないといけないくらいに、毎日美味しい食事を出せるように頑張るわ」


 健気で可愛い私の弟、鳥じゃなく彼の姉に生まれたことが私の幸いだと、私はきっと誰にでも胸を張って言えると思う。


「薄い粉焼きだって好きですよ。熟れすぎた果物をのせて焼いたのはご馳走でした」


 売り物にならないくらいにぐずぐずに熟れた果物を市場でただでもらって、焼けるギリギリまで薄く水で溶いた小麦粉を鉄なべに伸ばして果物をのせて焼いた。

 パンケーキもどきは古くなった油の嫌な味がしたけれど、果物の甘みでなんとか食べられた。

 あんなものでも弟は美味しい美味しいと食べてくれていた。

 弟には大きく焼いて果物も沢山のせて、私のは小さく焼いたものをわざと焦がしたのに、弟は目ざとく私のものと取り換えようとするから慌てて食べたのも今では良い思い出だ。


「美味しいものを作るわ。あなたのお腹が苦しくなるくらい沢山作るわ」


 私がそう言うと、弟は嬉しそうに頷いた。


「まだちゃんと言ってなかったわね、卒業おめでとう。それからおかえりさない。あなたの帰りをずっとずっと待っていたわ」


 お母様の命は、きっと遠くない未来に儚く消える。

 それでも私は後悔しない、私は弟と幸せに生きる。

 鳥じゃなく人に生まれたから、ちゃんと人の人生を私は弟と幸せになるため生きていくんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。