焦燥の咆哮
夜の風が、息を詰めたように静かだった。
白瀬かのんは、訓練場の裏口に立っていた。
空気は冷たく、星は雲に隠れている。
胸の奥がざわざわして、落ち着かなかった。
ここにいるのがつらい。
いられるのも、もっとつらい。
——白瀧隊長の優しさが、痛い。
——自分が何もできないのが、もっと痛い。
腰の奥が熱い。
神紋の光はまだ微かで、
その意味すら分からないまま。
「……ごめん、隊長。」
小さく呟いて、夜の道へ歩き出した。
⸻
白虎隊舎では、白瀧が報告書を閉じていた。
机の上には、かのんが昼間残したマグカップ。
はちみつの香りがまだわずかに残っている。
不意に、胸の奥がざわついた。
嫌な風の匂い。
「……かのん?」
白瀧はすぐに立ち上がった。
廊下を駆け、訓練場を、医務室を、書庫を見た。
どこにもいない。
胸が凍る。
「……まさか。」
報告を聞きつけた隊員が駆け寄る。
「隊長! 白瀬が——」
「いい、探す。僕が行く。」
外套を羽織り、刀を腰に差す。
夜の空気が、焦げた匂いを運んでいた。
⸻
そのころ、かのんは廃駅の広場にいた。
灯りは壊れ、風が吹くたび鉄骨が鳴く。
ここまで来て、足が止まる。
「……どうしよう。」
誰に言うでもなく呟く。
足が震えて、もう一歩が出ない。
神紋が、また微かに光った。
その光の中に、何かが揺らめく。
——“呼ぶなら、覚悟を持て。”
虎の声。
でも、怖かった。
呼んでしまったら、何かが変わってしまう気がした。
「……怖い、から、ね。」
声が小さく震える。
⸻
闇の中で、足音がした。
「こんなところで何してるの。」
白川せなの声。
影の中に立つその姿は、以前よりも細く、鋭かった。
「副隊長……どうして……」
「あなたがここに来るの、分かってた。
隊長に守られていると、
世界が小さくなるでしょ。」
「違います……守られてるんじゃなくて……」
「何?」
「支えられてるの。
私、隊長がいなかったら、もう歩けないからね。」
せなが短く笑った。
「それを“依存”って言うのよ。」
「……違う。」
「違わない。
でも、もうどうでもいい。
あの人を壊すのは、
あなたか、あたしか——それだけ。」
風が止まる。
夜の中で、せなの体が光を帯びた。
黒い鱗が浮かび、神紋が焼けるように赤く輝く。
「やめて、副隊長!」
「止めないで。
これは“神選”じゃなくて、
“選ばれなかった者”の声。」
その瞬間、地面が割れた。
黒い霧が噴き出し、神禍の影が這い出してくる。
かのんは銃を抜こうとした。
けれど、指が震えて動かない。
「撃てない? ほら、だからあなたは——」
「うるさい!!」
叫んで、トリガーを引いた。
銃声が夜を裂く。
光が走り、霧を一瞬だけ押し返す。
せなが笑った。
「ようやく、虎が鳴いたわね。」
⸻
その時、風が切れた。
白瀧隊長が飛び込んできた。
月明かりに銀の髪が閃く。
「せな、やめろ!」
「遅いのよ、隊長。」
せなが手をかざす。
黒い光が白瀧へと向かう。
かのんが咄嗟に前へ出ようとした瞬間、
白瀧が腕を伸ばして彼女を庇った。
「下がれ!」
光と風がぶつかる。
空気が震えて、耳が鳴った。
白瀧の刀が閃く。
黒い影を裂き、せなの放つ災いを押し返す。
けれど、せなの表情は笑っていた。
「ねえ、隊長。
その子のために死ねる?」
「死ぬために守るんじゃない。」
「じゃあ、何のため?」
白瀧の声が低く落ちる。
「——生きるためだ。」
次の瞬間、白瀧が踏み込み、せなの結界を破った。
爆風のような衝撃が夜を駆け抜ける。
⸻
静寂。
かのんは地面に膝をつき、息を詰めた。
視界がぐらぐら揺れて、手が震える。
白瀧の背中が見える。
傷だらけでも、まだ立っていた。
「……隊長……」
「かのん、下がれ。ここは危険だ。」
「でも!」
「頼む。」
声が、優しいのに、命令より強かった。
「……はい。」
かのんは下がりながら、
白瀧の背中を見て、胸の奥が痛くなった。
——あの背中に、追いつきたい。
——でも、今はただ、見守るしかない。
白瀧が剣を構える。
風が鳴る。
「せな。」
「何?」
「昔みたいに笑え。」
「もう、無理よ。」
「じゃあ、俺が代わりに泣く。」
その瞬間、刀が閃いた。
闇の霧を裂き、白い光が溢れた。
せなの姿が、霧の中に消える。
その瞳だけが、どこか懐かしげに揺れた。
⸻
静かな夜。
風が戻る。
かのんは、立ち尽くしたまま、涙をこぼした。
「……私、何もできなかった、」
白瀧がゆっくり振り返る。
血のついた頬で、それでも穏やかに微笑んだ。
「生きてる。それが全部だ。」
かのんの喉が詰まる。
唇が震えた。
「ねえ、隊長。
私、やっぱり、あなたのそばがいい。」
白瀧は少しだけ目を閉じた。
「……それでいい。」
夜明け前、東の空に一筋の光。
風鈴が、遠くの隊舎で微かに鳴った。




