名なき虎
夜明け前の空は、白と灰の境目みたいだった。
空気は冷たく、どこか張りつめている。
白瀬かのんは、静かな廊下をひとりで歩いていた。
足音が石床に落ちるたび、心臓が小さく跳ねる。
医務室を出て三日。
体は軽くなったけど、心の奥の痛みはまだ治っていなかった。
⸻
訓練場。
朝露が砂の上で光る。
白瀧隊長が、刀を磨いていた。
陽が昇る前の光が、銀髪にうっすら青を落とす。
「……おはようございます。」
声が小さく響く。
白瀧は顔を上げて、目で“おいで”と告げた。
「もう立てるんだね。」
「歩ける、から。」
「そうか。」
笑いではなく、静かな息。
その一呼吸だけで、
言葉よりも安心をもらえた気がした。
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「もう少し撃ってみたい。」
「許可は出てる。けど、無理はするな。」
「無理は……たぶん、しない、からね。」
「たぶん、が多いな。」
「 」
白瀧が少しだけ笑う。
刀の鞘を軽く叩いて、脇に置いた。
かのんは銃を構えた。
息を吸い、四つ数えて、止めて、吐く。
隊長に教わった呼吸のリズム。
引き金を引く。
乾いた音が朝を裂いた。
弾は、的の外側をかすめる。
白瀧は何も言わない。
ただ、砂を蹴って歩み寄る。
「今のは、恐れじゃなく迷い。」
「……迷い?」
「誰のために撃つのか、
分からなくなった時の震えだ。」
「……わかってるつもり、だったんですけど。」
「つもり、か。」
白瀧の声は穏やかで、それでも芯があった。
「戦いは、憎しみでするものじゃない。
“願い”で動けるようになったら、本物だ。」
「願い……。」
「君は、誰のために引き金を引きたい?」
かのんは答えられなかった。
心の中に浮かぶ顔は一つだけ。
けれど、それを言葉にする勇気がまだ出ない。
「……内緒、です。」
「そうか。」
白瀧は、口の端を少しだけ上げた。
笑っていないのに、優しい笑みだった。
⸻
昼。
食堂の窓辺で、ふたり並んで昼食をとる。
白瀧は相変わらず遅い。
かのんはパンをちぎってスープに浸しながら、
小声で言う。
「隊長って、
なんでそんなに落ち着いてるんですか。」
「昔はそうでもなかった。」
「ほんとに?」
「若いころは、焦って、怒って、泣いて、
全部一日でやってたよ。」
「え、泣くんですか。」
「人間だからね。」
その言葉が、やけに温かく響いた。
「私、焦ってばかり、だからね。
神紋も出ないし……置いてかれそうで。」
白瀧は、スプーンを置いた。
「誰も君を置いていかない。
君が君を置いていかない限りは。」
「……難しいこと言いますね。」
「簡単な言葉ほど、難しいんだ。」
かのんは少し笑った。
「もう、そういうのずるいです。」
「ずるい?」
「静かに心に刺さるやつ。」
「そうか。」
その声に、“そうだね”よりも深い安心があった。
⸻
午後。
書庫で任務記録を整理していると、
扉の外に気配があった。
覗くと、廊下の端に白川せなが立っていた。
謹慎中のはずのその姿に、息が止まる。
「副隊長……!」
「久しぶりね。」
「副隊長は、まだ外出禁止じゃ……」
「抜け道はいくらでもあるのよ。」
笑っているけど、声に冷たさがあった。
「隊長、今日も優しい顔してた?」
「……はい。変わらず。」
「そう。あの人、昔はそんな顔しなかったの。
私が副になるまではね。」
せなは一歩近づいた。
黒い瞳が、かのんを貫く。
「あなた、神紋が出ないんですってね。」
「……出ない、です。」
「じゃあ、なんでまだここにいられるの?」
「それは——」
「隊長が守ってるからでしょ。
優しさって、時に残酷よ。」
「……そんな言い方、やめてください。」
「やめないわ。
隊長の目に映るあなたを見るたびに、
昔の私が“消えていく”気がするの。」
声が震えていた。
怒りと、悲しみと、何か壊れたものが混ざっていた。
「副隊長……隊長のこと、好きなんですね。」
せなが笑った。
「そんなの、とうに過去形よ。」
そして背を向けた。
「もうすぐ、白虎が吠える。
そのとき、誰が残るか、見ものね。」
足音が遠ざかる。
かのんは、その場に立ち尽くした。
胸の奥が、熱く痛んだ。
まるで何かが、
目覚める前に暴れ始めたように。
夕方。
訓練場に戻ると、白瀧が空を見上げていた。
「曇ってきましたね。」
「そうだな。
雲が西から流れるとき、白虎は眠りを浅くする。」
「また……」
「うん。ウンチクだ。」
短い間。
風が吹いて、髪をなでた。
「かのん。」
「はい。」
「もし、何かあったらすぐ言え。」
「……何か、って?」
「嫌な風が吹いてる。」
「風、ですか。」
「うん。人の心が濁る前触れ。」
その目が、少しだけ遠くを見ていた。
優しさの奥に、鋭い光。
それが白虎の“牙”の本当の形なのだと、かのんは初めて気づいた。
「隊長……」
「ん。」
「ありがとう。」
それだけ言って、背を向けた。
胸の中で、何かが鳴いた。
虎の爪跡みたいな、熱い鼓動。
⸻
その夜、夢を見た。
真っ白な空間。
霧の中で、一匹の虎が眠っている。
その身体の上に、黒い手が伸びようとしていた。
「だめ……!」
手を伸ばす。
でも、届かない。
虎の耳がぴくりと動き、金色の瞳が開いた。
“呼ぶなら、覚悟を持て”
その声が、胸の奥に響いた。
目を覚ますと、腰の奥が熱い。
皮膚の下に、光が一筋、脈打っていた。
——それが、神紋だった。




