癒えぬ傷、柔らかな光
白い天井が、やけに遠かった。
消毒液の匂い。
心臓の拍が、薄い毛布の上で小さく跳ねる。
「……ここ、は。」
医務室。
体を起こそうとして、肋の痛みに息が詰まる。
ノックの音。
「入るよ。」
扉の隙間から、やわらかな声。
白瀧隊長が、
湯気の立つマグと紙袋を持って入ってきた。
「起きてたね。
そうだね、まだ上半身はゆっくり。」
「……白瀧隊長。」
「はちみつ生姜、薄め。
かのんは甘いの強いと眉間に皺が寄るから。」
「寄ってない、から…」
小さく笑い合う。
笑っても肋が痛むけど、
その痛みさえ少し安心に似ていた。
「昨夜はよく眠れた?」
「うとうとして、起きて、また寝て……だからね?」
「そうだね。回復の定番だ。」
マグを受け取る。
舌の上に、生姜の熱と、はちみつのやさしさ。
「……おいしい。」
「よかった。」
言葉が途切れて、静けさが落ちる。
隊長はいつものように急かさない。
先に結論を求めない。
“それで、君は何を話したい?”と、目で聞いてくる。
「白川副隊長……」
「うん。」
「怒ってた。
でも、悲しいのと、似てた、から。」
「そうだね。」
隊長は即座に否定しない。
ただ、視線を窓に落として一拍置く。
「強い人ほど、悲しみを怒りに変えるのが上手い。
怒っていれば、壊れていく音が聞こえにくいから。」
「……守られてばかりで、悔しい。」
「悔しいは、よく効く薬だよ。」
「薬、なの?」
「そうだね。飲み過ぎると毒だけど。」
「う、うん……気をつける、から…。」
⸻
昼。
診察のあと、医務官が留守になる短い時間、
隊長が椅子を窓ぎわへ移した。
外は薄曇り。
風が窓の桟を撫でて、かすかな音を立てる。
「天気、どうですか。」
「そうだね。午後は晴れる。
上空の寒気が抜けて、気圧の谷が東へ行く。」
「もう、完全にウンチク。」
「ただの癖だよ。」
「でも、好き、だから、」
隊長がふっと笑う。
その笑顔は、眠りかけの猫の体温に似ている。
「猫といえば。」
「え。」
「この廊下、換気のときに猫が来る。
白い毛に右目だけ青い。」
「神使……?」
「たぶん、ただの猫だね。」
「ずるい。」
ふたりで笑った。
笑うだけで、背中のこわばりがほどける。
「かのん。」
「はい。」
「痛みは?」
「すこし……でも、だいじょうぶ。
泣かない、からね。」
「泣いてもいい。ここは戦場じゃない。」
「……泣かないもん。」
「そうだね。」
喉の奥で、こぼれかけた水滴が引っ込む。
泣かなかったことよりも、
泣いていいと許されたことが、胸を温めた。
⸻
午後、見舞いが一段落した頃。
隊長は紙袋から、
折りたたみの小さな風鈴を取り出した。
透明なガラスに、白い絵の具で虎の尾が一筆。
「かわいい……」
「窓に下げておく。
風が変わると、よく鳴る。」
「ウンチク、ですか。」
「そうだね。」
「でも、好き。」
風鈴が、ちり、と一度だけ鳴った。
曇りの光が、薄く床に落ちる。
「白瀧隊長。」
「うん。」
「私、どうして選ばれたんですか。
神紋、眠ったままなのに。」
隊長は、少しだけ間を置いた。
かのんの言い終わりまで待って、
それから短く息を吸う。
「そうだね。答えはまだ分からない。
でも、選ばれる理由は
“強いから”じゃないことだけは、確かだ。」
「じゃあ、なにで。」
「空いている場所に流れる。
川が曲がるところに砂がたまるみたいに。」
「私、空いてる、からね。」
「そうだね。
だから、満たされる順番を気にしすぎないこと。」
「むずかしい。」
「毎日同じ時間に空を見る訓練から始めよう。」
「訓練?」
「そうだね。
“変わらないもの”を、毎日ひとつ確認する。
それで、変わるものと
上手く付き合えるようになる。」
「……やってみる、」
夕方。
少し眠って、目を開けたとき、
部屋の空気が柔らかく変わっていた。
窓際の椅子に、隊長が居眠りしている。
報告書が膝から落ちかけて、危ない。
「……白瀧隊長。」
声をかけるのを、思いとどまる。
寝顔、初めて見た。
すごく、安心した顔。
——この人の、負担になりたくない。
——でも、この人の隣に、立ちたい。
胸が、静かに軋んだ。
言葉にならない何かが、ゆっくり形になる。
やがて、隊長が目を開ける。
「……あ、ごめん。寝落ちした。」
「寝顔、かわいかった、から。」
「そうだね。」
「今の“そうだね”、ずるい。」
「そうだね。」
ふたりで笑う。
それだけで、夕暮れの色が少し明るくなる。
⸻
夜。
傷が疼いて、深く眠れない。
天井を見上げると、風鈴がかすかに揺れていた。
ちり、という音が、遠い川の音に重なる。
「白瀬。」
扉の向こうから、低い声。
医務官かと思ったら、白瀧隊長だった。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと、痛い、けど。」
「そうだね。
痛みは“ここに生きている”という印でもある。」
「また難しいウンチク……」
「ただの癖だよ。」
「……隊長。」
「なに。」
「私、好きって、なんだか分からない、から。
依存と、違うやつ。
痛くないやつ。」
隊長はしばらく黙って、それから椅子を引いた。
いつものように、まず聴いてから、答える。
「そうだね。
痛くない“好き”は、呼吸に似てる。
意識しないときに、同じ速さで一緒にいる。」
「……同じ速さ。」
「かのんと僕は、歩幅が違う。
でも、風を見ると、だいたい同時に立ち止まる。」
「たしかに。
猫、見つけるタイミングは……
ずれてる、し」
「そうだねえ。」
ふっと、声が軽くなる。
痛みの輪郭が、少しぼやけた。
「眠れる?」
「眠ってもいい?」
「いいよ。僕がいる。」
「いる、って言葉、すごい。」
目を閉じる前、聞こえる。
隊長の静かな呼吸。
その速さに、胸の内側の呼吸を合わせる。
——同じ速さ。
眠りに落ちる直前、
腰のあたりがほんの少し熱を帯びた。
光る前の、呼吸のような脈。
まだ、秘密。
まだ、私だけの音。
⸻
翌朝。
雲はほどけ、白い陽が降りていた。
窓の風鈴が澄んだ音を鳴らす。
「晴れましたね。」
「そうだね。」
「どうしてわかったの?」
「猫が来てない。」
「理由が雑!」
「そうだね。」
笑い声に、廊下の足音が混ざる。
伝令が駆け込んできた。
「白虎隊、軽度の神禍。出動要請!」
一瞬、胸が萎む。
でも、昨日の言葉が浮かぶ。
——“生き残ることは、第一の任務だ。”
「かのんは今日は医務室待機。」
「はい。」
返事は短く、でもしっかり。
それを聞いて、隊長がうれしそうに目を細める。
「戻ったら、外に出よう。
風を吸いに。」
「約束、ね。」
白瀧隊長が背を向ける。
その背中は、昨日より少し近く見えた。
痛みはまだある。
でも、痛みの向こうに、
歩ける道が一本のびている。
私は毛布を整え、深く息を吸った。
呼吸は視力。
今日の世界が、昨日より少し、見えるように。
風鈴が、ちり、と鳴いた。




