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虎の心

夜は長くて、枕は冷たかった。

第三倉庫での初陣から一晩。

白瀬かのんは、毛布の端を指でこすりながら、何

度も同じところまで眠って、

同じところで目を覚ました。


——撃てたのに、役に立てなかった。

——鏡の中の“泣き声”が、耳から離れない。


薄いカーテンの向こうで、朝が白む。

鳥の声が一度だけ高く鳴いて、すぐ黙った。


ノックの音。

「かのん、起きてる?」

「……起きてる、から、どうぞ。」


扉が開いて、白瀧隊長の穏やかな顔がのぞく。

湯気の立つマグカップと、紙袋がひとつ。


「温かいミルク。はちみつ少なめ。」

「覚えてたんですか。」

「そうだね。甘すぎると眉間に皺が寄るから。」

「寄ってない……たぶん。」


ふたりで笑って、間が和らぐ。

けれど胸の重さは、そのままだ。


「どう?」

「……うまく、笑えてます?」

「うん。笑えてる。」

「じゃあ、大丈夫じゃないやつ、です。ね。」


白瀧はベッドの脇の椅子に腰を下ろす。

背筋はまっすぐ、声はいつもより小さい。


「昨日の話、したい?」

「したくない、けど……したい、です。」

「そうだね。じゃあ、できるところから。」


かのんはマグを抱えて、言葉を探す。

喉は渇いていないのに、声がひっかかる。


「鏡の中、泣いてました。

 顔がないのに、泣いてました。

 なのに、私、怖かった。

 助けたいと思う前に、怖いが来ちゃって。

 ——情けない、からね。」


白瀧は、すぐに否定しなかった。

いつものように、まず聴く。


「怖いは、正しい。

 恐れを知らない剣は、誰かを傷つけるから。」

「私、誰も守れてない。」

「違うよ。君は“ここに戻ってきた”。

 それだけで、守ったものがある。」


「……なにを。」

「君自身を。

 生き残ることは、第一の任務だ。」


かのんは伏し目がちに頷く。

嬉しいわけじゃない。でも、空気が少し軽くなる。


「昨日の廊下、風が止まってたろう?」

「はい。」

「風が止むと、音が濁る。匂いも重くなる。

 神禍は、そういう“隙間”に宿りやすい。

 天気の話みたいだけど、大事なんだ。」


「……ウンチク、きた。」

「そうだね。」

「でも、好き、」


白瀧が、ふっと笑う。

笑い方の角が、いつもより丸い。


「今日は軽い任務だけど、かのんは休み。

 医務室で検査を受けて、それから外へ出よう。」

「外?」

「風を吸いに。

 昨日、風が止まってたからね。

 今日はちゃんと流れてるのを、

体に思い出させよう。」


——体に思い出させる。

言い回しが好きだ、とかのんは思う。

わかりやすく優しくて、子ども扱いでもない。



昼前。

神選組の裏手にある小さな公園は、人が少ない。

春の終わり。

雲間から陽がのぞくたび、枝の影が地面でほどけた。


「風、きれい。」

「南から西へ抜けてる。

 白虎は西の守り神だ。

 西風がほどよい日は、体が楽になる。」

「また、ウンチク。」

「そうだね。」

「でも、ね。」


ベンチに並んで腰かける。

隣で白瀧が空を見上げて、目を細めた。


「昨日の神禍、覚えてる?」

「忘れたくても、忘れられない。」

「君が“悲しい”と感じたのは、正しいよ。

 僕はあれを斬ったけど、

 滅ぼしたとは思っていない。

 あれは、眠らせただけだ。」


「眠らせる。」

「そう。祈りの残り火に布をかけて、風を止める。

 炎の扱いに似てる。」

「じゃあ、隊長は——火消し?」

「そうだね。神の火消し、みたいな。」

「……ちょっと、かっこいい、からね。」


足元を、猫が一匹横切った。

白い毛、右目だけ青。

昨日の猫かもしれない。


「また、神使?」

「たぶん、ただの猫だよ。」

「ずるい。」

「ずるい?」

「“たぶん”って便利。

 ね。」


肩が触れるくらいの距離で笑ったとき、

かのんの胸の奥の氷が、ざらりと溶けた。

言葉にならない音が、小さく鳴る。



「……私、」

「うん。」

「役に立ちたい、です。

 戦えるようになりたい。

 昨日みたいに、ただ見てるの、いや、だから。」


白瀧は、すぐに「いいよ」と言わなかった。

代わりに、小さく問いを置く。


「戦えるようになって、なにをしたい?」

「隣に立ちたい。

 あなたの、同じ場所に。」

「——そうか。」


短い沈黙。

風が、少し強くなる。

白瀧の若白髪が、頬に触れそうに揺れた。


「かのん。」

「はい。」

「隣に立つのは、力の問題じゃない。

 “逃げない”って、約束の問題だ。」

「逃げない。」

「昨日、逃げなかったね。」

「……怖かったけど、足が勝手に。」

「そうだね。

 君の足は、ちゃんと任務を果たした。」


かのんは、うっかり笑ってしまう。

褒められたのか、慰められたのか、

境目がわからない。

どちらでも、いい気もする。


「訓練、増やそう。

 銃の基礎は繰り返す。

 それと、呼吸。」

「呼吸。」

「昨日、息が止まってた。

 止めると、世界の解像度が落ちる。

 見えるはずのものが、見えなくなる。」

「……だから、撃っても当たらなかった?」

「そうだね。

 “呼吸は視力”。古い剣術の言葉だ。

 息を整えるだけで、世界は少し見える。」


「じゃあ、私、目がよくなる?」

「なる。きっと。」

「なら、頑張る、から。」


白瀧は頷いて、ベンチの背にもたれた。

視線は空のまま、声だけがこちらに落ちてくる。


「それと、もうひとつ。」

「はい。」

「泣いていい。

 戦場で泣くのはまずいけど、ここは公園だ。」

「……泣かないもん。」

「そうだね。」

「うそ、ちょっと泣くかも。」

「そうだね。」


まばらな葉陰が、頬の上でゆれた。

気づけば視界が滲んで、白と緑が混ざる。

肩に、あたたかい沈黙。

隣の呼吸が、ゆっくり整っているのがわかる。


涙は短く、軽く、土に吸われた。

泣き終わる前から、かのんは少し笑っていた。

隊に戻る途中、白瀧が唐突に言う。

「虎はね、よく寝る。」

「はじまった。」

「一日の半分以上、眠っている。

 でも、獲物を狙うときの集中は極端に鋭い。

 “眠る”と“目覚める”の落差が、あの強さを作る。」

「じゃあ、私は今、眠る虎?」

「そうだね。

 昨日の恐れは“眠り”に入る前の揺れだ。

 よく眠れば、よく目覚める。」


「……眠りたい。」

「眠らせよう。

 訓練、して、ご飯を食べて、湯に浸かって、

 寝る。」

「子ども扱い。」

「人間は、だいたいそうすれば強くなる。」

「そうだね、って言った。」

「そうだね。」


歩調が揃っていることに気づく。

不思議と、足の運びが軽い。


中庭で、白川せなが遠目にこちらを見た。

目が合った気がしたが、せなはすぐ視線を逸らす。

鋭い眼差しの奥に、たゆたいのような影。

——なにか、言われるのだろうか。

かのんの胸がわずかに縮む。


「大丈夫だよ。」

すれ違いざま、白瀧がだけ短く言った。

それ以上、何も足さない。

ただ“いる”。

それだけで、背筋が伸びた。



夕方の訓練場。

空気は乾いて、砂の匂い。

白瀧は的の前に立ち、かのんの手首を軽く支えた。


「力、抜いて。」

「抜いてる、つもり。」

「もう半分。」

「……落ちちゃう。」

「落ちない。支えてる。」


手首が熱い。

“支える”という単語が、皮膚から入ってくるみたい。


「呼吸。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。」

「よ、よん……」

「数えなくていい。風の数でいい。」

「風、の数。」

「そう。今は三。」

「はい。」

「二。」

「はい。」

「——一。」


引き金が“す、と”落ちた。

乾いた音。

的の外側、かすめる音。


「惜しい。」

「惜しい。」

「次。」

「はい。」


二発目。

中心から外れたが、さっきより近い。

三発目。

そこそこ。

四発目、五発目。

“そこそこ”が“まあまあ”に変わる速度で、

夕陽が傾く。


「今日はここまで。」

「もっと、やれる。」

「やれる時にやめるのが、いちばん伸びる。」

「ずるい理屈。」

「そうだね。」

「でも、好きな理屈。」


白瀧が的を回収して、端を折りたたむ。

紙の中心に、白い穴がひとつ、息をしている。


「これ、部屋に貼ってもいい?」

「もちろん。」

「がんばる、ね。」



夜。

廊下の窓の向こう、星は少ない。

白瀬かのんは、

両手でコップの水を持ったまま立ち止まる。

——隣に、立ちたい。

昼間の言葉が、胸の内側でひっそりとひかっている。


「かのん。」

振り返ると、白瀧が報告書を抱えて立っていた。

目の下にうっすら疲れ。

でも、声はひどく柔らかい。


「眠れそう?」

「眠れる、

 たぶん、昨日より。」

「そうだね。」

「……隊長。」

「なに。」

「ありがとう。」

「どういたしまして。」


それだけのやり取り。

けれど、喉元の固い石が、するりと転がった。


「おやすみなさい、白瀧隊長。」

「おやすみ、かのん。」


歩き出す直前、白瀧がふと思い出したように言う。

「そうだ。明日は晴れるよ。」

「どうして分かるの?」

「風が、雨の匂いを連れていない。」

「ウンチク。」

「そうだね。」

「また、でも、嫌いじゃない。」

「知ってる。」


知ってる、のひと言が、

やさしい灯りになって胸にともる。

かのんはコップを両手で抱え、部屋に戻った。


枕に顔を埋めると、眠りがすぐ下にいた。

虎は、よく眠る。

眠って、目覚める。

明日の呼吸が、

今日より少しだけ、楽でありますように。


まぶたの裏で、白い尾が静かに揺れた。


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