白牙の試練
朝の空は、灰色の雲に覆われていた。
白瀬かのんは、制服の袖をぎゅっと握りしめる。
「今日の任務……本当に私も行くんですか?」
「そうだね。」
白瀧隊長は穏やかに答えた。
「初陣は誰にでもある。
戦うことが目的じゃない。
“感じる”ことが今日の課題だよ。」
「感じる……?」
「恐れも、祈りも、痛みも。
それを知らずに刀を抜くと、誰も救えないから。」
その声は優しいのに、どこか揺るがなかった。
かのんはその横顔を見上げて、
胸の奥で小さな波が立つのを感じた。
⸻
現場は、北区の廃病院。
何年も前に閉鎖された建物だという。
外壁にはツタが絡み、看板は落ちて文字が読めない。
「ここが……神禍の発生源?」
「そうだ。人の“後悔”が溜まりやすい場所だ。」
白瀧は鞘から刀を少しだけ抜き、
金属の音を確かめるように鳴らした。
「かのん。君は後方。
もし影が出たら、銃で牽制だけして。」
「はい。」
声は震えていた。
腰のホルスターに手をやると、
冷たい金属が指先に触れた。
小さな拳銃。
それが唯一の“力”だった。
⸻
病院の中は、埃と湿気の匂いで満ちていた。
窓から射し込む光が白く濁って、
世界が夢みたいにぼやけている。
足音を立てないように歩く。
白瀧は前を進み、
かのんはその数歩後ろをついていく。
廊下の奥、電灯の影が揺れた。
かのんの心臓が跳ねる。
「隊長……なにか、いる。」
「分かってる。」
その瞬間、空気が裂けた。
黒い風が吹き抜け、
廊下の壁に“何か”が現れた。
人の形をしているのに、顔がない。
声を出そうとしても、出ない。
代わりに耳の奥で“泣き声”が響く。
「……っ、いや……これ、音が、頭の中に——」
「かのん、落ち着いて。」
白瀧が前に出た。
刀が抜かれ、光が閃く。
一閃、二閃。
影の身体が裂け、黒い霧を散らす。
けれど次の瞬間、霧が形を変えた。
まるで無数の手が彼を掴もうと伸びてくる。
「隊長っ!」
かのんは反射的に銃を構えた。
トリガーを引く。
乾いた銃声が病院の壁に跳ね返る。
弾丸は空を裂いたが、影は止まらない。
「弾が……効かない……!」
「いいんだ。今は下がって。」
白瀧は冷静に言った。
足を滑らせるように踏み込み、
刀を一閃させた。
空気が震えた。
黒い影が音もなく砕け、煙のように消えていく。
——美しかった。
怖いのに、目が離せない。
風の流れまで支配しているような動き。
それは“殺す”というより、“祈る”ような斬撃だった。
⸻
だが、終わりではなかった。
床下の闇が、脈打つように動く。
かのんが振り向くより早く、
背後から黒い腕が伸びた。
「——っ!」
頬をかすめて、血が一滴、宙に舞う。
瞬間、白瀧の姿が視界の端を走った。
彼の手が、かのんの肩を掴む。
刀が弧を描いて影を断つ。
「怪我は?」
「だ、大丈夫……っ!」
呼吸が速い。
心臓が壊れそうだ。
白瀧は一歩だけ彼女の前に出た。
「神禍の核を見つけた。
——あれだ。」
指さす先。
壁に埋もれた古い鏡。
そこに、微かに光る人影。
かのんの胸がざわめいた。
鏡の中のそれは、泣いていた。
顔のない神禍が、涙を流していた。
「な、泣いてる……」
「そうだね。
“忘れられた姿”が、まだ覚えているんだ。」
白瀧は刀を構えた。
声が低く、けれど優しかった。
「眠れ。」
一閃。
鏡が砕け、光が爆ぜる。
風が吹き抜け、黒い影が塵のように散った。
病院の中に、静けさが戻る。
「……終わったの?」
「うん。よく頑張ったね。」
白瀧の笑顔。
優しいはずなのに、どこか遠い。
かのんは拳を握った。
銃を持つ手が、震えている。
「全然、何もできなかった。
撃っても、意味なかった。」
「意味なら、あるよ。」
「え……?」
「君が撃った音で、僕は“位置”を計れた。
仲間の息があることが、戦場で一番の支えになる。」
「……でも……」
「焦らなくていい。
神紋は呼ばれた時に応える。
力は、君が君を信じた瞬間に現れる。」
白瀧の言葉は静かで、雨上がりの風みたいだった。
かのんは唇を噛んだ。
悔しさと、わずかな誇りが胸の奥で混ざる。
「次は……もっと、ちゃんとできるようになります。」
「そうだね。」
白瀧は、柔らかく笑った。
「君がどんな形でも立っていれば、それで十分だ。」
⸻
帰り道。
夕暮れの空は、少しだけ晴れ間がのぞいていた。
風が頬を撫で、木々の影を揺らす。
白瀧がふと、空を見上げた。
「雲が切れてきたね。」
「ほんとだ……」
「雲が南へ流れるとき、白虎は目を覚ますと言われてる。
季節の境目は、“生まれ変わり”の時期なんだ。」
「またウンチク?」
「そうだね。」
二人は笑った。
笑いながらも、かのんの胸には
まだ、あの鏡の中の
“泣いていた影”が焼き付いて離れなかった。
⸻
その夜。
かのんは隊舎のベッドで目を閉じた。
まぶたの裏に、白瀧の背中が浮かぶ。
剣と銃の軌跡、光の残像。
あんなに強くて、あんなに優しい人がいるなんて。
「……私も、いつか……」
小さく呟いて、眠りに落ちた。
その夢の中で、虎が一度だけ咆哮した。
白く、眩しい光をまとって。




