白き爪痕
夜は長かった。
雨は上がったのに、
アスファルトは冷たい匂いを吐いている。
街灯が一つ切れて、影が歪んだ。
⸻
「……もう、いいや。」
段ボールの上に座って、私は空を見た。
高校の卒業証書は質屋に消えた。
父と母は“ごめんね”だけを残していなくなった。
家は差し押さえ。
苗字も、要らない気がして、捨てた。
「ねえ、空。
私のこと、覚えてる?」
風が答えない。
代わりに、電線がぎし、と鳴った。
⸻
その時だった。
路地の奥で、水のような影が立ち上がる。
見間違いじゃない。
影が、こっちを見ている。
胸の奥が冷たくなる。
逃げようとした足がもつれて、転んだ。
掌が痛い。
影は地面を這い、私の足首に触れた。
冷たい。
なのに焼けるみたいに痛い。
「やだ、やだ、やだ……」
声が出たのかどうかも分からない。
影が口の形を作る。
“返せ”と、聞こえた気がした。
何を?
名前を? 祈りを?
呼吸が途切れる。
視界が白と黒に割れて、世界が遠ざかる。
⸻
「……下がって。」
低い声。
次の瞬間、白い光が落ちた。
風の匂いが変わる。
金属と雨と、何か清いものの匂い。
私は顔を上げた。
路地の入口に、ひとりの男が立っていた。
若白髪、黒い眼。
夜の中で、その人だけが輪郭を持っていた。
「そこから動かないで。すぐ終わる。」
影が唸る。
男は静かに刀を抜いた。
動きは——音がしない。
光だけが、ひゅ、と走る。
一度、二度。
黒い影が裂け、しずむ。
最後に、銃声がひとつ。
短い稲光のように、夜が切れた。
すべてが終わった。
私は、息を吸うことを思い出した。
⸻
男がこちらへ歩いてくる。
怖くはなかった。
逆に、泣きそうになった。
「大丈夫?」
「……だい、じょうぶ。
あなた、だれ?」
「白瀧和一。
神選組、白虎隊の隊長だよ。」
隊長。
知らない言葉ではなかった。
“神を鎮める人たち”の噂。
けれど本当にいるのだと思わなかった。
「君の名前は?」
言葉が喉に引っかかる。
私は口を開けたり閉じたりして、やっと言った。
「……かのん。」
「名字は?」
沈黙。
雨上がりの路地の匂いが戻ってくる。
私は首を横に振った。
「捨てた、からね。
ない。」
白瀧は、それ以上何も訊かなかった。
代わりに、上着を私の肩にかける。
「そうだね、寒かったね。」
まず肯定する声。
その一言で、胸のどこかがほどけた。
⸻
救急搬送を断って、近くの川沿いまで歩いた。
夜の川は黒く、でも音は優しかった。
街灯の下を、白い猫が横切る。
「隊長、猫。」
「見えた? 右目だけ青かったね。」
「ね。神使?」
「たぶん、ただの猫だよ。」
少し笑う。
その笑い方は、雨上がりの匂いに似ていた。
⸻
「ここで、倒れてたの?」
「ううん、あっちの路地。
でも、川の音が、好きで。」
「そうだね。
川は、覚えていてくれる。
上流で誰かが泣けば、
下流でその響きが少しだけ残る。」
「それも、ウンチク?」
「ただの癖だよ。」
また笑う。
私は、濡れたスニーカーのつま先で石をつついた。
「……どこに行く?」
「行くところ、ないよ。
ね。」
「そうか。」
短い沈黙。
風が生ぬるく頬を撫で、背中が急に寂しくなる。
「神選組で、少し休む?」
「え?」
「危ないままここに置けない。
寝床と飯は保証する。仕事は、そのあと考えよう。
君が嫌なら、すぐ出てもいい。」
「……ほんと?」
「そうだね。」
その時、胸の奥に何かが灯った。
小さい、でも確かな灯り。
私は何度も頷いた。
「行く。
あなたのところ、行く。」
「うん。じゃあ、ひとつだけ。
君の“名”を、返そう。」
白瀧は川面を見た。
風にさざなみが走り、街灯が細く崩れる。
「今日、川沿いで君を拾った。
だから——白瀬。
“白い瀬”に、落ちた光。
君は、白瀬かのん。」
胸が熱くなる。
喉がつまって、うまく息ができない。
「……白瀬、かのん。
私の、名前。」
「気に入らなければ、変えてもいい。」
「ううん、これがいい。
これが、いい、からね、ね。」
白瀧は小さく頷いた。
背中が、ほんの一瞬、白く光った気がした。
虎の影——見間違い?
⸻
隊舎に向かう途中、歩きながら彼は空を見上げる。
「もうすぐ、夜明けだ。」
「分かるの?」
「雲が薄い。
東から来る風が、雨の匂いを連れていない。」
「ウンチク?」
「そうだね。」
「ふふ、ずるい。」
私は肩にかけられた上着を握りしめた。
布はまだ彼の体温を残している。
安全の匂いがした。
⸻
簡易の診療室で手当てを受け、温かいスープを飲む。
胃が驚いたみたいに動いて、
泣くより先に笑ってしまった。
「美味しい?」
「おいしい、からね。
あの、あなたは——」
「白瀧隊長、でいいよ。」
「……白瀧隊長。」
口に出してみると、ちゃんと形になった。
不思議と、ぴたりと馴染む。
「かのん、少し休みなさい。
寝不足は、心を無防備にする。」
「うん。
ねえ、隊長。」
「なに?」
「さっき、影が“返せ”って言った気がした。
……名前、かな。」
白瀧は少しだけ目を細める。
「神禍は、忘れられたものに寄ってくる。
名前、祈り、居場所。
どれかを失った人の隙間に。」
「じゃあ、私、狙われやすい?」
「いまは違う。君の“名”は戻った。
ここは神選組、白虎隊の懐だ。」
その言い方が、妙に心地よかった。
“ここにいていい”と、体温で伝えるみたいに。
「……ありがとう。」
「そうだね、ありがとう、は大事だ。」
彼は椅子を少し引いて、立ち上がる。
「寝る前に、もう一つだけ。」
「なに?」
「猫の話。」
「また?」
「白い毛で右目が青い猫はね、
晴れる前の日に現れるんだ。」
「ウンチク?」
「そうだね。」
二人で笑った。
笑い声は小さくて、でも、
夜に穴を開けるみたいに真っ直ぐだった。
⸻
仮眠室の薄い毛布は、ふわふわだった。
目を閉じると、川の音がまた聞こえた。
“白瀬”という名前は、
胸の中でゆっくり色を持っていく。
——戻ってきた。
そう思った瞬間、涙が一粒だけ、こぼれた。
それでも、眠りはすぐ来た。
白い虎が遠くで横たわり、
その尾で静かに夜明けを招く夢を見た。
朝。
薄明の廊下を歩く足音で目が覚める。
ドアの外に気配。
「かのん、起きてる?」
「起きてる、よ。
おはよう、白瀧隊長。」
「おはよう。
今日は空がきれいだ。
——行こう、朝の風を吸いに。」
私はベッドから飛び起きた。
名前を持った足が、ちゃんと床を踏む。
扉を開けると、そこに彼がいた。
優しい黒の眼。
夜よりも、少しだけ近い距離。
世界はまだ灰色だけれど、
朝の光は確かに私を撫でた。
私は小さく頷く。
「行く。
あなたとなら、どこへでも。」
白瀧は「そうだね」と言って笑い、
歩き出した。
その背中は、もう“知らない人”のものではなかった。




