表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

白き誓い

朝の音は、思ったよりもやわらかい。

湯がわく音、窓辺で鳴る小さな風鈴、

湯気に溶けるミルクの匂い。

白瀬かのんは、指先でテーブルの木目を撫でて、

息をととのえた。


「……おはよう、あなた、和一…」


「おはよう、かのん。…呼びやすい方ですいいよ。」


白瀧和一の声は、いつも少し低くて、よく響く。

その響きが部屋の隅々まで広がって、

光の輪郭みたいに感じられる。


「今日は、どんな空?」


「雲は薄い。

 南から西へ風が抜けてる。

 きっと昼には晴れる。」


「ふふ、天気の人。

 でも、好き……。」


白瀧が笑う気配。

椅子がきしむ、足音が近づく、湯気のあたたかさが頬に触れる。


「ミルク。はちみつ、生姜を少し。」


「覚えてるね。」


「忘れないよ。」


マグを受け取る手に、彼の指が触れた。

体温が移るだけで、朝の輪郭がはっきりする。



二人は、隊舎から歩いて

十五分の古い長屋に住んでいる。

白虎隊はあの夜を境に人員が入れ替わり、

白瀧は退いた。

代わりに、訓練の講義を時々頼まれる。

かのんは日常を覚え直す最中だ。

音、匂い、手触り、そして彼の声で地図を作る。


「今日は市場に行こう。野菜、増やしたい。」


「ついていく、から

 手、貸して。」


白瀧が左手を差し出す。

かのんはそこに右手を重ね、指をからめた。

歩幅が自然にそろう。


「段差。」


「うん。」


三歩先の角、二歩目が高い、

舗装の割れ目、靴の音で分かる。

彼の「言葉にならない合図」は

風みたいに正確で、やさしい。


「猫、いる。」


「え、どこ?」


「瓦屋根の上。……右目が青い。」


「やっぱり、神使?」


「たぶん、ただの猫。」


「ずるい。」


二人で笑う。

笑うと、足取りが軽くなる。

見えないはずの朝が、少しだけ明るくなる。



市場はにぎやかだった。

果物の匂い、野菜の土、行き交う言葉。

かのんは手の中でトマトの丸さを確かめ、

耳で値札を読む。

並ぶ音、包む音、支払う音——それが目になる。


「赤いの、選べた?」


「うん、ちゃんと丸い。

 艶が音に出てるからね。」


「艶の音?」


「袋に入れる時の、ころんって音。

 乾いた艶。」


「新しいウンチクだ。」


「ただの癖、だからね。」


彼の笑いが近い。

指先ひとつ分、近い。



午後、家に戻ると、白瀧は台所に立った。

包丁の音が一定に響く。

火にかけた鍋が、ふつふつと息をする。


かのんは食卓で、白紙のノートを撫でる。

ページの角に点字の目印をつけながら、

今日の地図を書く。

左の角から三段目、棚の取っ手、風鈴の紐の位置。

白瀧の歩幅、扉の蝶番、夕方の風の向き。

書く、というより、刻む。


「かのん。」


「なに?」


「味、見る?」


小皿が指に触れた。

唇に少しつける。

塩気、酸味、最後に甘み。

“やさしい”の味。


「おいしい。

 ね。」


「よかった。」


「あなたのご飯、安心する味。」


「君が横で生きてる味だ。」


「やだ、詩的。」


「たまにはね。」


言葉が短い。

でも、足りないところは沈黙が埋めてくれる。

二人の沈黙は、空白じゃない。

呼吸の合図、心拍の橋、手から手へ渡る体温の通訳。



夕方。

白瀧は、

神選組の記録棚から持ち帰ってきた、

古い和紙の帳面を開いた。

四神記。

かのんの耳へ、静かに読み上げる。


「——白虎は西の守り。

 秋の乾いた風を鎮め、道を整える。

 “剣”ではなく、“帰路”の神。」


「帰路の神……」


「道に迷った者の、帰る方向を指す。

 だから、本当は“斬るため”の白虎じゃない。

 “帰すため”の白虎。」


「あなた、その言い方、ずるい。

 好き、だけどね。」


ページの擦れる音が、

虎の尾みたいにさらりと流れる。


「ねえ、あなた。」


「うん。」


「あの夜のこと、少し、話して。」


「……いいのか。」


「いい。

 私、怖がりやめたい、からね。」


短い沈黙。

風鈴が一度だけ鳴る。


白瀧は言葉を選んだ。

細い糸を渡るように、ゆっくりと。


「せなは、最後まで、僕の部下だった。

 だから、僕は“隊長”として送り出した。

 でも——友として泣いた。」


かのんは、そっと膝の上で手を握る。

手のひらの真ん中に、爪痕の熱がふっと戻る。


「私、あの人の声、聞こえた気がする。

 “幸せにしなよ”って。

 錯覚でも、いい。

 そう思いたい、からね。」


「錯覚じゃないと思う。

 風の匂いが、そう言ってた。」


「うん。

 じゃあ、私たち、ちゃんと生きよう。

 約束、だよ。」


「約束だ。」



夜。

風が変わる。

日が落ちると、音の密度が増す。

遠い電車、裏路地の自転車、誰かの笑い声。

世界は見えないぶん、近い。


「散歩、行く?」


「行く。手、貸して。」


玄関先で靴を履くのも、だいぶ上手くなった。

靴紐の締め加減と足の向きで、外の硬さが分かる。


「段差。」


「うん。」


「右に猫。」


「ほんと?」


「今は、ただの猫。」


「いつか神使、って言うでしょ。」


「言うかも。」


二人で小さく笑って、夜の風に入っていった。



川沿い。

あの夜、名前をもらった場所。

水音がひそやかで、でも確かに生きている。


「ここに来ると、胸が軽くなる。」


「君の名前が、ここで生まれたから。」


「教えて、もう一回。

 名付けの話。」


「白い瀬に落ちた光、白瀬かのん。

 君が戻ってこれるように、川の音に結んだ。」


「ふふ。

 あなた、やっぱり詩的。」


「たまにね。」


「その“たまに”、けっこう多い、からね。」


彼が笑う。

川風がその笑いを運んで、頬に触れる。

見えない光が、目の奥でゆっくりほどける。


「——ねえ、あなた。」


「うん。」


「依存じゃなくて、

 好きで、愛で、いっしょにいるって、

 今なら、わかる気がする。」


「どうして。」


「呼吸の速さ。

 あなたの足音に、私の心拍が合う。

 合わせようとしなくても、合う。

 それが、楽。」


「それは、僕も同じだ。」


「ほんと?」


「ほんと。」


足元の草が擦れる。

夜は、嘘をつけない。


家に戻ると、湯を張った。

湯気の音、木の浴槽に落ちる水の匂い。

体を温めると、昼間の緊張がほどける。


「傷、痛む?」


「だいぶ、平気。

 慣れてきた、からね。」


「無理はしない。」


「しない。

 あなたに言われたら、しない、から。」


湯から上がると、

彼は髪を拭きながら、ぽつりと言った。


「かのん。

 僕は、君の杖でいる。

 一生。」


「私は、あなたの光でいる。

 ぼんやりでも、

 ね。」


「ぼんやり、は嫌いじゃない。」


「ふふ、ずるい。」


灯りを落とす。

ベッドの上、指先が触れあう。

呼吸が整うまで、何も言わない。

言葉よりも先に、同じ速さが先に来る。


「おやすみ。」


「おやすみ。」


その一言のあとに続く沈黙は、

きちんと“二人のもの”になっていた。



季節がひとつ巡った。

春の終わり。

白虎の季節は過ぎても、風は覚えている。


その朝、白瀧は珍しく、先に窓を開けた。

空の青が濃く、雲は薄い。

猫が塀を歩き、風鈴が短く鳴る。


「かのん。」


「なに?」


「今日は、誓いの更新をしよう。」


「更新?」


「結婚の誓いは一度きりじゃ足りない。

 毎日、少しずつ、直したり磨いたりする。」


「……好き、そういうの。

 じゃあ、私から。」


かのんは、ゆっくりと口を開いた。

言葉が喉元で一度ほどけ、形を選び直す。


「私、あなたの帰路でいる。

 迷ったとき、声で帰してあげる。

 どこにいても、呼ばれたら返事する。

 それが、白瀬かのんの、生きる約束。」


白瀧は、しばらく黙って、息で頷いた。

目線がやさしく触れてくる気がする。


「僕は、君の道標でいる。

 段差を先に降り、風向きを先に読む。

 そして、どんな日も、同じ声で君を呼ぶ。

 “かのん”と。」


名前を呼ばれるたび、胸の奥の爪痕が温かい。

神紋は光らない。

でも、その温度が答えだ。


「更新、完了。」


「承認。」


二人で、ほんの少し笑った。



昼、白瀧は講義に出かけた。

新人たちに、呼吸と歩幅の話をする。

“呼吸は視力”、

“歩幅は信頼”、

“優しさは刃を錆びさせない”——

彼の言葉は、昔よりも短い。

でも、昔よりも遠くまで届く。


かのんは家で、布の目印をいくつか縫い付けた。

棚の取っ手、窓の紐、コップの位置。

日々の小さな旗。

それは、彼がいなくても戻れる“帰路”の印。


夕方、扉が開く音。

足音で、本人だとすぐわかる。


「ただいま。」


「おかえり。

 早かった、からね。」


「君の声が恋しかった。」


「詩的、すぎ。」


笑って、玄関で手を取る。

指の骨ばった形、握り返す力。

それが「いま」のしるし。


「今日は、猫が三匹。」


「全部、神使?」


「一匹だけ。」


「ずるい。」


二人で笑って、台所に並ぶ。

包丁の音と、風鈴の音が重なる。

夕餉の匂いがひらいて、夜がやわらかく始まる。



その夜、窓の外で雨が降った。

屋根を打つ音が、一定のリズムで続く。

白瀧が言う。


「明日は、晴れる。」


「どうして?」


「雨の匂いが軽い。

 雲の底が薄い。」


「やっぱり、天気の人。」


「君は、光の人。」


「ぼんやりの光、だからね。」


「それがいい。」


静かな雨音。

やがて遠くで、雷が小さく笑った。

白瀧は、かのんの手を軽く握る。

同じ速さで、息をする。


「かのん。」


「なに?」


「愛してる。」


「うん。

 ちゃんと、聞こえてる。

 ずっと、聞こえる、からね。」


目は閉じたまま。

でも、世界は暗くない。

声と匂いと手触りで、名前はいつも見えている。


白虎は、本来“帰路”の神。

だから二人は、何度だって帰ってくる。

同じ部屋、同じ呼吸、同じ速さへ。


——白き誓いは、今日も更新された。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ