白き誓い
朝の音は、思ったよりもやわらかい。
湯がわく音、窓辺で鳴る小さな風鈴、
湯気に溶けるミルクの匂い。
白瀬かのんは、指先でテーブルの木目を撫でて、
息をととのえた。
「……おはよう、あなた、和一…」
「おはよう、かのん。…呼びやすい方ですいいよ。」
白瀧和一の声は、いつも少し低くて、よく響く。
その響きが部屋の隅々まで広がって、
光の輪郭みたいに感じられる。
「今日は、どんな空?」
「雲は薄い。
南から西へ風が抜けてる。
きっと昼には晴れる。」
「ふふ、天気の人。
でも、好き……。」
白瀧が笑う気配。
椅子がきしむ、足音が近づく、湯気のあたたかさが頬に触れる。
「ミルク。はちみつ、生姜を少し。」
「覚えてるね。」
「忘れないよ。」
マグを受け取る手に、彼の指が触れた。
体温が移るだけで、朝の輪郭がはっきりする。
⸻
二人は、隊舎から歩いて
十五分の古い長屋に住んでいる。
白虎隊はあの夜を境に人員が入れ替わり、
白瀧は退いた。
代わりに、訓練の講義を時々頼まれる。
かのんは日常を覚え直す最中だ。
音、匂い、手触り、そして彼の声で地図を作る。
「今日は市場に行こう。野菜、増やしたい。」
「ついていく、から
手、貸して。」
白瀧が左手を差し出す。
かのんはそこに右手を重ね、指をからめた。
歩幅が自然にそろう。
「段差。」
「うん。」
三歩先の角、二歩目が高い、
舗装の割れ目、靴の音で分かる。
彼の「言葉にならない合図」は
風みたいに正確で、やさしい。
「猫、いる。」
「え、どこ?」
「瓦屋根の上。……右目が青い。」
「やっぱり、神使?」
「たぶん、ただの猫。」
「ずるい。」
二人で笑う。
笑うと、足取りが軽くなる。
見えないはずの朝が、少しだけ明るくなる。
⸻
市場はにぎやかだった。
果物の匂い、野菜の土、行き交う言葉。
かのんは手の中でトマトの丸さを確かめ、
耳で値札を読む。
並ぶ音、包む音、支払う音——それが目になる。
「赤いの、選べた?」
「うん、ちゃんと丸い。
艶が音に出てるからね。」
「艶の音?」
「袋に入れる時の、ころんって音。
乾いた艶。」
「新しいウンチクだ。」
「ただの癖、だからね。」
彼の笑いが近い。
指先ひとつ分、近い。
⸻
午後、家に戻ると、白瀧は台所に立った。
包丁の音が一定に響く。
火にかけた鍋が、ふつふつと息をする。
かのんは食卓で、白紙のノートを撫でる。
ページの角に点字の目印をつけながら、
今日の地図を書く。
左の角から三段目、棚の取っ手、風鈴の紐の位置。
白瀧の歩幅、扉の蝶番、夕方の風の向き。
書く、というより、刻む。
「かのん。」
「なに?」
「味、見る?」
小皿が指に触れた。
唇に少しつける。
塩気、酸味、最後に甘み。
“やさしい”の味。
「おいしい。
ね。」
「よかった。」
「あなたのご飯、安心する味。」
「君が横で生きてる味だ。」
「やだ、詩的。」
「たまにはね。」
言葉が短い。
でも、足りないところは沈黙が埋めてくれる。
二人の沈黙は、空白じゃない。
呼吸の合図、心拍の橋、手から手へ渡る体温の通訳。
⸻
夕方。
白瀧は、
神選組の記録棚から持ち帰ってきた、
古い和紙の帳面を開いた。
四神記。
かのんの耳へ、静かに読み上げる。
「——白虎は西の守り。
秋の乾いた風を鎮め、道を整える。
“剣”ではなく、“帰路”の神。」
「帰路の神……」
「道に迷った者の、帰る方向を指す。
だから、本当は“斬るため”の白虎じゃない。
“帰すため”の白虎。」
「あなた、その言い方、ずるい。
好き、だけどね。」
ページの擦れる音が、
虎の尾みたいにさらりと流れる。
「ねえ、あなた。」
「うん。」
「あの夜のこと、少し、話して。」
「……いいのか。」
「いい。
私、怖がりやめたい、からね。」
短い沈黙。
風鈴が一度だけ鳴る。
白瀧は言葉を選んだ。
細い糸を渡るように、ゆっくりと。
「せなは、最後まで、僕の部下だった。
だから、僕は“隊長”として送り出した。
でも——友として泣いた。」
かのんは、そっと膝の上で手を握る。
手のひらの真ん中に、爪痕の熱がふっと戻る。
「私、あの人の声、聞こえた気がする。
“幸せにしなよ”って。
錯覚でも、いい。
そう思いたい、からね。」
「錯覚じゃないと思う。
風の匂いが、そう言ってた。」
「うん。
じゃあ、私たち、ちゃんと生きよう。
約束、だよ。」
「約束だ。」
⸻
夜。
風が変わる。
日が落ちると、音の密度が増す。
遠い電車、裏路地の自転車、誰かの笑い声。
世界は見えないぶん、近い。
「散歩、行く?」
「行く。手、貸して。」
玄関先で靴を履くのも、だいぶ上手くなった。
靴紐の締め加減と足の向きで、外の硬さが分かる。
「段差。」
「うん。」
「右に猫。」
「ほんと?」
「今は、ただの猫。」
「いつか神使、って言うでしょ。」
「言うかも。」
二人で小さく笑って、夜の風に入っていった。
⸻
川沿い。
あの夜、名前をもらった場所。
水音がひそやかで、でも確かに生きている。
「ここに来ると、胸が軽くなる。」
「君の名前が、ここで生まれたから。」
「教えて、もう一回。
名付けの話。」
「白い瀬に落ちた光、白瀬かのん。
君が戻ってこれるように、川の音に結んだ。」
「ふふ。
あなた、やっぱり詩的。」
「たまにね。」
「その“たまに”、けっこう多い、からね。」
彼が笑う。
川風がその笑いを運んで、頬に触れる。
見えない光が、目の奥でゆっくりほどける。
「——ねえ、あなた。」
「うん。」
「依存じゃなくて、
好きで、愛で、いっしょにいるって、
今なら、わかる気がする。」
「どうして。」
「呼吸の速さ。
あなたの足音に、私の心拍が合う。
合わせようとしなくても、合う。
それが、楽。」
「それは、僕も同じだ。」
「ほんと?」
「ほんと。」
足元の草が擦れる。
夜は、嘘をつけない。
家に戻ると、湯を張った。
湯気の音、木の浴槽に落ちる水の匂い。
体を温めると、昼間の緊張がほどける。
「傷、痛む?」
「だいぶ、平気。
慣れてきた、からね。」
「無理はしない。」
「しない。
あなたに言われたら、しない、から。」
湯から上がると、
彼は髪を拭きながら、ぽつりと言った。
「かのん。
僕は、君の杖でいる。
一生。」
「私は、あなたの光でいる。
ぼんやりでも、
ね。」
「ぼんやり、は嫌いじゃない。」
「ふふ、ずるい。」
灯りを落とす。
ベッドの上、指先が触れあう。
呼吸が整うまで、何も言わない。
言葉よりも先に、同じ速さが先に来る。
「おやすみ。」
「おやすみ。」
その一言のあとに続く沈黙は、
きちんと“二人のもの”になっていた。
⸻
季節がひとつ巡った。
春の終わり。
白虎の季節は過ぎても、風は覚えている。
その朝、白瀧は珍しく、先に窓を開けた。
空の青が濃く、雲は薄い。
猫が塀を歩き、風鈴が短く鳴る。
「かのん。」
「なに?」
「今日は、誓いの更新をしよう。」
「更新?」
「結婚の誓いは一度きりじゃ足りない。
毎日、少しずつ、直したり磨いたりする。」
「……好き、そういうの。
じゃあ、私から。」
かのんは、ゆっくりと口を開いた。
言葉が喉元で一度ほどけ、形を選び直す。
「私、あなたの帰路でいる。
迷ったとき、声で帰してあげる。
どこにいても、呼ばれたら返事する。
それが、白瀬かのんの、生きる約束。」
白瀧は、しばらく黙って、息で頷いた。
目線がやさしく触れてくる気がする。
「僕は、君の道標でいる。
段差を先に降り、風向きを先に読む。
そして、どんな日も、同じ声で君を呼ぶ。
“かのん”と。」
名前を呼ばれるたび、胸の奥の爪痕が温かい。
神紋は光らない。
でも、その温度が答えだ。
「更新、完了。」
「承認。」
二人で、ほんの少し笑った。
⸻
昼、白瀧は講義に出かけた。
新人たちに、呼吸と歩幅の話をする。
“呼吸は視力”、
“歩幅は信頼”、
“優しさは刃を錆びさせない”——
彼の言葉は、昔よりも短い。
でも、昔よりも遠くまで届く。
かのんは家で、布の目印をいくつか縫い付けた。
棚の取っ手、窓の紐、コップの位置。
日々の小さな旗。
それは、彼がいなくても戻れる“帰路”の印。
夕方、扉が開く音。
足音で、本人だとすぐわかる。
「ただいま。」
「おかえり。
早かった、からね。」
「君の声が恋しかった。」
「詩的、すぎ。」
笑って、玄関で手を取る。
指の骨ばった形、握り返す力。
それが「いま」のしるし。
「今日は、猫が三匹。」
「全部、神使?」
「一匹だけ。」
「ずるい。」
二人で笑って、台所に並ぶ。
包丁の音と、風鈴の音が重なる。
夕餉の匂いがひらいて、夜がやわらかく始まる。
⸻
その夜、窓の外で雨が降った。
屋根を打つ音が、一定のリズムで続く。
白瀧が言う。
「明日は、晴れる。」
「どうして?」
「雨の匂いが軽い。
雲の底が薄い。」
「やっぱり、天気の人。」
「君は、光の人。」
「ぼんやりの光、だからね。」
「それがいい。」
静かな雨音。
やがて遠くで、雷が小さく笑った。
白瀧は、かのんの手を軽く握る。
同じ速さで、息をする。
「かのん。」
「なに?」
「愛してる。」
「うん。
ちゃんと、聞こえてる。
ずっと、聞こえる、からね。」
目は閉じたまま。
でも、世界は暗くない。
声と匂いと手触りで、名前はいつも見えている。
白虎は、本来“帰路”の神。
だから二人は、何度だって帰ってくる。
同じ部屋、同じ呼吸、同じ速さへ。
——白き誓いは、今日も更新された。




