堕ちた白虎
空が裂けた。
雲が燃えて、夜が悲鳴をあげている。
地面は震え、街の灯が次々に消えた。
神禍の咆哮が空気を裂き、光が黒に呑まれていく。
その中心に、白川せなが立っていた。
瞳は紅に染まり、黒い紋様が腕を這う。
笑みは壊れて、もう人ではない。
「隊長。
これが“神の見放した世界”よ。」
周囲に黒い獣影が浮かぶ。
怨嗟の塊——元は人だったもの。
せなの心を喰いながら形を持った“神禍”だった。
白瀧和一は剣を抜いた。
銀の刃が光を反射して、かすかに唸る。
「……せな、戻れ。まだ間に合う。」
「遅いわよ。あたしはもう、“白川せな”じゃない。」
「なら、俺が取り戻す。」
白瀧の声が低く響く。
風が起こり、白い虎の影が背に立った。
⸻
地鳴り。
黒い霧の中から、腕のような触手が飛び出す。
ひとつ、ふたつ——十を超える黒の矢が空を裂き、
まっすぐにかのんへと伸びた。
「かのん!!」
白瀧が走る。
地面を蹴り、彼女の前に飛び込む。
刃で三本を弾くが、一本が間に合わなかった。
鋭い衝撃が腹を貫いた。
「——っ!」
息が詰まる。
白瀧の口から血が滲む。
「隊長っ……!」
かのんが駆け寄ろうとする瞬間、
爆風が起きた。
白瀧の体が吹き飛ばされ、
かのんもその衝撃に巻き込まれた。
地面に叩きつけられ、
耳の奥で何かが割れる音がした。
視界が滲む。
空が二つに見える。
「……いた……い……」
左腕が血に染まっていた。
傷口から煙のような黒い靄が溢れている。
——神禍の毒。
「動いちゃダメだ、かのん!」
白瀧が、よろけながら立ち上がる。
腹から血を流しながらも、まだ剣を握っている。
「隊長……」
「いい、僕がやる。」
⸻
せなが笑った。
「その女を庇って死ぬの?
ほんと、滑稽ね。」
「命をかける価値がある。」
「そんなもの、どこに?」
「“君”の中にも、あったはずだ。」
せなが目を見開く。
一瞬だけ、表情が揺れた。
だが、すぐに笑う。
「じゃあ、確かめてみてよ——
あなたの白虎が、どこまで堕ちるか!」
黒い霧が渦巻き、せなの体を包む。
翼のように広がった闇が、空を覆った。
その背から、紅い光が伸び、
夜空に巨大な“眼”が開いた。
神禍が実体化する。
禍そのものがせなの心と一体になった。
⸻
白瀧は刀を構えた。
体は限界。
視界は霞み、息を吸うたび痛みが走る。
それでも、足を前へ出した。
「白虎——咆えろ。」
地面が裂ける。
白い光が地を這い、虎の輪郭を描く。
霧が散り、雷鳴が響く。
剣が閃き、せなの放った闇を切り裂く。
かのんは地に伏しながら、
その姿を見ていた。
——白瀧隊長が、
本当に“神”に選ばれた人間なのだと思った。
光と闇がぶつかるたび、
空気が焼け、音が消える。
けれど、その一瞬。
闇の爪が、白瀧の背後から伸びた。
かのんが息を呑む。
「隊長っ!」
走り出す。
痛みも恐怖も、もう感じない。
彼の背中に迫る黒い刃の光。
その間に、自分の体を滑り込ませた。
「——っ!」
鈍い音。
胸の奥が焼けるように熱い。
「かのん!?」
白瀧が振り向く。
彼女の肩口に黒い爪が刺さっていた。
血が噴き出し、足元に落ちる。
「なんで……君まで……!」
「だって…あなたが、これ以上傷つくのが、
嫌だったから……」
「バカだ……!」
白瀧が彼女を抱きとめる。
肩が震えている。
「痛い?」
「ううん……あなたが泣きそうな顔してるほうが、
痛いよ……」
「泣いてない。」
「うそ、だからね……」
白瀧が顔を伏せる。
手が血に染まり、
その上で、光が生まれ始めた。
⸻
腰の神紋が、爛々と輝く。
虎の爪痕が浮かび、白い光が彼女の体を包む。
かのんは息を吐く。
視界がぼやけて、世界が白に溶ける。
「……この力、あったんだね……
私の中にも……ちゃんと……いたんだ、虎。」
「やめろ、かのん、それ以上使うな!」
「でも……あなた、生きて……」
光が強くなる。
かのんの身体が震える。
光が白瀧の胸に流れ込み、
破れた肉を癒していく。
「お願い、もう一度だけ笑って。
あなたの笑顔、見たいからね。」
「かのん、やめろ……代償が——」
「いいの。
生きててくれれば、それで……いいの……」
白瀧の胸の穴が、ゆっくり閉じていく。
けれど、かのんの瞳から色が消えていった。
「……光が……見えない……」
「かのん!?」
「でも……あなたの声が、光みたいに聞こえる。
それで、大丈夫……」
⸻
せなの声が、風の中に響いた。
「愛って、残酷ね。」
白瀧が振り向く。
闇の中で、せなが泣いていた。
「どうして、そんな顔ができるのよ……
あたしは、あんたが欲しかっただけなのに。」
「分かってる。」
「嘘!」
「分かってるさ。
でも、僕は——君を止めないといけない。」
「……あたしを?」
「“部下として”じゃない。
“友として”だ。」
せなが微笑んだ。
涙が血と混ざって、頬を伝う。
「……なら、早くやってよ。
隊長。」
白瀧は刀を構える。
声が掠れていた。
「ありがとう、せな。」
「言わないでよ、そんなの。」
一閃。
白い光が闇を裂く。
風が止み、世界が静かになった。
せなの姿が消える直前、
かすかに笑っていた。
「…幸せに……ね。」
⸻
夜明け。
風の音が、遠くで優しく鳴る。
白瀧は地に座り、かのんを抱いていた。
彼女の瞳は閉じたまま、
けれどその唇には微笑が宿っていた。
「かのん。」
「……うん。」
「見えるか?」
「ううん。
でも、あなたの声が光みたい。
だから、怖くないよ。」
白瀧が手を握る。
血の跡が乾き、風が二人を包む。
「僕は、君を守るために生きる。」
「私も、生きる。あなたと。」
白瀧が目を閉じて、静かに笑った。
空が白む。
風が吹き抜ける。
白虎の紋が、朝の光に浮かび上がる。
かのんの腰に残る爪痕が、
最後の一閃のように輝いた。




