冷血の女伯爵は踊らない 婚約破棄された令嬢の最初で最後の恋のゆくえ
満月の淡い光が地上を照らしていた。
この時期の月光には独特の“力”があって、あらゆるものに魔法をかけるのだ。
たとえば、咲き乱れる花々は、幻想的な美しさをベールのようにまとって、この世のものとは思えないほど。
女伯爵は窓辺に立ち、夜の庭を見ていた。
齢六十歳を超えるが、背筋はピンとまっすぐに伸びている。
単に姿勢が良いだけでなく、全身から放たれる威厳が、接する者に自然と敬意をいだかせる人物であった。普段ならば、眼光は人の心を見透かすように鋭く、言葉は誰もが逆らえぬ重みを持つ。
だが、いまの彼女は動揺するばかり。
眼は焦点が定まらず激しく動き、唇は不用意に声を漏らしてしまう。
「ど、どうして、あなた様が……」
視線の先には、ひとりの美少女。
年若い貴族のご令嬢――風もないのに長い髪はふわりと揺れている。その立ち姿には、どこか懐かしさを感じた。
そう、確かに見覚えがある。
気高く、美しく、そして外見とは裏腹に心根はやさしい人物。
ああ、ずっと封印していた記憶どおりのままだ。
しかし、少女はなにも答えてくれない。
ただ、月の光を背にして、静かにたたずむままだ。
女伯爵が驚く数時間前。
太陽が地平線ちかくにまで沈むころ。
空は、鮮やかなオレンジ色に染まり、夕日を受ける雲は黄金色に輝いていた。晩秋の風はやや冷たくて、あと数週間も過ぎれば、落葉樹の葉を赤や黄色へと変化させるであろう。
馬車が一台、古い教会を訪れた。
車体は最高級ながらも控えめで華美にならず、馬たちも毛並みがよく、きちんと飼育されているのが推察できる。
御者が丁寧な仕草で扉をあけると、ひとりの貴婦人が降りてきた。
女伯爵だ。
この時代には珍しい女性当主でありながら、実力をもって一族一党を率いてきた人物。
力関係が複雑な貴族社会において、隠然たる影響力をもち、多くの男たちに沈黙を強いる立場を、何十年間も維持し続けている。
「ここまででよい。あとは、わたしひとりで構わぬ」
軽いひと言で、屈強な護衛たちを引き下がらせた。
常日頃からの関係もあって、部下は無駄なことは口にしない。互いに信頼関係を築いており、必要最小限の言葉だけで、意思疎通ができてしまうのだ。
彼女は、ゆっくりと歩を進める。
石造りの廊下は冷たく、足音が小さく反響するばかり。あらかじめ連絡をしていたので、人払いは完了しており、余人と出会う心配は不要だ。
目的の部屋の前に立った。
ノックはしない。
必要ないことを事前に把握していたから。
そっと扉を開けると、室内は薄暗く、静寂に包まれていた。窓辺のカーテンは半ば閉じられ、夕日の光が床をやわらかく照らしている。
家具は少なかった。
どれも質素だが、統一感があって品よくまとまっている。部屋自体が少々古びていても、すみずみまで掃き清められており、空気までも澄んでいるかのよう。
全体的に調和があり、静かな品格があった。
なんとなく、部屋の主の性格が伺い知れてしまう。
ひとりの修道女が、寝台に横たわっていた。
目覚める気配はない。
まぶたは閉じており、呼吸はかすかに上下するのみ。頭髪は白く、顔にもシワがあるのだけれど、顔全体が整っているため、優美な印象がある。
昔は、さぞかし、出会う者を魅了したことであろう。
女伯爵は、寝台横の椅子に静かに座った。
しばらくの間、眠り続ける老女を無言で見つめる。
瞳がすこし潤んでしまうのは、こみ上げてくる懐かしさのせいだ。
「お久しぶりです。最後のご挨拶をしにまいりました」
返答はない。
もちろん、期待などしていなかった。
再会できただけで充分に満足だ。
そっと窓の外に目をむける。
教会敷地の内側、壁沿いに広がる花壇があって、たくさんの秋薔薇が咲き誇っていた。国外の珍しい品種や、育成の難しいものなども混じっていて、たいへん華やかだ。
「ここに来るときに、お花畑を見つけましたよ。あれは、あなた様が植えたのでしょう? すぐに分かりました。だって、とても好きでしたものね」
再び、声をかけるが、それはひとり言に近かった。
返事なんていらない。
年老いた修道女に会うことが、彼女の心底からの願いであった。
音楽が、遠くのほうから聞こえてくる。
晩秋のこの日は、国中が収穫祭を迎えて、みんな浮き立っているのだ。
国民は、実り多き収穫を祝い、今年も豊穣であったと神々に感謝する。そして飲み歌い、踊って生きていることを喜んだ。
楽師は、人々を楽しませるように、さまざまな音色を街なかに響かせる。
その中に、あの曲も混じっていた。
地母神への祈りを捧げる祝祭の旋律。
百年ほどまえに、ワルツ用に編曲されてからは、舞踏会でもよく使われるようになった。今では、誰もが知る国民曲として、貴族から農民にいたるまで幅広く人気がある。
――ああ、懐かしい。
ワルツ曲を耳にして思い出してしまう。
「あなた方のダンスを見るのが好きでした」
とても、お似合いのカップルだった。
お互いをフォローする動きや、息の合ったステップ。
そんな技術的なことはどうでもよい。
ただ、相手のことを愛し、しあわせそうに踊る姿は、ほんとうに輝いてみえたものだ。
「あの頃のわたしは、まだ、もの知らずな娘で……」
当時、わたしは、侯爵家のお茶会に頻繁に招かれていた。
ご令嬢のあなたは、たいへん頭が良くて、しかも勉強熱心。当然、各分野の知識も豊富で、貴族社会のルールや作法を、わたしたちに丁寧に教えてくれた。
ある意味、少女たち派閥のリーダー的存在。
性格が勝ち気なところもあって、誤解されること少なくなかった。
でも、わたしは知っている。
身内だとした者に対して、あなたは驚くほどやさしかった。
他者の過ちを責めるより、やさしく手を差し伸べる。
なによりも、自分の不利益を承知で、相手を守ろうとする人だ。
わたしは、そんなあなたを尊敬する。
幼いながらに、忠誠を尽くそうと、心の中で誓っていた。
そして、王太子殿下とのご婚約がきまったときは、我が事のように喜んだものだ。
殿下のことも、よく覚えている。
公務の場での彼は厳格で、感情を表に出すことは滅多にない。
ただ、あなたが一緒のときは、ぜんぜん違う。表情がやわらぎ、まるで冬の陽だまりのようだった。
そんなお二人が並んでいるだけで、わたしは胸がときめいたのを覚えている。
「……でも、わたしは裏切ってしまいました。敬愛するあなたを」
罪を告白した。
今日しか、過ちを告げる機会はないのだ。
この瞬間を逃せば、もう未来永劫、自分の罪科を話すことはできなくなってしまう。
もちろん、赦してもらうつもりはない。
むしろ、この独白は、改めて己の罪深さを認識する儀式となるのだ。
覚悟はできている。
清らかなあなたは天国へと昇るであろうが、穢れたわたしは地獄へと堕ちゆく。
「当時のわたしは、力弱き小娘でした。父親の命令に抵抗する術も意気地もなかった」
父、つまり伯爵家当主の言葉は絶対だ。
本心では拒絶したかったが、結局は従うしか選択肢はない。
なぜ、あのような指示が下されたのか。
どうして、あなたを陥れる必要があったのか。世間知らずの少女には理解なんて無理。王国内の派閥争いや熾烈な駆け引きのことなどは、別世界のできごとなのだから。
わたしは命じられるままに証言する。
せざるを得なかった。
具体的には、“聖女に対する毒殺計画”について。
恐ろしい陰謀を下知したのは、侯爵令嬢であると。
令嬢は極悪人として断罪された。
もちろん、王太子殿下の婚約は破棄。
彼女は王都を追われ、教会に身を寄せることになる。貴族社会からも追放され、復帰の道は閉ざされた。
無知で愚かな小娘の言葉ひとつで、あなたの未来は断たれてしまう。
後日、殿下に挨拶する機会があった。
彼はわたしの顔を見ても、何も言わなかった。
ただ、感情を押し殺して静かに頷くだけ。その沈黙が、ずっと胸に残っている。あれは、怒りだったのか。失望だったのか。
それとも――哀しみだったのか、いまもわからない。
「そういえば、あなたから『罪と赦し』について、教えてもらったことがありましたね」
ふたりだけの会話だった。
人間の罪について深く語り合ったことがある。
なぜ、神学的で深い話題になったかは不明だが、内容はしっかりと記憶に刻み込まれていた。
「悲しいことですが、人は罪を犯すものですよ」
「ええ、世の中には悪いヤツは、たくさんいますから!」
「おっしゃりとおり。でもね、法を破るだけが咎人ではありません。
普通の一般人、いや、それどころか高潔な人格者であっても、道を踏み外します。小さな罪科を含めるなら、生きている者すべてと言いきってもよいでしょうね」
「そ、そんな! では、わたしも悪人になるのですか?」
「いえ、犯罪者ではありませんよ。しかし、人生において、正しいことだけを常に選択し続けることは不可能でしょう。
とはいえ、心配はいりません。なぜなら、神さまは、愚かな人間でも赦してくださるのですから」
あなたは教えてくれた。
犯した罪を贖うには、それ相応の犠牲や代償を捧げねばならない。心から反省し、きちんと贖罪すれば、神様は認めてくれると。
彼女の言葉には不思議と説得力があった。
「神さまの赦しに気づけない人もいる。真面目で自分に厳しい人物ほど、その傾向は強くなってしまう。
だから、独自の【赦しのサイン】を決めておきなさい。
ちゃんと見分けられるように。約束してね、きっと救いを得られるから」
「ええ、わかりました」
なお、“サイン”は、なんでも構わないらしい。
例えば、『見ず知らずの他人から感謝される』だとか、『晴れているのに、雨にぬれる』など。助言されたのは、不意の出来事や、滅多に目にすることのない現象などが良いらしい。
当時は、ただの宗教的な教えだと認識していた。
しかし、後日、偽りの証言をしたときになって、ようやく真の意味が分かる。自分自身の罪を自覚したあと、あの日の会話を思い出した。
わたしは【赦しのサイン】を決める。
あなたとの約束だ。
やぶることはできないが、内容なら自由に設定できる。
心深く定めたサイン。
――侯爵令嬢と王太子殿下が、ふたりの踊る姿を見ること。
絶対に実現しないもの。
だからこそ、このサインにした。
無罪放免などあり得ない。
つまり、わたしは、自分を赦すことを拒絶したのである。
それ以来、ワルツ曲を避けるようになった。
耳にするたびに、胸が痛む。
あの旋律は、罪の象徴となったのだ。
――だから、いま、こうして再び、あのメロディが聞こえてくると苦しい。でも、懐かしく感じてしまう――そんな自分が、たしかにいた。
聖女のことは覚えている。
彼女は、百年に一度と称されるほどの光属性の魔法を持っていた。とくに【癒し】の力においては、他の追随を許さない。
その強力さゆえに、教会は、聖女と王太子殿下の婚約を強引に勧める。
けれど、わたしは違和感を抱いていた。
ときおり、意味不明な言葉を口にし、奇妙な行動をとるためだ。
「ゲーム設定だと……」
「攻略ルートに入ったかも……」
「隠しアイテムの場所が……」
そんなときの聖女の目は、どこか遠くを見る。
現実から浮遊して、空想の別世界に住んでいるみたいだった。ひとりだけ、ぜんぜん違う価値観やルールで生きているのかと、疑ったことすらある。
事実、彼女はアンバランスな人物だった。
常識的な知識、たとえばお金や距離の単位を知らない。
そのくせ、世界はとても大きな球体などと、偉い学者さまが唱える学説について語ったりするのだ。
どうしても、“聖女”だとは思えなかった。
確かに“癒しの力”については絶大な効果があるのは認めよう。
しかし、それは能力のこと。
精神面を評価するなら、かなり俗っぽい。
教会が宣伝する“清らかで心優しき乙女”のイメージとは、まったくかけ離れていた。
あの女は単純に損得勘定で判断するタイプだ。
自分に有利にはたらくなら他人に親切にけれど、見返りがなければ指一本たりとも動かさない。
賢く用心深い性格ならば、そういった面を隠すが、聖女はそんな配慮すらしなかった。なんとも底の浅い人間だろうと、呆れたものである。
仮に、わたしが教会責任者だったら、あんな人間を“聖女”だと認めない。
理由は、精神と能力のバランスが取れていないため。
例えるなら、無知な子供が鋭利なナイフを振り回すようなもの。
とにかく危険だ。
自分ばかりか、まわりの者をも傷つけてしまう。そんな危うさがある人間を、“聖女”にするなんて無責任なことはできない。
いっぽう、王太子殿下。
あの御方は、常に職務を優先する立派な人物であった。
感情よりも責務を重んじ、王族としての義務を何よりも大切にする。
それゆえに、彼女との関係も“義務”として受け入れたのだろう。
数年の婚約期間を経て、ふたりは結婚した。
表面上は仲睦まじく見えたし、国民も祝福する。
聖女は満足そうだった。
まるで、物語の“ハッピーエンド”にたどり着いたかのように。
ただし、それは明らかな間違いだ。
次期国王である王太子との結婚は幸福な“ゴール”ではない。
統治者として辛く厳しい生活の“スタート”なのだ。
やがて、国を揺るがす厄災が訪れた。
魔物の大群が現れ、幾つかの小国家や自治都市は全滅。
王国も存亡の危機に直面した。
王太子殿下は、総指揮官として出陣する。
国王の後継者としての義務であり、国軍を率いて戦場へと赴いた。
聖女に対しても、責務を担うよう声があがる。
しかし、王太子妃となった彼女は、この要請を拒否。
大勢の貴族や官僚がいるまえで、『エンド後のイベントなんて勘弁してよ』と理解不可能なセリフを大声で叫んだ。
当然だが、王太子は激怒する。
国家の統治者として生真面目に職務をまっとうする者としては、伴侶の不見識な言動は看過できない。
彼は、彼女に有無をいわさず強引に戦地に連れていった。
そして、ふたりは最前線で命を落とした。
それが偶然だったのか、あるいは――。
わたしは、こう考えている。
王太子殿下は、彼女を道連れにしたのではなかろうかと。
動機は、心の奥底でくすぶり続けた怒り。
聖女を押しつけた教会勢力、結婚を認めた国王が、怒りの対象だ。なによりも、婚約破棄を受け入れた自分自身に憤りを抱いていたのだと。
出陣前の数日前。
王太子と短く言葉を交わした。
彼は、わたしが虚偽の証言を強いられたことを知っていた。殿下は責めるどころか、むしろ『巻き込んで済まない』と言ったのだ。
その台詞が、わたしの胸に深く刺さっている。
あの御方もまた、重い罪を犯した咎人であったのだ。
だから、贖罪のために己の生命をかけて、魔物の群れに吶喊したのだろう。
残されたわたしは、復讐を決意した。
侯爵令嬢を無実の罪に陥れ、王太子殿下を死へと追いやった連中に罰を与えると。
最初のターゲットは父親だ。
謀をめぐらせ、伯爵家当主の座から追放してやった。当然、自分が当主を引き継ぐ。
他に婚約破棄を目論んだ貴族どもを破滅させる。
教会組織は規模が大きすぎたので、内部抗争を激化させて聖女派閥を潰すところで、矛を収めた。
味方をしてくれたのは第二王子と宰相閣下。
実兄を殺された王子の怒りも相当なものだったし、王室の権威を蔑ろにする不忠義者を許さない宰相も支援してくれたのだ。結局、三者の利害は一致して王国内の腐敗を一掃することになった。
その過程で、わたしは、貴族社会において“冷血の女伯爵”と恐れられるようになる。
すでに太陽は地平線へと沈んでいた。
かわりに満月が天へと昇って、淡く青白い光を放っている。
わたしは所用を済ませるため、いったん部屋を出た。
待機していた部下から報告を受けて、しばし検討した後、指示を与える。防諜活動という陰働きをする者たちを統括するのが、“冷血の女伯爵”の役割だ。
いわば、汚れ仕事のボスである。
国家にとって大切だが、当の本人からすれば、果てしなく続く雑務を淡々と処理するだけ。長く勤める職ではないなと考えながら、ゆっくりと廊下を歩く。
外から微かに音楽が響いてきた。
教会敷地の外側、街の中心部からなので、収穫祭の余韻であろう。
風に乗って届く旋律は、あのワルツだった。
無意識のうちに足が止まる。
長年避けてきた曲だ。
けっして嫌いなのではなくて、耳にするたびに胸が締めつけられるから。どうしても自分の罪を自覚させられてしまう。
なのに、今夜は違った。
理由は分からないけれど、心静かに聞き入ることができる。
もしかしたら、ひさしぶりに元・侯爵令嬢と再会したことが影響しているのかもしれない。
「……それでも、罰は背負い続ける。わたしが死ぬまで」
ずっと己の幸せを禁じてきた。
そんな資格はないし、求めることもしない。
自分自身を罰するために、ワルツのような優雅なものを、拒絶する人生を選んできたのだ。
しかし、思い出の旋律は響いてくる。
巌のように凝り固まった気持ちを、やさしく解すように。あるいは、乾ききった心に、じんわりと染み入ってきて潤いを与えるかのように。
微かに伝わってくるメロディが、頭の中で繰り返される。
何度も、何度も……終わることがない。
「もしかして、月の影響?」
満月には不思議な“力”がある。
昔からの言い伝えだ。
月の魔力を受けて、さまざまな異常現象が発生するのだとか。
これを信じる庶民は多い。
たとえば、月夜のある日、別世界へ誘われた迷い人の話。
満月になると狼へと変身する男。
経験則でいえば、満月期と新月期には出産数が増えるといったことも。
「迷信だと切り捨てることもあるまい。たまには、なにも考えずボンヤリとするのも良かろう」
あらためて花壇を見やる。
月光に照らされた薔薇は幻想的な美しさであった。
もし月に魔法があるのなら、きっとその術中にあるのだろう。夢心地な気分にしてくれるなら、ほんのひとときだけでも楽しもうではないか。
そうおもって、ひとり廊下にいたのだが……。
いつの間にか、わたしは、とても広大な空間に立っていた。
ワルツ曲が大きく響き渡る。
薔薇の花は地面いっぱいに広がっていた。
月の光も明るくきらめいて、夜会のシャンデリアのよう。
ああ、これは幻想だ。
現実ではないと頭では理解している。
でも、声をかけずにはいられなかった。
「まさか、あなたは?」
視線の先には、少女がひとり。
十五歳ほどの令嬢が、果てしなく広がるお花畑のなかに立っていた。つややかで長い髪はふわりと揺れている。
あたりを気にするようすは、誰かを探しているからだ。
王太子殿下が現れる。
背格好は当時の姿のまま。
ゆっくりと歩み寄り、そっと片手を差し出した。
侯爵令嬢は、その手に自分の指先をのせる。
挨拶の言葉は聞こえないけれど、彼女の唇の動きでわかってしまう。
お久しぶりです、ずいぶんとお待たせましたねと、言ったのだ。
対する王太子は軽くほほえむだけ。
返事するかわりに、相手をダンスへと誘った。
もちろん、バックに流れるのは、あのワルツ曲。
優雅な旋律に合わせて、ふたりは華麗に踊り始める。
もう、何十年も前……、純情で無知なわたしが密かに憧れていた、令嬢と殿下のダンスだ。
ふと気づけば、あのメロディは消えていた。
先ほどまで、ずっと耳の奥で鳴り続けていたけれど、いまは静かだ。遠くのほうから、街のざわめきが伝わってくる程度。
薔薇もひっそりと咲いているだけ。
ごく見慣れた姿かたちで、幻想的な輝きはなくなっている。
夜空高くにある月も同じ。
淡い光で地上を照らしているけれど、不思議な力は失せていた。月光が織りなす幻想の世界から、現実に戻ったのであろう。
わたしは、再び部屋へむかう。
あのお方は天に召されたのだと確信しつつ、ゆっくりと廊下を進んだ。
慎重に扉を開けると、静寂が室内を支配している。
寝台では、元・侯爵令嬢が横たわったまま。
その表情は穏やかだ。
侯爵家から離籍させられたのち、苦労してきたはずなのに、顔には悲嘆の跡はなかった。確かにシワはあるけれど、それはしっかりと人生を歩んできた証だ。
上手に年月を重ねたのだと窺い知れる。
息は止まっていた。
しかし、満ち足りた様子がすべてを物語っている。
わたしは、そっと彼女の枕元に膝をついた。
「……ずっと、赦される資格などないと信じ込んでいました。でも、おふたりの踊る姿を拝見して、ようやく気付いたのです」
赦しとは、与えられるものではなく、自ら受け取るものなのだ。
然るべきときが来れば、サインは現れて、おのずと理解できてしまう。
「誤解していました。あなたのお人柄を考えれば、わたしの罪など気にも留めていなかったのでしょうに……」
侯爵令嬢は、いつも自分より他人を先に思いやる御方だった。
人の過ちを責めるのではなく、やさしく手を差し伸べる。
そのやさしさと気高さを、わたしは敬愛していた。
「見誤っていたこと、まことに申し訳ございません。そして、心から感謝いたします」
返ってくるのは沈黙。
でも充分だ。
すでに、彼女からのメッセージを受け取っていたのだから。
長いあいだ、ワルツ曲を遠ざけていた。
けれど今なら、素直に愉しめる予感がする。
あの旋律を耳にすれば、おふたりの楽しそうなダンスの記憶と共に、純真無垢な少女時代に戻れるだろう。
思い残すことはなにもない。
胸の奥がふっと軽くなった。
もう音楽は聞こえない。
ただ、風に揺れる薔薇だけが、わたしを見守っている。