11.番外編:嫌いな春
「アダラート、私結婚するの。」
「は、?」
穏やかで平和な春。
雷鳴のように突如告げられた告白は、彼の世界の光を消した。
「パパが決めたんだけどね、お金持ちの商人の息子なんだって。これで家も安泰だって喜んでくれたわ。」
明日、正式に結納するの。と彼のお嬢様"ハリエット"は目を伏せ笑う。
「明日!?そんな急に…」
「いえ、別に急じゃないわ。私がお前に言わなかっただけよ。」
ハリエット曰く、この婚約は半年も前から決まっていたという。
(そんなこと、微塵も分からなかった。)
彼女のことを1番理解していると自負していたアダラートは己の情けなさに吐きそうになる。
しかし、それも無理は無い。
嘘が下手くそなハリエットが、生涯をかけた嘘をついたことを、この時の彼は知る由もないのだから。
そんな事とは露知らず、驕っていた…と自己嫌悪に陥っていた彼は一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
この傲慢が無くとも、アダラートには受け止められない現実だった。
「初めて、パパに喜んでもらえた。
勉強が出来ても、花を贈っても喜んでは貰えなかったのに。
…勘違いしていたんだ、私もお前も。」
そう笑う彼女に、もうあの頃の少女の面影は無い。
あんなに我儘で、傲慢で、薔薇のように可憐だった少女は、アダラートを置いていったのだ。
手を離さないでと約束させたのはそっちなのに。
アダラートは震える声で、祝福の言葉を贈った。
花も、洋菓子も、洋服も、もう受け取っては貰えない。
彼女の見たことも無い服が、それを物語っていた。
「もう、少女ハリエットはいない。お前も、お嬢様と呼ぶのはやめろ。」
「では、何と…」
「…"奥様"と呼ぶんだ。頼む。」
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
「…承知いたしました。」
そんな自分の欲にまみれた言葉を孤児だったアダラートに言う権利など無く、彼女の目を、顔を一切見ること無く逃げるように部屋を後にした。
(もし、もし俺の身分が彼女の隣に並ぶようなものだったとして…
彼女の手を引いて俺が幸せにすると、全てを捨ててでも俺と一緒にいてくれと言えるだろうか。
、、、、無理だな。)
きっと相応しい身分があっても、それに見合う器が備わっていない。
こんなことになるのなら、身分も知らないガキのうちに告白でも何でもしていれば良かった。
アダラートはその日から、人生に期待することを辞めた。
奥様の花嫁姿はこの世界で一番美しかった。
奥様の息子は彼女に似て我儘で、可愛らしかった。
奥様の育てた薔薇は、彼女の息子の手によって枯れた。
「…大丈夫ですよハノ様。本当は奥様は花には興味が無いのです。」
「でも、目が…」
「ただ、あの美しい花が彼女が唯一自分の手で手に入れたものだっただけで。」
そのまま壊れて散った彼女を見ても、涙が出なかった。
もうずっと、気が付かぬうちに自分も壊れていたのかもしれない。
【私が死んだ時、泣いて悲しんでくれる人間がこの世に何人いる?お前は、どうだ?】
(泣けなかったよ、俺は。
お前が望むなら泣いてやりたかった。
もう、それしか俺には出来ないというのに、)
ハリエットはアダラートにとって呪いみたいな女だった。
もう、彼女はアダラートが涙を流さなくとも、彼を咎めることも傷つけることもしないのだ。
彼女の部屋に残っていた押し花が、彼が初めてハリエットに贈った花だったことも、旦那様が全てを知った上でアダラートを屋敷に残したことも、全てはもう無意味なのだ。
無意味のはずだった。
『…じゃあ女性へ贈り物をしたこととか、ある?』
静かな夏の日のことだった。
…したよ、沢山。
あの人に顔が似た息子は、とことん彼女とは真逆で、臆病で自信が無さそうで。息子すらも呪って死んでいったのかと思うと哀れでならなかった。
しかし、父親に顔の似た長男はどこまでも彼女と同じだと思った。ただ違ったのは、自分の心も体も大切に出来ているところで、彼は1人でもこの窮屈な家を飛び出した。
(1度でも君たちを自分に重ねたことを謝りたい。)
あの恋はきっと罪悪で出来ていた。
でも、正解で無くとも、無意味ではなかった。
今を生きる若人に助言を出来る立場にいるのなら、意味のあった人生なのだろう。
この日、ようやくそう思えた。
*
「アダラートってどの季節が好き?」
「季節ですか?」
ある冬の日、ハノが問う。
「この前アーベルと話して面白かったんだよね。」
「…私は、」
「私は夏が好きです。春が嫌いなので。」
そう言うと、そんな人いるの!?とハノはアハハ!と口を大きく開けて笑った。
「ハノ様は夏の月のようですね。」
あの人は春先の雷鳴のような人だった。
アダラートがハリエットに贈った花はストックです。