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岩礁は波間にぽっかりと姿を現わしていた。
話しに聞くとおり、木も草もない岩場だ。
ひっきりなしに波がその上を洗っている。
オレたちはそこに飛び移った。
舟の舫いも術を使って固定しておく。
うまく怪物を封じても、帰れなくなったら困る。
飛沫が降りかかる。
風が塩辛い。
少し強い波がくれば、海の中に引き込まれそうだ。
こんな場所で、あの怪物に襲われたら…
考えだすときりがないが、どうにも心細かった。
それは、陸に棲むモノの、本能的な怯えのようなものだろう。
しかし、花守様は淡々としていた。
海を前にしても、恐れているようには見えなかった。
花守様は平たくなった場所に琴を置くと、その前に座った。
それから、ゆっくりと、琴を爪弾き始めた。
静かな琴の音が、波の音と溶けあう。
すると、周囲の海藻が、揺れだすのが見えた。
はじめは、波に揺られているのかと思っていた。
けれど、その揺れは、琴の響きと綺麗にそろっていた。
ふわふわと拡がり、大きく育ち始めるものもあった。
単純に、すげえ、と思った。
これが花守様の力か。
島のご神木を復活させた、という話しも聞いていたけど。
なるほど、これなら納得だと思った。
花守様の妖力を受けてなずの木々は立派な森になっていく。
つねに揺らめく、海のなかの大きな森。
これならば、怪物も封印できるかもしれないと思った。
憎っくき怪物だった。
叶うことなら、滅ぼしてしまいたい。
けれど、オレたちには、あの怪物と戦う術がなかった。
怪物のかたいからだには、刀も刃が立たない。
狐の火は、水中の敵には効かない。
強い瘴毒にさえ耐える怪物には、毒も効果がない。
なにより、狐は水のなかでは戦えない。
息長の民は、鯨とでも戦えるほど勇敢な人間だった。
けど、その心はバラバラになって、多くの者が島を去った。
残されたのは、力のない、怪我人ばかりだった。
大きな舟があれば。
妖狐族の一団が、ここにいれば。
あるいは、戦えたのだろうか。
しかし、郷はついこの間、大王と和平を結んだばかりだ。
今おおっぴらに大勢の戦師を動かすわけにはいかない。
だからこそ、花守様がここへ来たんだ。
旧くからの盟友の危機を救うために。
それは、戦いへの助力のためではなく。
傷ついた仲間を癒すためだった。
花守様は、怪物と戦うために、ここへ来たのじゃない。
弱いとは言わないけれど、おそろしく戦いにはむいてない。
お前にしても、オレにしても、それは同じだ。
それでも、この状況は自分たちでなんとかするしかない。
島は怪物の瘴毒に汚染され、これ以上は棲めない。
残された民も、なるべく早く、逃げなければいけない。
けれど、周囲の海もまた、怪物の瘴毒に侵されてしまった。
瘴毒に侵された海は、渡ろうにも渡れない。
怪物を封じ、これ以上の瘴毒をまき散らさせない。
それしか、民を生かす方法はない。
彼を罰することのできるのは、彼自身だけなのですよ。
それ以外の者がたとえ彼に罰を与えたとしても。
それは、彼のなかで、憎しみに変換されるだけ。
花守様は、怪物のことを、彼、と呼んだ。
あれほどに恐ろしいことをしでかす怪物を。
まるで、親しい者のように呼んだ。
いつか、あの怪物が己の行いを改悛する、と。
心から信じているかのようだった。
自分の妖力は、植物との親和性が高い。
花守様はそうおっしゃったけど。
実際には、生命との親和性が高い、のじゃないかな。
オレはそう思う。
だからこそ、治療師としても、花守様はすごいんじゃ。
いつも、どんなときも、花守様は命を諦めない。
それが、たとえ敵でも。怪物でも。
花守様は、そういう妖狐だ。