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岩礁へと舟を進める途中も、周囲には常に警戒していた。
いつ、あの巨大な怪物が現れるか分からない。
陸の獣なら、気配を読むことも可能だけれど。
海の怪物の気配には、オレもあまり慣れていなかった。
瘴毒に染まった海には、魚の姿はなかった。
ときどき見えるのは、ゆらゆらと揺らめく大きな海藻だけ。
なずの木、といったか。
陸の木は風になびいて揺らめくが。
海の木は、波に揺られて揺らめいていた。
魚はみんな逃げちまったみたいですね。
黙っているのも居心地悪くて、つい、話しかけてしまう。
花守様は、ええ、と頷いた。
動けるものは、危険が迫れば逃げてしまいますから。
確かに、植物には逃げるという選択肢はない。
なずの木には、瘴毒の影響はないんでしょうか。
それは、あると思います。
けどね、植物というものは、動物よりも強いところがあって。
なずの木にもは、瘴毒を浄化する能力があるようなんです。
それは、有難いことだ。
だからね、怪物を封印して、これ以上、毒を流さなければ。
いずれ、この海も、なずの木の力で浄化されると思います。
つくづく、森というのは、すごいもんだな。
なんかでも、そのすごさって、ちょっと花守様に似ている。
そろそろ岩礁が見え始めてもよさそうな頃合いだった。
確かに舟の進むのはひどくのろかったけど。
それでも、少しずつは進んでいたんだからな。
そろそろ朝の霧も晴れてもいい頃合いだったが。
なんの具合か、霧はいっこうに晴れそうになかった。
それは、突然、やってきた。
ぐらり、と舟が揺れた瞬間だった。
突然、大波に持ち上げられたかと思うと。
今度は、一気に波の底へと叩きつけられた。
よくぞ舟がバラバラにならなかったものだと思う。
とっさに花守様のかけた強化の呪文が間に合ったのか。
それとも、息長の丈夫な舟だったから耐えられたのか。
とにかく、一撃目で、海に放り出されるのは免れた。
けど、すぐに、オレたちは、絶望的な光景を目にした。
それは、海面に高々と持ち上がる巨大な蛸の足だった。
突然、海の上に、大木が現れたのかと思った。
そこから落ちる影に入って、辺りは一瞬、薄暗くなった。
およそ陸の生き物でこれほど大きなものは見たことがない。
大木の幹ほども太さのある足は、くねくねと自在に動いた。
先についた巨大な吸盤が、すっと窄まるのが見えた。
まずい!
そう思った瞬間だった。
予想もつかない背中側から、いきなり舟に衝撃がきた。
強く揺さぶられ、舟の縁に必死にしがみついた。
海に落とされないようにするので精一杯だった。
オレとは反対に花守様は舟に立っていた。
両手を広げて、防御結界を必死に保っている。
どうやら、その結界のおかげで、足の直撃は免れたらしい。
けれども、その後も何度も、足は結界に襲い掛かってきた。
結界を押し破ろうとするように、力づくで叩きつけた。
スギナさん、怪我は?
花守様は、結界を保ちながら、オレを振り返った。
結界に護られた舟のなかには、波のしぶきも入ってこない。
それはまるで、透明な丸い玉のなかに包まれているようだ。
波に揺られ真っ逆さまになっても舟は転覆はしなかった。
これなら、いける。
オレは体勢を立て直すと、弓を取った。
ちょっとくらい足場が不安定でも、オレはそう困らない。
木から飛び降りながらだって、弓は撃てるからな。
花守様は結界を保持しながら、怪物をじっと観察していた。
オレも花守様の隣に並んで、怪物をよく見た。
海の上に現れるのは、怪物の足ばかりだった。
胴体は海の中からは現わさない。
どうせなら、胴体を撃ったほうが効くと思うが。
仕方ない、あの足を狙うか。
鏃には、強力な痺れ薬を塗ってあった。
山の主にもなれそうな猪を一瞬で眠らせるほど強力な薬だ。
念には念を入れて、それをさらに、十倍に煮詰めてあった。
あれだけの瘴毒を垂れ流しつつ生きていられる怪物だ。
並みの毒が効くとは思えない。
しかし、痺れ薬なら、あるいは、効くかもしれない。
矢をつがえようとしたオレを、花守様は引き留めた。
そして、鏃に、さらに強力な幻術を乗せた。
施術をする患者に使う、ぴくりとも動けなくなる術だ。
これなら、さすがの怪物も、少しはおとなしくなるだろう。
花守様、一瞬だけ、結界を解いてもらえますか?
分かりました。
花守様に余計な説明は必要ない。
オレたちは息を合わせて、一瞬の好機に矢を放った。
矢は過たず、怪物の足に突き立った。
猪なら、即座に気を失っただろう。
しかし、怪物には薬の効きはイマイチだった。
図体がでかいせいかもしれない。
一瞬、遅れてから、怪物は矢の痛みを感じたらしい。
強烈に暴れ始めた。
渦に巻き込まれる木の葉のように、舟は翻弄された。
花守様は、結界を保持するのに精一杯のようだった。
いつもの余裕もまったくない。
仕方ない。
オレは二の矢をつがえようとした。
さっきのがとっておきの矢だったけれど。
今度のも、それなりに強い薬を塗ってあった。
ところが、今度は、なかなか撃つ好機が訪れなかった。
今、結界を解けば、オレたちは海のなかへ真っ逆さまだ。
花守様の結界のおかげで、なんとか、舟はもっていた。
このままじゃ、埒があかない。
いったい、どうしたものか。
にわかに焦り始めた。
じりじりと嫌な汗が背中を伝った。
そのときだった。
びくり、という波が、舟の底から伝わってきた。
それと同時に、怪物の足は、海面にぴたりと静止した。
高く持ち上げられた足は、まるで海上に突っ立つ柱だった。
そして、それはそのまま、海のなかへと沈んでいった。
ふう。
ようやっと、薬が効いてくれましたかね。
花守様は袖で額の汗をぬぐう。
それから、オレのほうを見て言った。
枯野の岩礁へ。
急いでください。スギナさん。
もちろん、オレもそのつもりだった。