表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風恋文  作者: 村野夜市
6/18

海は瘴気に染まっていた。

舟の上で、花守様は、静かに琴を弾く。

すると、琴の音の届くところは、瘴気がわずかに薄まった。

オレは慎重に瘴気の薄いところを目指して舟を進める。

そうやって、オレたちは、瘴気の海へと進んで行った。


瘴気に侵された海は、どろりと凪いでいた。

立ち込める朝霧に、遠くの景色はぼんやりとしか見えない。

生き物の気配もなくて、ひっそりとしている。

それは、不穏な静けさだった。

静かな琴の音が響くと、薄い帳が開くように隙間ができる。

舟は、ゆっくりとその隙間を進んでいく。


舟は遅々として進まず、最初、オレは焦れていた。

しかし、それもだんだんと、眠気に代わっていった。

どんよりとした海と静かな琴の音。

うとうととして、うっかり、海に落ちそうになった。


花守様はずっと、黙って琴を弾いていた。

けど、オレが、三度目に落ちそうになったとき。

突然、話しかけてきた。


あの怪物相手に、戦っても、勝ち目はありませんよねえ。


途端に目は覚めた。

オレは即座に舟を返そうとした。

それを花守様は慌てて引き留めた。


あああ、待ってください。

そもそも、わたしは端から戦うつもりなんてないんです。


は?

このお方は、何を言っているんだろう?


そりゃ、確かに、このお方は、花守様だ。

花守様が戦いは好まないことは知っている。

治すことはしても、傷つけることはしない方だ。


だけど、相手は、怪物だ。

息長の民は、傷つけられ、バラバラになってしまった。

彼らをこんな目に合わせたのは、その怪物だ。

島は壊され、海は瘴気で、人間は渡ることもできない。

その元凶はあの怪物なんだ。


そんな悪い怪物は、退治されて然るべき。

幼狐にだって分かる理屈だ。


オレはただ黙ったきり、何も言わなかった。

けど、思っていることは、顔に出ていたんだろう。

花守様は、穏やかにお尋ねになった。


スギナさん。

では、どうすれば、あの怪物に勝てると思いますか?


え?


オレは、即答できなかった。

戦場じゃ、戦略を考えるのは、頭領の仕事だ。

オレはいっつも、命令されたことに従うだけだ。

戦場にいて、自分の考えを聞かれたのは初めてだった。


…矢に呪を乗せて射る、とか…


ようやっと捻りだしたのはそんな答えだった。


花守様は、ふむぅ、と唸った。


息長一の力持ち、斤さんの銛だけが、ようやく突き立った。

他の方の攻撃は、一切、通用しなかった。

わたしはそう聞きました。


それは、オレも聞いていた。


スギナさん。あなたは弓の名手です。

揺れる舟の上からでも、正確に怪物の急所を射抜くでしょう。

妖狐族の腕力は、人間に比べれば、多少は強い。

とはいえ。

単純に、矢には、銛ほどの力はありません。

それに、斤さんの膂力は、人並外れて強いはずです。


花守様の言いたいことは分かった。

弓矢で怪物と戦うのは難しいということだろう。

たとえ、呪文を乗せたとしても。

どの程度、それで怪物の力を削げるのかは分からない。


まして相手は海の生き物だ。

オレは確かに、生き物の急所を見抜くのは、得意だけれど。

ずっとオレが相手にしてきたのは陸の生き物だ。

姿形のまったく違う海の怪物に、通用するかは分からない。


それに、ここは舟の上だ。

お前じゃないけど、板一枚下は、深い水だ。

オレは多少は泳げるけど、花守様はまったく泳げない。

いや、ここの海には怪物もいるし、瘴気だってある。

オレだって、まともに泳げやしないだろう。


舟の扱いは、息長の連中に習ったけど。

それでも、やつらほど、上手くは扱えねえ。

にわか仕込みの腕で、太刀打叶うのかと言われると。

自信なんてものは、からっきしなかった。


あの夜見た、小山のような怪物の影をオレは思い出した。

攻撃を受ければ、当然、怪物だって反撃してくるだろう。

八本もあるあの太い腕に襲われたら。

こんな舟なんて、あっという間に木っ端みじんだ。

ましてや、あの怪物は、なかなか知恵も回るらしい。

退いたと見せかけ、急襲してくるなんて方策も…


そこまで考えて、あ、と思った。


今、この瞬間にも、やつは襲ってくるかもしれねえ。

うかうかと居眠りなんぞ、している場合じゃなかった。

オレは、最大限の警戒を込めて、周囲を見渡した。


あの波のあわいから。

重なる波の、ただ中から。

怪物の触手が、今にも覗きそうな気がした。


じゃあ、いったい、どうしようって、言うんです?


オレは、イライラと花守様に尋ねた。


勝ち目なんか、そもそも、ありっこない。

そんなやつ相手に、たったふたりきり、のこのこと…


無謀だ。

あまりにも、無謀だ。

せめて、郷の戦師の一隊でもあれば。

あるいは、互角に戦えるのかもしれねえ。

けど、ここは海の上だ。

仲間を呼び寄せることもできねえ。


だから、そもそも、挑むつもりはないのですよ。


花守様は、けろりと言い放つと、小さく笑った。


話しはなんだか最初のところに戻っちまった。

オレは少しばかりいらっときた。

けど、すぐに思い直した。


いやしかし。

花守様だ。

あの。花守様だ。

なんの考えもなしに、こんなこと、するはずはない。


黙っているオレを、花守様は綺麗な山吹色の目で見上げた。

オレのこっちの目と同じ色の目だ。

ずっとオレが自分のお守りだと思ってきた色だ。

その色を見た途端。

オレは、この方ならきっと、やり遂げると思った。

どれほどに、不利な状況だとしても。

どれほどに、無茶な策だとしても。

きっと、きっと、やり遂げると。


花守様は、静かにおっしゃった。


海藻の森にね?

とても心地よい、海の寝床に。

あの蛸を封じようと、思っているんです。


封じ込める?


ざわざわという波の音だけ、いやに耳のなかに響いていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ