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海は瘴気に染まっていた。
舟の上で、花守様は、静かに琴を弾く。
すると、琴の音の届くところは、瘴気がわずかに薄まった。
オレは慎重に瘴気の薄いところを目指して舟を進める。
そうやって、オレたちは、瘴気の海へと進んで行った。
瘴気に侵された海は、どろりと凪いでいた。
立ち込める朝霧に、遠くの景色はぼんやりとしか見えない。
生き物の気配もなくて、ひっそりとしている。
それは、不穏な静けさだった。
静かな琴の音が響くと、薄い帳が開くように隙間ができる。
舟は、ゆっくりとその隙間を進んでいく。
舟は遅々として進まず、最初、オレは焦れていた。
しかし、それもだんだんと、眠気に代わっていった。
どんよりとした海と静かな琴の音。
うとうととして、うっかり、海に落ちそうになった。
花守様はずっと、黙って琴を弾いていた。
けど、オレが、三度目に落ちそうになったとき。
突然、話しかけてきた。
あの怪物相手に、戦っても、勝ち目はありませんよねえ。
途端に目は覚めた。
オレは即座に舟を返そうとした。
それを花守様は慌てて引き留めた。
あああ、待ってください。
そもそも、わたしは端から戦うつもりなんてないんです。
は?
このお方は、何を言っているんだろう?
そりゃ、確かに、このお方は、花守様だ。
花守様が戦いは好まないことは知っている。
治すことはしても、傷つけることはしない方だ。
だけど、相手は、怪物だ。
息長の民は、傷つけられ、バラバラになってしまった。
彼らをこんな目に合わせたのは、その怪物だ。
島は壊され、海は瘴気で、人間は渡ることもできない。
その元凶はあの怪物なんだ。
そんな悪い怪物は、退治されて然るべき。
幼狐にだって分かる理屈だ。
オレはただ黙ったきり、何も言わなかった。
けど、思っていることは、顔に出ていたんだろう。
花守様は、穏やかにお尋ねになった。
スギナさん。
では、どうすれば、あの怪物に勝てると思いますか?
え?
オレは、即答できなかった。
戦場じゃ、戦略を考えるのは、頭領の仕事だ。
オレはいっつも、命令されたことに従うだけだ。
戦場にいて、自分の考えを聞かれたのは初めてだった。
…矢に呪を乗せて射る、とか…
ようやっと捻りだしたのはそんな答えだった。
花守様は、ふむぅ、と唸った。
息長一の力持ち、斤さんの銛だけが、ようやく突き立った。
他の方の攻撃は、一切、通用しなかった。
わたしはそう聞きました。
それは、オレも聞いていた。
スギナさん。あなたは弓の名手です。
揺れる舟の上からでも、正確に怪物の急所を射抜くでしょう。
妖狐族の腕力は、人間に比べれば、多少は強い。
とはいえ。
単純に、矢には、銛ほどの力はありません。
それに、斤さんの膂力は、人並外れて強いはずです。
花守様の言いたいことは分かった。
弓矢で怪物と戦うのは難しいということだろう。
たとえ、呪文を乗せたとしても。
どの程度、それで怪物の力を削げるのかは分からない。
まして相手は海の生き物だ。
オレは確かに、生き物の急所を見抜くのは、得意だけれど。
ずっとオレが相手にしてきたのは陸の生き物だ。
姿形のまったく違う海の怪物に、通用するかは分からない。
それに、ここは舟の上だ。
お前じゃないけど、板一枚下は、深い水だ。
オレは多少は泳げるけど、花守様はまったく泳げない。
いや、ここの海には怪物もいるし、瘴気だってある。
オレだって、まともに泳げやしないだろう。
舟の扱いは、息長の連中に習ったけど。
それでも、やつらほど、上手くは扱えねえ。
にわか仕込みの腕で、太刀打叶うのかと言われると。
自信なんてものは、からっきしなかった。
あの夜見た、小山のような怪物の影をオレは思い出した。
攻撃を受ければ、当然、怪物だって反撃してくるだろう。
八本もあるあの太い腕に襲われたら。
こんな舟なんて、あっという間に木っ端みじんだ。
ましてや、あの怪物は、なかなか知恵も回るらしい。
退いたと見せかけ、急襲してくるなんて方策も…
そこまで考えて、あ、と思った。
今、この瞬間にも、やつは襲ってくるかもしれねえ。
うかうかと居眠りなんぞ、している場合じゃなかった。
オレは、最大限の警戒を込めて、周囲を見渡した。
あの波のあわいから。
重なる波の、ただ中から。
怪物の触手が、今にも覗きそうな気がした。
じゃあ、いったい、どうしようって、言うんです?
オレは、イライラと花守様に尋ねた。
勝ち目なんか、そもそも、ありっこない。
そんなやつ相手に、たったふたりきり、のこのこと…
無謀だ。
あまりにも、無謀だ。
せめて、郷の戦師の一隊でもあれば。
あるいは、互角に戦えるのかもしれねえ。
けど、ここは海の上だ。
仲間を呼び寄せることもできねえ。
だから、そもそも、挑むつもりはないのですよ。
花守様は、けろりと言い放つと、小さく笑った。
話しはなんだか最初のところに戻っちまった。
オレは少しばかりいらっときた。
けど、すぐに思い直した。
いやしかし。
花守様だ。
あの。花守様だ。
なんの考えもなしに、こんなこと、するはずはない。
黙っているオレを、花守様は綺麗な山吹色の目で見上げた。
オレのこっちの目と同じ色の目だ。
ずっとオレが自分のお守りだと思ってきた色だ。
その色を見た途端。
オレは、この方ならきっと、やり遂げると思った。
どれほどに、不利な状況だとしても。
どれほどに、無茶な策だとしても。
きっと、きっと、やり遂げると。
花守様は、静かにおっしゃった。
海藻の森にね?
とても心地よい、海の寝床に。
あの蛸を封じようと、思っているんです。
封じ込める?
ざわざわという波の音だけ、いやに耳のなかに響いていた。