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オレは花守様に駆け寄ろうとして結界の壁に阻まれた。
思わず、くそっ、と呟いてから、少し後悔する。
これは花守様が、オレのためにしておいてくれたのに。
悪態をつくなんて、何事だ。
花守様はゆるりと近づいてくると、掌を結界に押し当てた。
すると、するっと、結界は解呪されてしまった。
けど、オレは、そのままその場に立ち尽くしていた。
本能的に感じる、どうしようもない、違和感。
それに戸惑っていた。
この花守様、なんか、おかしい。
花守様の目には、何も映っていなかった。
虚ろな目をしたまま、花守様はにっこりと微笑んだ。
遅くなってしまいました。
こんなところに閉じ込めるような真似をして、ごめんなさい。
ゆっくりと頭を下げる。
けれど、その方向は、オレのいる方から少し、ずれていた。
花守様?
オレは、恐る恐る声をかけた。
けれども、花守様には、オレの声は聞こえないようだった。
花守様は、あさっての方向をむいたまま、言った。
怪物は、無事に封印しました。
もう、安心です。
こんな花守様を見て、安心なわけない。
オレは思った。
けれど、どう言ったらいいのか分からなかった。
花守様は、にっこり微笑んで、話し続けた。
ただ、ひとつ。
お知らせしなければならないことがあるのです。
聞きたくない。
そのお知らせとやらは、聞きたくない。
オレはすぐさまそこから逃げようとした。
しかし、花守様のほうが早かった。
もう、お気づきですよね。
これは、わたしの影です。
本当のわたしではありません。
くそっ。
聞きたくない!
オレは耳を塞ごうとした。
けど、思いとどまった。
こんな影を送ってまで、花守様が伝えようとしたこと。
聞かないわけにはいかないじゃないか。
耳から離した手は、震えていた。
そのオレの耳に、花守様の声は容赦なく入ってきた。
お察しの通り、わたしは禁術を使い、海へ行きました。
本当に申し訳ありません。
罰はいかようにも受ける覚悟です。
この危急に際し、他の方法を取ることができませんでした。
それは、ひとえに、わたしの勉強不足の招いたこと。
深く反省し、おとなしく縛に着くとお約束いたします。
いったい誰が花守様を責める?
そもそも、禁術のことなんか、黙ってりゃいいんだ。
オレが言わなけりゃ、誰も気づかない。
オレだって、わざわざヒトに言ったりしない。
それに花守様が勉強不足だ、って言うんなら。
勉強の足りているヒトなんて、郷にはひとりもいないだろ。
花守様を罰することのできる奴なんかこの世に存在しない。
それこそ、花守様以外には。
罰とか、もういいでしょう?
早く帰りましょうよ、花守様。
オレは、影だって分かってても、そう言っていた。
だけど影は、ええ、そうしましょう、なんて答えなかった。
もうひとつ、わたしは、罪を犯しました。
もうこれ以上は聞きたくない。
そう思うのに、影は容赦なく語り続けた。
禁術は分かっていて犯しました。
いわば、確信犯です。
けれども、こちらは、犯そうとして犯したわけじゃない。
むしろ、わたしとしては、回避しようとしていました。
そのために全力を尽くそうとしました。
それだけは、はっきり申し上げます。
影は影のくせに、少し言い訳がましかった。
いや、これだけは、花守様も言い訳したかったんだろう。
この術は、いわば、念のため、一応の安全策、です。
スギナさんを閉じ込めた結界は、かなり強力なので。
解呪できなければ困るだろうな、と。
そんなお気遣い、要りませんよ?
そんな気遣いなくてよかったんです。
花守様さえ、無事に帰ってきてくれれば。
まあ、帰りが遅れる、とか、あるかもしれないし。
一応、です。一応。
ただ、せっかく、作っておくんだったらね?
まあ、その、一応、ね?
わたしの状況も、お伝えしないわけには、いかないかと。
否応なく話し続ける影を、思わず海に放り込みたくなった。
もちろん、そんなことは、実際にはできないけれども。
スギナさん。
この術は、わたしの心の臓の動きに連動しています。
動きが止まり、一昼夜経ったとき。
この術は発動するのです。
何も考えられなかった。
ただ、言葉だけ、風のように、オレの上を行き過ぎる。
そんな感じだった。
なのに、言葉の意味はオレのからだに下りてきた。
息が詰まって。喉が詰まった。
自分の心臓の音だけ、嫌というほど、耳の中に反響した。
どくんどくんと、血管を血の流れる音だけ、聞こえていた。
吐き気がするのに、何も吐けない。
代わりに、叫びが、腹の底からわいてきた。
海にむかってオレは叫んだ。
オレたちの大事なヒトを。
花守様を、奪った海に。
声の限り、力の限り、オレは叫んだ。
もう、どうしようもないのに。
叫ぶことを止められなかった。
スギナさん。
辛いお役目をお任せして、申し訳ありません。
けれど、これだけは、どうしても、お願いしたいのです。
楓に。わたしの大切な妻に。
どうか、すまない、と伝えてください。
わたしはもう、楓のものなのに。
それをわたしの一存で、奪ってしまいました。
影ははりついたような笑みを浮かべていた。
淡々と語る声にも、感情は伺えなかった。
だけど、オレには、ほろほろと泣く花守様の姿が見えた。
楓は、わたしに、たくさんの幸せをくれました。
わたしは楓に、とても幸せにしてもらいました。
その百万分の一も、お返しできていないというのに。
本当に、ごめんなさい、と。
どうか、伝えてくれませんか?
そんなこと。
言いたきゃ、自分で言えばいい。
幽霊でもなんでも、出てきて言ってくださいよ!
影にいくら言ったところで、どうしようもない。
分かってても、言わずにいられなかった。
だけど、影は、何の反応もなく、ただ話し続けた。
そして、どうかお幸せに。
楓なら、大丈夫。
いつも、どんなときも。
きっと、幸せでいてくれる。
わたしには、もう、祈ることしかできませんけれど。
魂かけて、それを祈っていると。
どうか、楓に、伝えてください。
残酷です。花守様。あんまりですよ。
婚姻式挙げたばっかりの新妻に、この仕打ちはありませんよ。
それを、オレに伝えろって…
どんだけ、残酷なんだ。
あいつがどれだけ傷つくことか。
あいつがどれだけ悲しむことか。
それ、分かってて、言ってるんですか?
それ、分かってて、オレに、耐えろって言うんですか?
その言葉は、花守様に届くわけなかったけど。
花守様の影は、はっとしたように、いいえ、と言った。
それから、いきなりこっちをくるっと振り返った。
やっぱり、楓には、何も言わなくていいです。
楓に、わたしの祈りなんか、必要ありません。
楓はこの先もずっと幸せだって、わたし、知ってますから。
ええ、もう、確信していますから。
楓が幸せじゃないなんて、あり得ません。
あんなに、可愛くて優しくて勇気もあって素晴らしいヒトが。
幸せにならないわけありませんでした。
わたしは、少しだけ先に逝って、待っているとしましょう。
いつか楓が、楽しい土産話をたくさん持ってきてくれるのを。
それは、影じゃなくて、まるで本物の花守様そのものだった。
ふふ、と首を傾げて笑うのも。
ちょっと落ち着きなく、言葉を繋ぐのも。
ごめんなさい、スギナさん。
あなたには、つくづく、嫌な役目を押し付けてしまいました。
でも、最後まで一緒にいてくれて、本当に心強かった。
わたしは戦師をしたことはありませんけど。
もし、相棒にするなら、スギナさんがいいです。
始祖様の相棒だと?
そんなの荷が勝ち過ぎるだろ。
だけど、オレも。
相棒なら、花守様がいい。
郷一番とんでもないお方だけど。
郷一番頼もしくて、大きな方だから。
だけど、オレは、花守様が帰ってこないなんて思わない。
影だって、帰りが少し遅れたときのためって、言ってたしな。
何かで足止め食って、すぐに帰ってこられないだけだ。
なにせ、あの、花守様だぞ?
どんな危機でもひょいと飛び越える、とんでもない方だぞ?
花守様は、お前に待っていろとは言わなかった。
自分は待っているって言ってたけど。
だけどさ、なあ、楓。
オレは、思うんだ。
いいから、待ってろ。
そしたら、きっと、あの方は、帰ってくるさ。
禁術でもなんでも、ありとあらゆる方法やらかしてさ。
きっと、お前の許に帰ってくる。
多分ね。
そのために、お前と婚姻、したんじゃないかって思うんだ。
お前は、花守様の舫いなんだ。
帰ってくる場所の目印なんだよ。
どんな禁を犯そうとも、たとえ世界の法則を捻じ曲げたって。
お前のためなら、なんだってできる。
花守様って、そういう方だよ。




