立つ鳥跡を濁す、濁しても綺麗に。(2)
「あたしはそれに救われました」
その笑顔は何者にも染まらない、
普通の笑顔だった。
ヌルが強いられてきたあの純粋無垢な笑顔ではない、本当の。
果燐は改めて思う。
ヌル=エルの人生はその整った異様な容姿から忌み嫌われ、好かれるものには理想を押し付けられてきた。
もともとこの箱庭に来た頃は模範解答ばかりの優等生、対象を観察してはその対象の望む姿であろうとしていた。
誰にも染まらない無垢なる純心は捻じ曲がり、間違っていた。
でも今は違う。
今のヌルは綴により模範の空白のキャンバスを破られ、ペンを握らされているような状況だ。
悪い事のように聞こえるかもしれない。
だがこれは逆だ。
ヌル=エルは初めて自己を尊重し始めた証拠なのだ。
今を笑うヌルは心の底から自分に従い生きている。
それでも習慣化せさていた癖は抜けないもののこうして見せる素というのがたまらなく感慨深く思うばかりだった。
「…………やっぱ変わり者同士気が合うってことだな!」
「あたしも?」
「違うか?」
「いえ、大正解です。だとしたら果燐も同じです。みんな同じ、変わり者、です」
「それもそうだなー!」
短気で同じを嫌う綴ならばここで頬を膨らませ怒っていたと思う。けど今はヌルと果燐しかいない。
少しくらい孤独ではない喜びを祝して笑っても、バレやしないだろう。
大雨のこともすっかり消えたみたいに、全身濡れても気にすることはなくなった。
綴と合流し、泥を投げあって遊んだりもした。他にも馬鹿みたいに叫んだし、笑ったし、驚いた。
藪から棒に思いつきで、本能での行動を優先させる。
全力で対等な果燐ら故の一時の自由だった。
果燐を筆頭とする二人。
三人諸々は変わり者と指弾され、この世の理から逸れた陣地なる力の委託者へとなる。
まさにその過程の最中だ。
変わり者と異端され、
常人に忌憚した寂しがりやな天使。
変わり者と危惧され、
自己を貫き随意した皮肉屋の少女。
変わり者と避難され、
孤独を選び狭隘に乱暴な少年。
各々の奥底の意に沿って捻じ曲がり、弄った形で叶えられる。
ヌル=エルの場合は、
「絶対適応能力。周囲に忌憚し、歩幅を呼吸を生き方を偽装し窮屈ながら生きていたヌルにはぴったりだと思うよ」
「それ、褒めてんのか?貶してんのか?」
「どっちでもないさ。僕は皮肉ってるんだよ」
「要は羨ましいんじゃねぇか。その言い回しこそ皮肉ってんだよ、ややこしい」
いつの日が交わした綴との会話。突如脈絡なく始まったこの議題に始めにピックアップされたのはヌルだった。
綴のひとり語りを避けようと今は合いの手を割りと入れているが、段々と面倒になったのをよく覚えている。
「頭が悪いからね、果燐は」
「うるせぇ、触んな」
この頃から喧嘩続きの罵り合い。
まだこの頃は綴は暴力は禁じてなかった。
脈絡なく綴の思うままに生きていた。
「まぁ話を戻すけども。僕は前々から言ってるけど人間の適応性に大いなる可能性を抱いてるんだ。人間は新たな環境に徐々に慣れていく、ならざる得ない状況が多いからね。
慣れるということは適応するということ、
つまりは進化を続ける世間に僕らに適応性がある限りおいていかれることはないということなんだよ」
「なら俺らはその世間体のどこに当てはまるんだよ。普通ってことはないだろ?」
「まさか君……世間から迫害されたみたいな気分が嫌なのかい?」
「今は気にしてないけどな。昔ちょっとはあった」
「へぇー以外だね。だったらそんな臆病で寂しがり屋でビビリでメンタル激弱な果燐に一言」
「そこまで言うことねぇだろ。それにその認識だと割とヌルもお前も当てはまんだろ?」
不満げ、ではなく多分面倒で適当に受け答えしていたからだろう。それでも時折はちゃんと耳を傾け、本音を毎度答えていた。
「僕らが今迫害にも似た状況にいるのは確かで、それ以上に意識してほしい」
ーーーー僕らは今遥か未来へと適応していっている。
「世界が僕らについて来れてないだけ。そう言ったらなんだかかっこよく思えてこないかい?」
「……かっこいいぜ、それ」
髪を弄くりソファに寝そべっていた果燐がようやく手を止め、興味を引いた言葉だった。
恥ずかしながら少年心を擽られ、目を輝かせたことを今でも覚えていて、それを横目で嬉しそうにする綴も同類であった。
予想以上の反応に鼻を高くしていた。
「ヌルの今から持つであろう絶対適応能力は今も未来も、過去すらも最先端を生き抜ける最高の力だよ。ヌルにピッタリできっと役に立つ。
何より好奇心しか持てない僕や闘争心や敵愾心しか持てない果燐にとってはね」
「感情ねぇ……俺はお前がそう思うことが意外だよ」
「感情に関しては単なる興味さ」
綴は捲っていた本を閉じ、果燐の黄の瞳を見つめた。
一つの物語を占めるように、丁寧に言葉を紡いだ。
「だから僕はヌルが羨ましい。ここにいることが不幸だと思わない僕にとっては、ね。ヌルにとっては不躾かもしれないけど」
と、ここで廊下の方から小さな足音が聞こえた。可愛らしく呼吸を急がせる。特定できる人物は一人しかいない。
「あたしが、どうかした?」
汗を少し垂らし息も切らした天使ーーーヌル=エルだ。
あの野郎に呼ばれていたのだろう、手首の包帯を確認した。次に顔色を。特に変化なし、ただふわりと結ばれた三編みが少々乱れているくらいだった。
「髪、緩んでるぜ」
「あ、ホントだ…急いでたからーーーそれで、何話してたのです?喧嘩してたわけではないようですし、気になります」
ヌルは綴と果燐の仲裁役としての会話というか喧嘩に立ち会うことが多いのでこんなケースは珍しいことだったのだ。
それに果燐だって好きで争っているわけではない。どんな時だって綴とは合わないとずっと思い続けているだけだ。
「別に」「何も無いさ」
髪を急いで直したヌルにそっけなく答える二人。
綴は読書に、果燐は髪いじりに戻る。
ムッとした顔を見せ、綴に迫る。座っている椅子の足元で膝立ちし、本から覗き込んだ。
「仲間外れですよ、綴」
上目遣いの翡翠が綴を捉える。
空気を読めない事で定評の綴でも流石に抗えなかったのか、息を吐いて頭を撫でた。
「ヌルは無垢で天使みたいだって話してただけだよ。」
綴なりの答えにヌルは首をさらに傾げる。
「どういう意味です、それ」
「さぁ、これは内緒だよ」
「んー!果燐!」
「言わねーぞ」
ヌルの希望とも言える果燐にも投げ出され、結局置いてけぼりになる。でもヌルにはその言葉は悪い意味ではないように思えた。
思えたがそれとこれとは別。
理不尽を叫び、頬を膨らませるばかりだった。
「んーっもう!ふたりとも意地悪さんです!」