彼女の中の翡翠は淀みなく使命を果たす。2
「ちょっと前より弱ってねぇーか?」
「………」
空中戦(物理的に壁蹴っての宙に居続けながらの戦闘)は一秒の間に多くの思考が入り混じり、いかに冷静に対処できるかがポイント。
その点アレは異例、反射的に最適解を体で動かして最終的な答えを出す。
つまりは壊し屋で低能野郎な彼ーーー竜胆果燐と同系統の存在だ。これはアレに対する侮辱ではなく、事実だ。
アレは一つの激情でしかない。
故に攻撃は単調でワンパターン、戦闘を経験しない一般人には対処しきれないがそこらのチンピラなら数回なら避けられる。
だがアレは妙な威圧感を持っているのでそれに怖気ずき金縛りと似たような状態となる。
想像し予想できる事件の流れはこうだろう。
アレが強い理由はそこにある。
が、アレの持つ強い激情故の威圧感は果燐には効かない。
だから果燐が押しているのは当然。
果燐が壁を蹴り、その勢いのままアレに突っ込んだ。拳を振りかぶるのをブラフで右蹴りで、アレの拳の衝撃に備えた顔の前でクロスさせた腕へと直撃させる。
多分あの様子と音からして折れた。
だがアレは顔色一つ変えやしない。
アレは蹴りの衝撃で左右の壁に何度もう打ち付けられて床に倒れた。同時に果燐もようやく地に足をつく。
頭を掻きむしり、気だるそうにアレへと話しかけた。
「一度負けた相手に雪辱戦、復讐戦って感じでもねーよな。だってお前が用あるのはリーレ=シャルラタンだろ?」
動く気配のないアレに絶えず話しかけている。
「そもそもなんで対話をしねぇ。前もそうだったが、あの時はちゃんと喋ってただろ?暴力じゃあ物事はそう簡単に解決はしねぇよ。力ばかり振りかざしても言葉は、意思は、目的は伝わらねぇ」
……というか早く拘束しろよ、君。
今がチャンスだぞー、油断すんなー。
僕、彼との対話も望めないとなればリーレを頼る他ないのだけれど現在の状況じゃあリーレへの期待も望めない。
収穫のないことはしたくないが、まぁやれることはやっておきたい。駄目元でも、ね。
一番最悪なのはアレに逃げられることのみ。
「ーーっ何殴りやがるっ!俺じゃなかったら折れてた、ぞ………って逃げんなぁぁ!!!!」
「………チッ」
「舌打ちしたなっ?!なら言語も話せよって!!」
あの馬鹿は言ったそばから果燐は何やってんだか。
果燐は受け身を取った低姿勢から更に足を引き、獣のごとく手足を獅子のように低く構えた。
その姿勢も一瞬だが両手に地に散らばる小石を拾い、送球した。
器用にアレの両足に当たるものの、アレは少々バランスを崩す程度。
多少のフラつきでもアレは無駄な足止めとでも言わんばかりに、更に加速した。
「余力残りすぎだろ!逃げ足だけははえーなっ!!!」
果燐なりに距離は詰められていたがもうすぐのこの路地を抜けてしまうアレには恐らく追いつけない。アレが人目の多い場所へと紛れられたら僕らとしては打つ手が無い。
アレがその他の人々に適応するというのなら、本当に。
まぁ、でも。
「くっそぉぉ!!!ーーーって、止まっ、た?」
アレは必ず足を止める。
それこそがアレがここに来た理由であるからね。
「………………嫉妬」
アレが突如として立ち止まったのは、同じ瞳を雰囲気を纏った彼女ーーーリーレ=シャルラタンが居たからだ。
アレの翡翠は彼女の瞳を戸惑いを帯びて見つめていた。
「久しぶりです、憤怒ちゃん」
「……………」
「相変わらず無口ですね。憤怒ちゃんのそういうとこ嫌いじゃないけど、少しだけ苦手」
憤怒ちゃん。
なんて親しみを込めた言葉で彼女ではない彼女は話す。
声は確かにリーレ=シャルラタンなのだ。だが口調や発する声の雰囲気が違う。聞けば聞くほどその違和感が薄れていくのも不思議なものだと思う。
まぁ、アレが足を止めてくれて良かった。
問題はその口から僕の謎の解答編への糸口にして欲しいものだけれども。
「ねぇ、教えて。私に分かることには限りがあるから。全部教えて欲しいな、憤怒ちゃん」
一歩一歩確実に詰める彼女はとうとう、アレと息のかかる距離まで来ていた。
次の瞬間彼女は、アレの耳元で囁いた。
猫を撫でるように甘えた声で。
鼠を仕留める猫の鋭くも冷酷な声で。
「ーーーお願い」
彼女でない彼女は笑う。
他愛もない家族に向けるような暖かく柔らかな笑みで、耳元から離れてアレの顔を見つめて。
「…………分かった」
「嬉しい。お姉ちゃん、いい子は大好き」
「お姉ちゃんなんて思ったことない」
「でも、頼ってはくれてました」
「人任せなだけ」
「自称傍観者、ですか?
でも、結局動いて、いいとこ取りしましたよね」
「……仕方がなかった。憤怒が出ないと」
「「|暴食《ゼクス|》《・》が暴走する」」
よね?
とわざと被せた声は同じトーンで重なった。
彼女でない彼女は当たりでしょ?と言わんばかりの嬉しげに笑い、無垢でない無垢はやっぱりかと呆れつつ息を吐いた。
幻聴、ではなさそうだ。
大当たり、僕の推理は大正解だったということだ。とうとう解答編開幕かな?でもその前に、この場で話すのには分が悪そうだ。
果燐と視線を交差させる。
流石の彼も路地裏の開け口の先、諸々の視線には気がついてるようだね。
場所を移そう。
「多分嫉妬と憤怒だよね?君等少し場所を変えないかい?すこーし人目が気にならない?」
僕はさり気なく提案した。最も彼女らがそれに反応してくれるかは分からないけどね。
「…………」
「……大丈夫なら、私は全然いい」
矛盾したソレラの存在はアイコタクトで意思疎通ができたらしい。
果燐はというと、感心していた。
(コイツらの会話に割り込むなんて空気の読めないやつくらいだと思ってたが、綴がそうだったと。幼少期より周囲などお構いなしに唯我独尊に奇天烈に好きなようにやってきた、空気を読まないというよりは読む気がないと。
自分の興味や利益にしか意味を持てなかったのだと果燐なりに認識している。
それがこんな形で幸と出るとは思わなかった。)
ーーーーなんて顔してやがるな、この野郎。
失礼なやつだ。
逆に無垢みたいに他人ばかりにかまけている方が退屈な上に疲れるよ。
僕は個人主義で利己的でエゴイスト。
そればかりは【探偵】として譲れない。
「ーーーーでも」
アレーーー憤怒は僕らの感じた視線の方向へと歩き始めた。右手の全ての指の骨を鳴らし、不規則に曲げたり伸ばしたりしている。アレの意図が汲み取れず僕は観察に専念する。
他面子も、憤怒の行動を静止させることは無かった。
ーーーキリキリキリキリッッ………
糸を引く音。
憤怒の右の拳は強く握られ、釣糸のようにしなりの音が耳に届く。
握った拳の腕を引き寄せた。
さすれば、僕の視界を黒い何かが過る。
えらく重みのあるのか何かは、その勢いのまま路地を抜ける手前、彼女の足元へと転がった。
果燐よりも小さな体躯。
その体躯より一回り大きなローブのようなパーカーで顔を隠した少年だった。
少年はギリギリ受け身を取れたのか、すぐに立ち上がり近くにいた彼女ヘと殴りかかろうとしていた。
だがそれは彼女のしなやかな護身術が決まったことで、少年は地面に顔をこすりつけていた。
腕も拘束、暴れる足は彼女が座ることで抑え、完全な寝技に見える。
「代わってあげて」
「俺に言ってんのか?」
憤怒は果燐へと視線を送り、少年の拘束役を他言せずに担った。
速やかに無駄のない動作。さすが暴力君子。
「おい綴」
「ん?」
「こいつの力が半端ない。俺の力じゃ雑魚同然だから関係ないがーーー首元を見ろよ」
少年の延髄を刺激し、ちゃっかり意識を奪っている。二次元でよく見る首チョンってやつだ。
ともあれ、すっかり人形となった少年へと僕は近づき、見た。
年はまだ二桁にも満たない幼い顔から伸びる細い首、そこには肉眼では認識しづらい針で刺したような穴があった。
そこを軸に筋繊維同様にに膨れていた。
「………痛々しいねぇ」
「注射痕だぜこれ。昔と違ってだいぶ目立たねぇが酷いぜ」
「筋力増強剤ってところか」
驚異的な力を有限で使うことができる、ドーピング剤よりも質の悪い薬だ。
量産簡易版で副作用も少ないもの。
果燐は特に嫌というほどよく知っているものだ。
「こいつは超最強効き目の筋力増強剤の劣化版ってやつだ。プロテインみたいなのと酸素のめぐりを異様に早くする為にあえてウイルスを入れる。
ドーピング剤よりも効果は高いぜ。
量産できて安価ってことで売れ行きは良かったんだが、副作用で服用者の元々あった筋肉を溶かすっつう、まぁ麻薬見てぇなもんだ」
開発元はあの大企業“L”。
一時期大繁盛したものの、副作用が判明してからは販売停止、莫大な賠償金を背負って懲りたと思っていのに、まだ残ってたのか。
「それならこの少年は“L”の差金」
「だな。耳に埋め込まれたくそちっせぇ機械もその証拠だろ」
顔も観察すれば片目は明らかに違和感があった。そこには小型カメラが内蔵された機械の義眼を雑なカモフラージュと長い前髪で隠してあった。
まだ、こんなわかりやすい人造実験してるのか。
イギリスも、日本よりかはマシに技術が少し衰退してるんだね。
僕らの代のほうがもっと……
「……というか厄介になった。嘘の真のように“L”がこうも絡んでるなんてね」
僕の意識は改めてアレ等に向けられる。
「君等、何か知ってる?」
「知らねぇほうがおかしいだろ。馬鹿か」
「それ僕に言ってるなら僕は君を言葉の力でねじ伏せるよ?」
小さな喧嘩をよそに無垢ではない無垢と彼女でない彼女は、同時に頷いた。
「その為の場所移動、ではないの?」
「……憤怒一人では限界、已む無し。苦肉の策」
双方共に見据える翡翠はあの日の彼女と同じ、ただ一点を見つめていた。