理性を失い、笑う翡翠は誰だ?
「あの、探偵様。本日は何をなさるのでしょうか?」
早起きをしました。
探偵様より早く起床したつもりでしたが全くそんなことはなく、起床して瞳を開けた直ぐ側。
窓際のソファで読書をしておられました。
機を伺い、朝食を頼み紅茶を入れ、髪をすいて乾かすなどと給餌係としていたことをしました。返せる恩返しはこういった形でしか現状はできませんから。
ですが、探偵様は珍しく口数が少ないように思えます。
毅然として読書を、というわけではなく何か気を紛らわせている為の読書という感じです。
それに、一向に動く気配がしません。
その素振りすらも見せませんし。
痺れを切らした、という訳ではありませんが情報共有をしてくださることを希望します。私の不安は、動悸は落ち着いたとはいえ残ってはいます。
凝りを無視して残っています。
平然を装うようで正直を言えば、落ち着きません。
せめて、何かはしていたいのです。
「あの、探偵様。本日のご予定は……」
「……ん?あー、うん。そうだね……今日は何もしないさ」
人目もくれません。読書に集中しているようです。
いえ、なんだか空気がピリピリしてます?
萎縮し、俯き加減の私に探偵様はようやく書物から目を離されます。頬杖を付き、窓の外を見て淡々と言葉を吐かれます。
「別に君の依頼を放棄するという訳ではないよ。ただ、昨晩の君の活躍は目に見えて大きな成果を生んだ。だから今は何もしなくていいんだ」
「単なる迷惑行為から奇跡は生まれたのですか?」
「そんな奇跡を運命と僕は呼びたいね。必然的にあの状況は作り出されたんだよ。そこを履き違えちゃいけない」
「……?」
途中から探偵様は鼻を鳴らすように自慢げに、満足げに笑っていました。上機嫌ではあるようです。
「まぁ、君のことだから。何かしていないと落ち着かない、だからやることを探しているってとこだろう?
とは言っても今の君に自由行動をさせるというのも些か不安があるってのが僕の本音だよ。だから半日はここで僕と長話をしようじゃないか」
「お互い、話は長いですよ?」
「今回ばかりは僕も許すさ。感傷に浸って腐れ縁の話でもしよう。さすれば時の流れは一瞬だよ!」
そこから長い長い、探偵様との対談が始まりました。
時折フロントにて軽い茶菓子を注文しては紅茶とともに嗜みました。
私のする主様の話と、探偵様のする腐れ縁の話というのは私が知る情報とは本当に真逆で改めて驚かされました。
とても、有意義な時間で、長話だと皮肉った探偵様の話ですらも一瞬のように感じられました。
そうして深々とときは刻まれて、夕刻に。
私と探偵様はようやく動き始めました。
「さてと、行こうかね」
「私は何も今からすることを存じていませんけど、大丈夫なんですか?」
「知っても知らなくても、いずれにせよ知ることだ。今知る必要はないし、君なら大丈夫だろう」
妙な信用を押し付けられた上、探偵様は私を置いてけぼりにどんどんとロンドンの街を徘徊します。
「強いて言うなら覚悟を持っておくことだ。君の主を助けるために」
「覚悟、ですか?」
「そう。君には主様を守るという第一のポリシー以前に、前提条件があるんだよ。それが」
「私が無事であることですか」
「理解しているのならいいよ。僕は僕しか守れないから、自分の身は自分で守ることだね」
「………手厳しいです」
「今までが甘やかされすぎてたんだよ。
無意識でも歪でも。
僕はあくまで探偵さ。物語の英雄ってわけじゃないし、何でもできる怪しいやつでもないのさ。君は僕を信頼してくれてるとはいったが、僕は君が思うほど万能ってわけじゃないんだよ。
器用貧乏ではある。
それらを踏まえて全部僕で、僕は僕が【探偵】として最強だと胸を張って言えるよ」
探偵様なりにも自分の価値を決めていらっしゃるのでしょう。
というか、自分を罵っているようで大半は自画自賛してますけど。
そういえばここらは機能探偵様と歩いた道のような気がします。曖昧な意識だったので定かではありませんですけど、確かここを右に曲がれば、複雑な路地に出て薄暗い細道に繋がってたはずです。
妙な頭痛を代償とした曖昧な記憶が自然と現実と結びつけてきます。
一人首を傾げながら歩いていますと、変わらずの饒舌も足取りも、唐突に止まりました。
「…………?」探偵様の細身の体躯はドレスにより大幅隠され、その真紅が見つめるものは何かは分かりませんでした。
ただ再度あの衝動的な感情が動いたことを黙認しました。
動悸は激しくなって、胸が苦しくなります。
目を細めて凝らしてみても、視認できるのは体の縁のみ。探偵様はそれを見せないようにか、守るためか私を必ず前に出さないように牽制しているように思えました。
「やぁ、本当に来てくれたんだね。正直驚いたよ……って!?」
「探偵様!?」
刹那、探偵様が首を俊敏に右に傾けました。
その後遅れて小石が地面に打ち付けられた音が遅れて聞こえます。
見れば、探偵様の右頬に浅い切り傷ができており液体を垂らしていたす。顔は嗤っています。
「これは笑えなくなってきた。これは洒落にならないね」
「探偵様あれはーーーーきゃっ!」
再び既視感のある音が耳に届き、反射的に両手を顔を隠すように交差させます。瞑った瞳が歪みます。久しく感じた焼けるような痛みに襲われます。見れば、交差させた腕の表側は探偵様同様の切り傷が無数についていました。
ーーーー紅です。
総認識した瞬間から意識がふやけました。
視界がぐるぐる、脳がぐらぐら。
情報がバグ、り、る。
紅。
紅、紅。
血の色?いえ血の色はもっと鮮明に、冷たいん。
でもこれは生、暖かい。
「リーレ!」
声なんて耳情報は必要ない。
目もくれるな。
震える私と真逆に、代わりに、ソレは動く。
「くっそ、探偵の教示は守りつつ……か。仕方ないっ、早く」
支配するのは思考。
過去の、私がリーレ=シャルラタンで無かった頃の、記憶。
生生しく紅を実感し、
その蒼の双眸を焼き焦がした、忌々しく肩身震える経験。
苦しくて膝から崩れ落ちた。
探偵様が少しずれた。
狭い狭い視界でソレをはっきりと捉えた。
みたい? 見るな 。
見させない。
見ちゃ駄目。
水平化に分離する思考が追いつけない。
「昨日のだんまりは何だったんだよ、お前っ!対話も通じない上に暴力的ってかなり救えないんだ……っ!」
「……………」
「何か言えって!」
狭く暗い薄路地。
ここでの喧嘩というのかかなり厳しい条件、当に超次元の戦いである。探偵側の防戦一方のように見え、ソレの猛攻は目に見えて凶暴です。
ソレはこの地形を利用し、壁を蹴ることで加速し、殴打を繰り返し探偵はそれを皮一枚で俊敏に避けていきます。
押され気味であることは確か。
ソレの手は、すべての指をくっつけ、異様に鋭く尖らせた爪と共に一突きしている。切れ味はナイフ以上、避けて入れ替わったゴミ箱を真っ二つにしていた。そんな単調な攻撃を繰り返しているので避ける分には予測は容易い。
冷や汗を垂らす探偵は未だに回避ばかり。
「……………………」
ーーー目が離せない。
私はソレを見ている。
焼き付けて、焦げ付いて仕方が無い。
ソレは主様とよく似た色素の薄い髪は乱雑に切り揃えられていて。
ソレは主様と同じ人形のような白い肌をしていて。筋肉質で華奢でアンバランス。
ソレは主様とは違う翡翠のスカーフは無しに、短いズボンから足を伸ばす。
ソレは主様と全く同じ存在感。
ソレは主様より少し逞しい体躯。
ソレは主様と百似つかない棘棘しいドス黒い雰囲気。
ソレは主様に似ているようで、似ていない。
似ていると思えば似ている。
似ていないとすら錯覚しても、似ている。
駄目です、これ以上は。
考えないで、委ねて。
もう、ぐちゃぐちゃです。諦めて。
崩れます。崩れろ。
こんなことで。こんなもので。
痛いのは嫌い。痛いのは嫌い。
逃げちゃ駄目なんだから。逃げていいよ。
ちゃんと向き合わなきゃ。代わってあげようか。
でも探偵様にも迷惑かけるような人間ですよ、私は。貴女には無理だから。
でも主様の為に。君は弱いし、無知だろう。
私は、頑張りたい。だから一瞬だけ貸して。
頑張るんです。絶対返すから。
主様を守りたい、その気持ちは変わりませんから。
ヌルを守る、そのことは忘れないから。
任せて、リーレ=シャルラタン。
笑って?貴女の為に望む未来を手に入れるから。