抑水栞の秘めたる思いは語られることはない。
放課後。
六時間分の疲労が残るも終礼の合図とともに嘆息や笑顔が四方八方でこぼれます。一方、私の後ろの席は静かです。横目に見れば寝ていました。
はい、勿論木蓮様です。
丁度五時間目に参加して、熟睡していました。
何の為に学園に来てるんですか、木蓮様は。
それに、喧騒の中よく寝られます。呆れを通り押して関心すら覚えます。軽く背中を揺らして起こしてあげます。
「あいつ……なにやって!?」
「眠れる獅子を起こすもの……かっこいい」
「転入生の命日は今日までみたいだな」
先までの空気とは一変緊張が張り詰めます。
周囲が木蓮様を恐れているだけなんですけど。
こんなにも間抜けな(可愛らしい)寝顔を見ても言えるのでしょうか。顔の大半はマフラーで見えてませんが……改めて観察するとまつ毛が長いです。
「木蓮様、夕刻になりました」
白銀の瞳を目撃しました。
「お目覚めになられたようですね。良かったです。木蓮様は寝起きが良いんですね」
「……あー、なんで俺の顔を覗き込んでいる?」
「可愛らしい(間抜けな)寝顔をしておられるなと思いまして」
「心の声と逆じゃねぇか?」
「失礼いたしました。思ってもいないことを」
「思ってることしか言ってないじゃないか」
私は目連様がうつ伏せているすぐ横で、机からヒョコリと頭をのぞかせて、木蓮様を起こしていましたから、さぞかし戸惑ったでしょう。私なりのさぷらいずというやつです。
何故か教室は静寂ですけど、それはいいんです。
さてはて、木蓮様を起こしたところで私は立ち上がります。そう、不機嫌な背後のストーカーさんの機嫌取りをするんですから。
「リーレちゃん!」
「はい」
「放課後の約束覚えてるよね?!」
「勿論です」
「ならいこ!今すぐにっ!」
私の手首を強引につかみ、グイグイと引っ張る抑水様。流されるままに進んでいましたが、横目に木蓮様を見ます。
「木蓮様は?」
「いいの!喰那はもぉーっと寝たいみたいだから!」
対して抑水様は見向きもせずに、届くようにか大きく声張りました。言いようがいいようなだけに否定できなくもありませんけど。流石にこれは失礼なのではと思い、二度見したところ木蓮様はただ優しく笑っていました。
マフラーで隠れていても分かりました。
頬が緩んでいました。
怒りでなく、呆れでもなく。
安堵がこもっていました。
………?
◆
西日が程よく照らす、東校舎。
光が屈折し、木目を裂けるように映し出されるのはある種の芸術のようです。
屈折は法則はあっても、不規則に乱射もする、そこから生まれる不思議な模様や整頓された模様はステンドグラスのように多くの色彩はないですが映えますし。木目の上は厚底下駄の音がよく響きます。
雰囲気だけでも楽しめそうですね。
窓全開。
喧騒とした、楽しく活発な声がよく届きます。掛け声や応援、重厚感ある野球部に軽快なボールを弾く音のテニス部、途切れ途切れにしか伸びたり繋がったりの楽器の音の吹奏楽部、各々様々な声という音により奏でられる音楽のようです。
それを背景に抑水様はつい先程学園全体案内を終えました。
一般的に備え付けられる設備以外、十分すぎるほど整っていました。特に図書室では蔵書が約六万冊あると聞いた時は驚きを禁じえませんでした。実際に展示や整頓されているのはその半分であり、残りは倉庫に乱雑な順番で並んでいるとのことでした。
「どうだった、リーレちゃん。この学園は」
一歩先を歩いていた抑水様は急に雑談を切って立ち止まり、聞いてきました。
やはりこの牡丹学園の生徒会長ですから、より良い学園を目指すべく新参者の意見を求めているんでしょうか。ならばお世辞抜きで素直な感想を言いましょう。
「素敵、だと思います。私は読書を好みますので、蔵書の多さには一段と胸が騒ぎました。築は結構立っているのに建付けが悪い、何処かが汚れているだったり、そういうのがないのに私は一番感心しました」
私が見逃していない限りでは目立つ汚れはありませんでした。掃除後、というのもあるのでしょう。ですがそれ以上に、手入れが丁寧です。花壇の花も生き生きとしていましたし、何より雰囲気が良いと思いました。
誰もがこの学園を大事に扱っていることが伝わります。
「この学園への思いが十分に伝わりました。
物も生徒も大事に、そういう思いです。」
学園の凄さも、抑水様自身の凄さを身をもって知りました。
「抑水様は周囲を笑顔にする力を持っているんですね。
すれ違う生徒は先輩後輩関係なしに親しげに挨拶をし、それを笑顔で返します。
何故、といえば答えは簡単です。抑水様の性格もありますが、抑水様は人が思っている以上に気を配ってくれるんです。
怖いくらいに。
相手が抑水様のことを牡丹学園生徒会長で一年生しか知らなくても、抑水様は相手の学年も容姿もある程度の性格も成績も知っています。一度触れては駄目だと理解したことには言及はせず、そばにいてくれます。
私もそうでした」
主様のこと以外で、こんなにも雄弁になったのは初めてです。
戸惑いながらも確かに言葉にします。
「これもきっと、優秀な生徒会長様のおかげなんですね」
空を見れば、もう日が沈み始めています。
伸びる影を流れるように見、私は抑水様の影を踏みます。
帰宅するにはいい頃合いです。昇降口に向かいながら、言葉を繋ぎます。
「学園案内ありがとうございました。とても有意義な時間になりました」
抑水様を追い越して数歩先で私は振り返り、給餌係として身についた丁寧なお辞儀をしました。両の手で袴の裾を軽く摘み、浅すぎず深すぎない適切な角度で頭を下げました。
そしてゆっくりと顔をあげようとしたその瞬間。
柔らかい何かが顔に衝突しました。痛くはないんですけど、何が起こって………。
「………っ!!!」
状況を把握するに時間はかかりませんでした。単に抑水様が飛びついてきただけでした。抱きついてきた、とも言えます。
「ぜーんぶの言葉が嬉しいっ!リーレちゃんが今言ってくれたこと、報われた気分!変ななりでなっちゃったけどうん……っ!嬉しい!嬉しい!」
「抑水様……」
変ななり。
それが指すのは何なのでしょうか。
ノリや空気に流されるなんて適当な理由を仮説してしまいましたがあながち間違いではないのかもしれません。空気を流されることと、読むことを違いますから。
空気を嫌でも吸って生きなければならないように。
空気を無理強いにでも読まないといけない時があるように。
そうであることを、空気ごと流されてしまったり。
ここで言及することはいけません。私にだって空気は読めますから。
私が面倒な想いを抱えてのうのうと生きているのと違って、それなりに苦労して抑水様も生きていらっしゃるのですから。
私なんかに報われたと言ってくださったことが寧ろ……?
抑水様はいつの間にか肩を震わせていました。
………。どうして、ですか。
戸惑います。戸惑わざる得ないのです。
笑顔拡散機で変態さんの抑水様が、何故。
何故、何故。
涙を流して悲しそうに笑うんですか?
そんなに報われるような言葉を言いましたか?
そんな大層なことを、心を揺さぶるような言葉を発しましたか?
ーーーそれならば何故、私は主様を説得できなかったんですか?
見に覚えがなくて、動悸が激しくなるのが分かります。
私には分かりません。それでも何かを言わなくてはと思い、故意に息を吸います。
「……何故笑われるのですか?」
辛うじて零れた質問も、結局なんの答えを求めているのか分かりませんでした。それでも答えてくれました。
「あの人と別れてから。
泣いてるんだよ、ずぅーっと!」