09 贄(にえ)
ふん、と。
押し潰された玲を見て、神は小さく鼻を鳴らした。
許すつもりなど、初めからなかった。
神殺しの下手人たる人の男も、巫女の役目を果たさずの男を助けた愚かな女も、嬲り者にして憂さを晴らしてやるつもりだった。
「ちと嬲り足りぬが……まあいい」
まもなく、男も黄泉に落ちる。
黄泉の女に惑わされ、絡めとられて落ちていく先は、深く暗い闇の底。そこで永遠に呪われるがいいと、神は冷たく笑う。
「塵芥のごとき人の分際で、神に手を出す愚か者めが。その罪、思い知れ」
――リィーン。
静かに、深く、鈴の音が鳴り響いた。
「なんだ、今頃」
忌々しそうに、神が視線を向け――眉をひそめた。
そこに転がっているはずの、瓢箪がない。どこへ転がったのかと周囲を見たが、どこにも見当たらない。
リィーン、リィーン、と鈴が鳴る。
静かに、深く、何度も鈴が鳴り、神の領域を満たしていく。
「邪神ごときが、わが領域を侵食する気か! 叩き潰してくれるわ!」
神が怒りに震え、声を発したそのとき。
「無理じゃの」
鈴の音に代わって、静かな声が響いた。
「な……に……?」
神が、驚愕のあまり声を失う。
つい先ほど――間違いなく叩き潰したはずの巫女が、白衣に緋袴という巫女装束を身にまとい、静かにそこに座っていたのだ。
「どういうことだ。貴様、私の力で潰れたはず」
「ほう。妾は潰されたのか」
玲はゆっくりと周囲を見る。
「はてさて、ここはどこだったかの。神域のようじゃが……」
リィーン、リィーン。
玲のつぶやきに応えるように、鈴が鳴った。
「……ああ、なるほど。そんなこともあったのう」
玲がクククッと笑った。
小馬鹿にするようなその笑い。神は怒りを募らせ、声を上げた。
「貴様、その笑いは何だ!」
神は怒りに任せ力をふるった。
先ほどとは比較にならぬ力が、玲に叩きつけられた。
例えるならば、山ひとつを乗せたようなもの。人の身で耐えられるはずのない、強大な神の力。その力に、玲は悲鳴を上げる暇すらなく押し潰された。
――はずだった。
「やれ、気性の荒いお方じゃ」
だが、まばたきの後。玲は、涼しい顔をしてそこに座っていた。
「お、おのれ!」
何が起こったのかわからない。もう一度やってみたが、結果は同じ。何度やっても、結果は同じ。玲は――塵芥のごとき人の身であるはずの巫女は、何度神の力に押し潰されても、平気な顔をして戻ってきた。
「戻って……?」
己の考えたことに、神は驚愕した。
戻ってくる――そう、この巫女は戻ってくる。
なぜそう感じた、なぜそんな風に考えたと、神は己が考えたことに、わなないた。
――クククッ。
不意に。
どこからか声が聞こえた。少女のような、少年のような、若い声。一体どこからと探ろうとして、初めて気づいた。
己の目の前に、巫女の瓢箪が転がっていることに。
――僕が示唆を与えたのさ。
――答えを知らぬまま贄になるのも、かわいそうだからね。
「な……な……」
瓢箪から聞こえてくる声に、神は恐怖を覚えた。
示唆を与えた、という。
この瓢箪に宿る何者かは、神である己が気づかぬうちに、侵食してきたという。
――自分から酒を飲んでくれたからね。
――簡単に侵食できたよ。
クククッ、と笑い声が響く。
――さあ、答えてみな。
――我が巫女は、なぜ戻ってこられる?
問いと共に、何かが神を侵食していく。侵食した何かが、有無を言わさず答えを示す。
「うそ、だ……」
神は、静かに座る玲を見る。
たどり着いた――いや、たどり着かされた答えが信じられず、首を振る。
「貴様……時の理を外れている……のか」
玲は何も言わず、ただ静かにほほ笑む。
その表情が、正解だと語っていた。
「ばかな、ばかな……そんなこと、たかが邪神にできるはずが……」
そんなことができるのは、時の理を作り出した存在だけ。
それは何者か。
そんな桁外れの存在を呼ぶとしたら、何と呼ぶべきか。
リィーン、と鈴が鳴る。
またしても何かが侵食し、己の疑問への答えを示す。
「創世の……神……」
言わされた。
そう言わされた。そうと気付いても抗いようがない。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
「さて」
狼狽する神に、玲は告げる。
「我が神は、おぬしを贄にせよとお命じじゃ。恨むでないぞ、巫女は神の命に従うものじゃからの」
玲が、両手をゆるりと上げて。
ぱんっ、と軽やかな音を鳴らした。
それは、柏手。己が仕える神を呼び出す儀式。
「その身を持って、我が神の怒りを鎮めるがよい」
玲の足元から、ぶわり、と闇が広がった。
底知れぬ闇。一度飲み込まれたら絶対に逃げられない、真の闇。その闇の底から、深く静かな鈴の音が聞こえてくる。
「ひっ……」
見てはいけないと思った。
だが目をそらせなかった。
それは、闇の底からこちらを見ていた。恐れおののく神を見て、目を細め舌なめずりし、クククッと喉の奥で笑った。
――なかなかの、ご馳走じゃないか。
闇が神を絡めとる。神が悲鳴を上げかけたその瞬間、神の中から恐怖が消え――得も言われぬ快感が走り抜けた。
「あっ……ああーっ!」
神が声を上げた。
闇に絡みつかれ、引きずり込まれ、押し包まれる。逃れようと暴れるも、強烈な快感に力が抜けていく。
そして、ムシャムシャとその身を食われるたびに、神は嬌声を上げ身悶えする。
――いつまでも見ていないで、閉じろよ。
「失礼いたしました」
玲は静かに首を垂れ、もう一度手を打った。
闇が閉じた。
闇の向こうに神が消え、神域が崩れ始めた。
「さて、と」
玲はひとつ息をつき、目を細める。
「では妾は、泥棒猫を追い払うとするかの」




