06 呼び声
――多々良。
どこか遠くから呼ばれた気がした。ウトウトしていた多々良は、ハッとなり目を覚ました。
「……玲?」
どこか切羽詰まったような、危険を知らせるような、そんな声だった――ような気がした。
慌てて体を起こし、隣の部屋へと目を向けた。
部屋を仕切る扉が開いていた。
背中から夕暮れの日差し差し込んでいるが、光は隣の部屋まで届かない。開かれた扉の向こうは薄暗く、何か別の世界のように見えた。
それに、人がいる気配はない。
「玲」
呼びかけてみたが、やはり返事はなかった。
「いない……のか?」
だが、何か気になる。
多々良に見つからぬよう、陰に隠れて息をひそめているのではないか、そんな思いが浮かんだ。
一応確かめておこうかと、多々良は腰を浮かしかけた。
だが。
あちらに行ってはいけない、と。
訳もなくそう感じ、思い止まった。
「なかなかに勘の鋭い」
つぶやくような声に、ハッとなって振り向いた。
世話係の童が、いつの間にか部屋の入口に控えていた。油断していたつもりはなかった。だが声をかけられるまで、童がいることに気づかなかった。
「お前」
「お目覚めでございますか、お客様」
「今の言……勘が鋭いとは、どういう意味だ?」
「はて、何のことでございましょう? 何も言っておりませんが」
多々良の鋭い目を、童は妖しげな笑みを浮かべて受け止めた。
「そんな怖い顔。せっかくの色男が台無しでございますよ」
「玲は……どこへ行ったのだ?」
「お連れ様でしたら、別室にてお召し替えの最中です」
クククッ、と笑いながら、童は衣装が入った籠を多々良の前に押し出した。
「お客様にもお召し物をお持ちしました。宴には、こちらを着ていらしてください」
「俺の服はどうした?」
「ひどく汚れておりましたので、洗濯しております。さすがにあれで宴に出ていただくわけにはまいりません」
国境にこれだけの館を構えているのだ、主はそれなりの地位にあるのだろう。薄汚れた旅姿では、確かに無礼かもしれない。
だが。
「これを……着るのか?」
童が用意した衣装を手に取って、驚いた。見慣れない異国の衣装だ。
上半身は、袖のない小さな着物一枚だけ。
下半身は、薄い布でできた筒状の着物に、両足を通して着るもの。
「はい。こちらをお召しください」
「ほとんど裸ではないか」
「大陸のはるか西にある、とても暑い国の衣装でございますので。お客様はたくましい体つきですから、きっとお似合いですよ」
「しかし、そちらの主に失礼ではないのか?」
「ご安心を。主からの指示でございます。それにこちらは王の装束とのこと。失礼ではございません」
「そう言われてもだな……」
「お客様。ひとつ、耳寄りなお話が」
戸惑う多々良に、童が笑み浮かべ囁くように告げた。
「お連れ様も、これに合わせたお召し物です。どうです、楽しみでございましょう?」
「あのな……」
返事に困った多々良を見て、童は楽しそうに笑った。
「お連れ様も始めは照れておいででしたが、何やら意を決し、ご承知いただきました。お客様、今宵はどうぞご覚悟を」
「……なんの覚悟だ?」
「まあ、おとぼけになられて。フラれても知りませんよ?」
「だから、俺と玲はだな……」
「はい、わかっております。清い関係でございますよね。しかしこれは我が主の意向。申し訳ありませんが、主の退屈しのぎにお付き合いくださいませ」
そう言われては仕方がない。
多々良は渋々、童が用意した衣装を手に取った。
◇ ◇ ◇
「宴まであと少しあります。お庭を散策などいかがでしょう?」
多々良が着替え終わると、童はそう言い残して立ち去った。
手持ち無沙汰で、やることもない。多々良は庭へと降り、ぶらりと気ままに散策した。
「さて、何が狙いなのか」
あの童はただ物ではない、ひとつ判断を間違えれば死地に陥る、そんな危険を感じていた。
だが、その感覚が思考にならない。
危険の正体、違和感の正体、それを考えようとすると頭の中に霞がかかる。危険をぼやかす甘いものが流れ込んできて、多々良の警戒心を緩めてしまう。
気を引き締めねばと思うのだが――その思いすら、すぐに泡となって消えてしまう。
「む?」
腰に手を当て、剣を佩いていないことに気づいた。
さすがにこれはまずいと、立ち止まり部屋に引き返そうとしたのだが。
――多々良。
甘い声が、引き返そうとする多々良を呼び止めた。
「玲……か?」
別の部屋で着替えているのではなかったかと、疑問が浮かび上がったが――次の声が聞こえてくると、それは泡と消えてしまった。
――こっちよ。
ふわりと風が舞う。
風が甘い声を運んでくる。
運ばれた甘い声が、多々良の耳をくすぐり心をかき乱す。
――こっちにきて。
甘い声に誘われ、多々良は声のする方へと歩き出した。
ふらふらと、かがり火に誘われる虫のように、多々良は声の方へと進んでいく。
――きて。
――はやく。
女の、甘い声。
からかうように、誘うように、媚びるように。
男を誘う甘く切ない声で、何度も何度も多々良を呼ぶ。
だめだ、止まれ、と。
戦場で培われた戦士としての勘が、多々良に危険を告げる。
――ねえ、はやく。
だが、そのたびに甘い声が聞こえてきて、危機感を消してしまう。多々良は声に導かれるままに、夕日に染まった庭を一人歩いていく。
そして、見つけた。
それは、炎のような形をした、真っ赤な花が咲き乱れる中に立っていた。
花と同じ色の、真紅の衣装。きらびやかな宝石がその身を飾り、美しい黒髪が風にたなびいている。
それが振り返った。
色白で細面、切れ長の目の、美しい女。
身につけているのは、遠い異国の衣装。
上半身は、両の乳房を包み隠す、しかしその形ははっきりとわかる布一枚。
下半身は、腰に巻いた、しかし両側に切れ込みが入っている布を巻いた姿。
美しく官能的なその姿に、多々良は言葉を失った。目のやり場に困りつつも、惹きつけられて目を離せない。
そんな多々良を見て、女は笑顔を浮かべた。
「多々良……ひょっとして、見惚れてる?」
嬉しそうな、幸せそうな、今にも蕩けてしまいそうな笑顔だった。潤んだ瞳で見つめられ、多々良の胸はドクンと脈打った。
全身が熱くなる。
今すぐ駆け寄って抱きしめたいという情欲に、負けそうになる。
「いや……その恰好……」
「これ? 遠い異国の踊り子の衣装だそうよ。似合うかしら?」
「う、うむ……なんというか……」
清楚な巫女姿とはかけ離れた、扇情的な姿に言葉が出ない。
どうしたものかと戸惑っていたら、くすっと小さな笑い声が聞こえた。
「そんなにうろたえなくても。私の裸、見たことあるじゃない」
「い、いや、あれは……事故ではないか、玲」
――と。
多々良が名を呼んだ瞬間。
女の顔から表情が消え、すうっと冷めた目になった。