02 目覚め
――多々良。
甘さを含んだ、優しい声に呼ばれた。
夢と現の狭間で、多々良は首を傾げる。聞き覚えのある女の声だった。だが、誰の声だったか思い出せない。
いつの間にか、眠っていたらしい。
だが、眠ったという記憶がなかった。多々良は戦場を転々とする戦士だ。油断して眠るなどありえないし、あってはならない。さて己が身に何が起こったのかと、多々良は身構えつつゆっくりと目を開いた。
多々良が寝ていたのは、どこかの屋敷の一室だった。
立派な毛皮の上に真新しいむしろが敷かれ、その上で眠っていた。大柄な多々良が寝転んでも十分な大きさの毛皮とむしろ。こんなものを用意できるということは、屋敷の主はかなり裕福なのだろう。
多々良は、静かに身を起こした。
ここでがどこなのか、見当もつかない。鈍い頭痛が、多々良の思考を邪魔する。だが、戦士としての勘が警告を発している。
一刻も早く、ここから出るべきだ――そう考え、傍に置かれていた剣に手を伸ばした時、再び声をかけられた。
『多々良、起きたの?』
声は、閉じた扉の向こう側、隣の部屋から聞こえてきた。
若い女の声だ。扉越しのせいか、少しくぐもっている。誰の声なのか、まだ思い出せない。
『多々良?』
「すまない……君は誰だったかな?」
『あのねえ』
多々良の問いかけに、あきれた声が返ってくる。
『半年も一緒にいたのに、忘れたの?』
「ああいや、その……」
『薄情な人ね』
ふふふ、と女が笑う。
その時、どこか遠くから――りん、という鈴の音が聞こえた。
聞こえるか聞こえないかの、微かな音だった。だがその音を聞いて、多々良の頭が少し晴れた。
一人の女の姿が、脳裏に浮かぶ。
長い黒髪を一つに束ねた、二十代半ばの女。色白で細面、切れ長の目が特徴の、清らかで美しい女。
「玲、か」
浮かび上がってきた名を口にする。
ようやく思い出した。そう、玲だ。半年ほど前に出会った、旅の巫女。なぜすぐに思い出せなかったのかと、多々良はぼやけた頭を振った。
「すまん、寝ぼけていた」
だが、違和感を感じた。何かおかしい。一体何がと首をひねったが、どうにも考えがまとまらない。
一体何が――と考えかけた時、違和感が泡のように消えた。多々良は再び頭を振り、扉の向こうへ問いかけた。
「玲、ここはどこなのだ?」
『……』
「どうした、玲?」
『……ここは国境にある館よ』
返ってきた声は、少しだけ硬かった。
「館?」
『ええ』
短い返事と、小さな咳払いの後。
柔らかさを取り戻した声が続く。
『峠で困っているご老人に会って、助けたでしょ。そのお礼にと招かれたじゃない』
「そう……だったか?」
『覚えていないの?』
「まるで」
『もう。私に隠れて、お酒でも飲んだの?』
からかうように告げた後、ふふふ、とまた笑う。
おかしい。
何かがおかしい。
だが、何がおかしいのかがわからなかった。頭の中に霞がかかったようで、考えがまとまらない。自分の身に何が起こっているのか、見当もつかない。
『ねえ、多々良』
甘さを含んだ声が、呼びかけてくる。
再び湧いた違和感に、多々良は首を傾げる。その甘い声、不快ではないが、どうにも落ち着かない。いったい何が――と考える間もなく、違和感は泡と消える。
『お湯につかってきたら?』
「お湯?」
『温泉があるの。私もさっき入ってきたところ』
長湯して、のぼせてしまったけど。
そう言って、また甘く笑う。
『扉を開けないでね。今、はしたない格好だから』
「あ、ああ」
『こんなことを言ったら、余計に開けたくなる?』
「あのな……」
からかうような、甘い声。
まるで男を誘っているような、少し媚びた声。
多々良の体が、どくんと脈打つ。隣の部屋で涼む玲の、あられもない姿を思い浮かべてしまう。霞がかった頭の中が甘いもので満たされていくようで、その感覚に酔ってしまいたくなる。
これは、いかん。
めまいまでしてきて、多々良は慌てて頭を振った。
多々良とて男だ。玲のような美女に誘われれば、抗い切れる自信はない。この甘さに酔いしれてしまえば、ためらうことなく扉を開けてしまうだろう。
『多々良?』
「いや……うむ、そうか。では、俺も湯につかってくるとしよう」
『ええ、いってらっしゃい』
多々良は邪念を振り払うように立ち上がり、温泉へと向かった。
いつも手放さぬ剣を置いたまま部屋を出たことに、多々良は気づいていなかった。