12 峠
りん、と鈴の音が聞こえた。
――多々良。
不安そうな、女の声に呼ばれた。
闇の底で凍り付いていた体が、ようやく動き出す。暗い穴の底から、光の差す方へと浮かび上がっていき、やがて多々良は目を開いた。
「多々良」
安堵の息とともに、呼びかける声が聞こえた。
「目が覚めたか?」
多々良をのぞき込む、女の顔が見えた。
長い黒髪を一つに束ねた、二十代半ばの女。色白で細面、切れ長の目の整った顔立ち。
「ああ……玲、か」
多々良が答えると、女――玲は、ホッとした顔になった。
「大したケガはしておらぬようじゃが。なかなか目を覚まさぬから、心配したぞ」
「……何があった?」
「さて、妾にもよくわからぬ」
山道を抜け、最後の峠を越えて村へ入ろうとしていた多々良と玲。
だが、二人が峠の頂にさしかかった時、地面が激しく揺れ、峠が崩れた。
「ああ」
峠を越えたら、以前世話になった村がある。そこで多々良の故郷まで船を出してもらえないか頼もう、そんな話をしながら歩いていたら地面が揺れた――確かに、そうだった。
だが、その後のことがよくわからない。
どこか不思議な場所で目を覚まし、誰かに会い、最後に強烈な光景を見た気がするのだが――どうしても思い出せなかった。
「妾も似たようなものじゃ。気がつけば、こうしておぬしを膝枕しておっての」
静かな声と疑惑の眼差しが、仰向けに寝転ぶ多々良に落ちてきた。
「おぬし、妾が気を失っているのをいいことに、膝枕をさせたのではあるまいな?」
「さすがに、そんな図々しいことはせぬぞ」
玲の疑惑の眼差しに、多々良はまっすぐな視線を返した。
そのまましばらく。
やがて玲は小さくため息をつき、多々良の額を軽く叩いた。
「足がしびれてきた。そろそろ起き上がってくれぬか」
「おお、すまん。なかなかに心地よくてな」
多々良は起き上がり、ニカッと笑った。
玲は、ほんの少しむくれた顔になり、ぷい、と横を向いた。
どうやら照れているらしい。相変わらずの初心さ。乙女か、とからかいたくなってしまう。
(いや、今はそれどころではないな)
多々良は気を引き締め、周囲を伺った。
二人がいるのは、峠の頂の少し手前。
周囲に人の気配はなく、聞こえるのは葉擦れの音のみ。
「これといっておかしなところはなさそうな感じだが……」
「神、かもしれぬな」
多々良と共に周囲を伺っていた玲が、厳しい顔になった。
「神?」
「神気が漂っておる。もしかしたら、我ら二人、神域に呼ばれていたのかもしれぬ」
峠は、境であり間である。
そこには神がいて、時に峠を行く者を異界へ誘い込むと、玲は言う。
「ふむ。俺は何も覚えておらぬが」
「妾もじゃ。さて、どうしたものかのう」
動いてよいのかどうか。
多々良は鋭い目で周囲を探ったが、危険そうなものは見当たらない。
「ん?」
「なんじゃ?」
「いや……瓢箪はどうしたのだ?」
「ああ。目が覚めたときには持っておらなんだ」
「気を失っている間に、誰かに持っていかれたか?」
「ならば荷物も持っていかれておろう。さて、どこへ転がっておるのかのう」
玲がぼやくようにつぶやいたとき。
りん、と鈴の音が聞こえた。
「玲」
「うむ」
鈴の音は、道を外れた森の中から聞こえた。多々良と玲はうなずき合うと、鈴の音がした方へと歩き出した。
「これは」
森の中を進むと、少し開けたところに出た。そこに人が腰かけられるほどの岩があり、玲の瓢箪はその前に転がっていた。
だが、岩の前にあったのは瓢箪だけではない。
瓢箪の隣には、白骨化した遺体もあった。
「……この者一人、のようじゃな」
「うむ。野盗の仕業、か?」
峠を越えようとしたところを野盗に襲われ、ここで殺されたのだろうか。
多々良はそのまま近づくと、しゃがんで遺体を改めた。
だが、遺体のすぐそばには行李があり、荒らされた形跡はない。風雨にさらされてボロボロだが、衣服も身に着けたまま。
しかもこの服、巫女装束のようだ。
「旅の巫女、か?」
りん、と。
また、瓢箪の鈴が鳴った。
――よく見ろよ。
少年のような少女のような、若い声が聞こえた気がした。驚いて玲を見たが、玲は「何か?」と不思議そうに首を傾げただけ。
(玲には、聞こえていないのか?)
多々良は意を決し、転がっていた行李を開いた。
行李の中に入っていたのは、扇と鈴、そして何かをくるんでいる布だけ。旅の途中にしては荷物が少なすぎた。
「ここへ、祈りを捧げにでも来たのか?」
胸騒ぎがした。
何か悪い予感がする。他に手がかりはないかと、多々良は布を手に取り、そっと広げた。
「これ……は……」
ドクン、と多々良の心臓が跳ねた。
布にくるまれていたのは、少し欠けた翡翠の勾玉。その大きさと欠け具合に、多々良は見覚えがあった。
「どうしたのじゃ?」
顔を青ざめさせた多々良に、玲が声をかける。だがその声は、多々良の耳を素通りした。
「嘘だろ……おい、勘弁してくれ……」
まさかと思いつつ、勾玉を手に取る。見間違いであってくれ、そう願い何度も改めたが――間違いない。
それは、かつて愛した女に多々良が贈った勾玉だった。
「なぜだ。なぜこんなところで……」
呆然とつぶやきながら、多々良が膝をついた。
「なぜ死んでいるんだ……朱火」